7
そんなこんなで、キリがこの世界に来てからすでに三年が経っていた。
十八歳になったキリは、遠目に見えて来た港を眺めながら、本来自分が送っている筈だった平穏な高校生活を想像し現在との落差に肩を落とす。
(ファンタジーなんて……、ファンタジー世界なんて、絶対に体験するものじゃないって)
なんせパソコンやスマートフォンがないので何も検索できないし、電車や飛行機はおろか車すらないから基本的な移動方法は徒歩か動物に乗るかだし、コンビニもゲーセンもカラオケもないしとないない尽くしだ。
異世界転移などというのはあくまで小説やゲームで楽しむもので、実際に経験するのは過酷に過ぎると過去の己に説教をしてやりたかった。
(王子も騎士も魔術師も出て来たけど、魔術や治癒の修業は滅茶苦茶スパルタだったし。身を守るためにって武術も必須だったし、礼儀作法も叩き込まれるし。他にも色々させられるし……)
事実この三年間を振り返れば、それこそ目の回るような忙しさだった。
半ば以上強制されたものだったとは言え、それらにやりがいがなかったかと訊かれれば否だが――。
それでも、そんな日々の中でもキリが帰るという目的を忘れたことはなかった。
自分にとって、元の世界に戻らないということは敗北でしかない。それは理不尽に屈服させられるのと――それを受け入れるのと同じことだった。
(……あの世界で、私を待っている人がいるかどうかは分からないけど)
たとえ、そんな誰かが一人としていなかったとしても。
そのためだけに己を磨き、命の危険と隣り合わせの『瘴気』の浄化に努めてきたのだ。
――なのに、だ。
すっと瞳を凍えさせたキリの横で、ロウェンの歓声が上がった。
「見えた、あそこだ!」
「見つけたの? どこ?」
キリは首を巡らせ、ロウェンの指差す先を追った。確かに、小舟でも寄せることができそうな海岸がある。
「あそこなら、無事につけられそうだろ」
安堵を滲ませた声に、キリも同感と頷いた。
「ねえ。そういえばあの港町の名前って何だったっけ」
「インザナだ。暖流沿いにあるから、国内外を問わず寄港する船が多いな」
「……そっか」
個人的にはあまり嬉しくない情報を聞かされ、キリの声のトーンがわずかに低くなった。
とはいえ、ここ数日の移動で物資が色々と心もとない以上贅沢は言えない。特に食料はすっかり尽きてしまっているのだ。
「じゃあ、とりあえず上陸することとしますか」
そこまで行けば後はロウェン一人でも何とかなるだろうと、キリは楽観的に考えていた。
――の、だが。
どうにか小舟を岸につけて上陸し、ロウェンと歩き出そうとしたときである。
「……ロウェン?」
すぐ近くにあった船着き場にいた一人の男性が、そう声をあげた。
「え、ラースか?」
その呟きに引かれ、キリはロウェンの視線を追いかける。そこにいたのは明るい金茶の髪をした青年だった。ラースというのは、彼の名前だろうか。
「ちょ、おまえどうしてここに!?」
ラースはロウェンへと駆け寄ると、その肩をつかんで顔を覗き込んだ。
その表情には確かな安堵が滲んでいる。
(知り合いみたいだし……、なら、もう大丈夫かな)
だったら後はさっさと立ち去ろうと、周囲を見回していたキリの腕が、不意に引かれた。
「あれ?」
きょとりと目を上げると、何故かすぐ傍にロウェンが立っていた。いつの間に近くに来ていたのだろう。
「どうしたの?」
「どうしたの、じゃない」
返ってきた声音は、どういうわけか非常に不本意そうだった。
怪訝に思い見上げるキリに、ロウェンはやや声を低くして言った。
「何も言わずに勝手にいなくなろうとするな」
うわ、とキリは思った。どうやら思っていた以上に彼は鋭いようだ。
これ以上関わり合いにならない方がいいだろうと、すぐにでも姿を消そうとしていたキリの心情を察していたらしい。
「いや、知っている人に会えたんだから、もういいかと。ここまで来たら後はどうとでもなるだろうし」
それに、極力人目を避けたいというキリの側の事情もある。
だからとっとと辞去しようとするキリに、ロウェンはしかめっ面で言った。
「おまえな、これだけ世話になっておいて、相手に礼一つしないまま別れることなんてできるか」
「いや、別に。そんな気にするほどのことじゃないし」
「んなの、納得できるか!」
次第に二人の会話が押し合いになりだした。
とりあえずここからとんずらしたいキリと、それを止めようとするロウェンとの主張は平行線なので、双方重なる余地はない。
だがそんなキリとロウェンの間に、第三者の声が割って入った。
「とにかく、話をするにも場所を変えない? 何か段々人の目が集まって来てるし」
困ったような笑顔のラースに話しかけられあたりを見回すと、確かにちらちらとこちらを見ている人たちの姿があった。
(あ、まずった)
人目につきたくないキリにとって、ラースの忠告はまさしく急所を貫く一撃だった。
問答無用でロウェンを振り切って逃げ去ることも考えたが、生憎今の自分に、それだけの力は出せそうにない。
改めて自覚した空腹と、ついでに保存食一つない革袋の中身を思い出し、肩に掛けた革紐が逆に重く感じた。
そしてそれは、横にいる男も同様だったらしい。
耳に届いた音は、紛れもなく空腹を知らせるそれだった。
明らかにロウェンの腹部から聞こえたと思しき響きに、ラースは少し表情を変える。
「……分かった。ひとまず話は置いといて、先に何か食べよう。近くに旨い店があるから、君も一緒に」
最後の一言はキリに対してのものだったが、しかしその申し出には頷けなかった。
「あ、いえ。結構です」
「おまえな」
まだ言うか、とでも言いたげなロウェンにこちらを向かれ、キリは急いで首を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて! えっと、その、私食べられないものが多くて」
「はあ?」
不可解そうに見下ろして来る男性二人に、キリは言葉を選んで先を続けた。
「好き嫌いとかの話じゃなくて。体質的な問題で受け付けない食材がたくさんあるの。だから自分で作ったもの以外を食べると、最悪倒れる可能性すらあって」
それが掛け値なしの事実であるからか、力説するキリの主張を彼らが疑う素振りはなかった。
けれども、二人が納得してくれたのはそこまでだった。
全く気にする様子もなく、ラースは飄々と左側にある一本の道を指差した。
「あー、じゃあ、取り敢えず俺の家に行こっか。昨日色々と食材が届いてるから丁度いいや」
「え、いえ、その……」
「いいからいいから。あ、こっちの角を右ね」
そうして抵抗虚しく、キリは二人に押し切られるようにしてラースの家へと向かうことになったのだった。




