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 目を見開き体を強張らせているキリに、ロウェンが苦笑した。


「そんなに驚くようなことか?」

「え……。何で? どうして、気づいて……」


 動揺のあまり、たどたどしく言葉を続けるキリの頭に、ぽんと大きな手のひらがのせられた。


「まあ、何となくだ。うちに寄ったときのおまえの様子を見てたら、そう思った。どこっていうわけじゃないが、少し重荷が下りたような、そんな顔をしてたからな」

「…………………………………」


 キリは無言のまま、己の頬にぺたぺたと手を当てた。


(そこまで言われるほど、分かりやすかったかなあ……)


 言っては何だが、自分の演技は筋金入りだ。

 昔から不仲だった両親を見て育っているので、心を隠して振る舞うことには人よりずっと慣れている方だと思っているのだが。

 とはいえ、今はそんなことに気を取られているような場合ではない。

 半ばやけくその心境で、キリは素直に明かすことにした。

 そこまで見透かされているのなら、誤魔化すのも馬鹿馬鹿しい。


「……そうよ。ここで何もかも放って行けば、私はこのまま故郷に戻れるわ」


 遺跡で見た物とは違い、ここにある魔法陣はすでにあちこちほころびてはいるものの、それでもキリが帰還の術式を行使するくらいならどうにか保ちそうだった。

 そしてキリはここに来る前に、その手がかりを見つけている。


「じゃあ、どうして帰らないんだ?」


 真っ直ぐなロウェンの問いかけに、キリはふっと笑みを零した。


「そんなの、私だって聞きたいわよ。その方が、この国の人たちには都合がいいでしょうに、『どうして』あなたは私を帰そうとするの?」

「ここでおまえが全て放り捨てて帰ったとしても、俺は別に何とも思わないけどな。それに、おまえを含めた歴代の『聖女』たちに俺たちが何かされたとしても、それはただの自業自得だ。だから、おまえがまだここに留まっている理由が分からない」

「自業自得なんだ?」


 面白そうな顔になったキリに、ロウェンは首をすくめた。


「というか、先人たちのつけを払うときが来たってだけのことだ。彼らのした行いの結果として今があるのなら、この時代に生きている以上、それは俺たちが払うべき対価だ。それに――」


 ロウェンの口調が、そこでふと軽くなった。


「受けた恩を忘れて、その相手を裏切るような輩に成り下がるのは、断じて御免だ」


 全て承知の上で、それでも揺らがない声と眼差しに、キリは小さく息をついた。


「だから、帰れるのならすぐにそうしろ。これ以上こっちの事情におまえがつきあうことはない」


 気負いのない様子で言われ、思わずキリは苦笑を浮かべる。


「この状況でそれを言うの?」

「こんな状況だからこそだろ。少しでも事態が落ち着いたら、全力でおまえの妨害に来るやつがいるぞ。例えばそいつとかそいつとかな」


 ちらりと視線を向けた先に居るのが誰かなど、今更口にするまでもないが。


「確かに、そうなんだけどね」


 キリはそこで一度言葉を切った。それから改めてロウェンを見上げる。

 彼がそこまで言うのなら、おためごかしでない自分の正直な気持ちを明かしてもいいと、そう思った。


「でもね、私はもう決めたから。……たとえ誰に何を頼まれても、請われても、関係ない。それを決断の理由にはしない。私の選択の責任は私だけのもので……、誰にも、譲らないって。だから、今もそうするわ」


 この先に起きることは、他でもないキリ自身の選んだことだ。

 そう告げたキリに対するロウェンの返事は短かった。


「――わかった」


 声とともにロウェンの腕が伸ばされ、キリの頭を軽く抱き寄せた。驚く間もなく、大きな手が一度だけくしゃりと髪を撫ぜる。


「なら、そうしろ。……じゃあな、キリ」


 そのとき、キリの心臓がどくんと音をたてた。


――キリ。


 呼ばれたその名に、キリはとっさに唇を噛んでいた。

 離れて行く手のひらに指を伸ばし、引き留めるように握りしめる。


「キリ?」

「――違う」


 そうじゃない、と胸をつくような感情がキリの中に込み上げて来た。

 どうしてなのかは、キリ自身にも分からない。

 自分は何も、彼に嘘をついたわけでも偽りを告げたわけでもない。

 けれど何故かキリは、この瞬間彼が口にしたそれが「本当」ではないということが、どうしようもなく嫌だった。


「違うの」


 頭の隅から聞こえる声は、言うべきではないと、そう告げている。


 ――でも、それでも。


「違うの、私の――」


 爪先立ちで背伸びをし、キリはロウェンの耳元に短く囁いた。











 遠ざかって行く靴音が次第に小さくなっていく。

 それもいつしか消え去り、静まり返った広間には一人佇むキリの姿だけが残った。


(一人、だよね……)


 とはいえ、見える人間であれば、この薄暗い場所に青白い顔をした大勢の女性たちが彷徨っているのが分かっただろうが。


(まあ、正確に言うと彼女たちは残留思念だし、正真正銘の生者は私だけなんだけど……)


 でもどちらにしろ、シュールな光景に変わりはないだろう。

 別にホラーが好きというわけではないが、さりとて耐えられないほど怖がりでもない自分に、今更ながらキリは感謝した。

 ふう、と深く息を吐く。


「じゃあ、始めますか」


 軽い口調で呟くと、キリは己の左腕にある魔術具に手を伸ばした。

 引き抜こうとするキリの右手に、腕輪の反発する力が伝わってきたが、当然無視である。


(前に外した時より、拘束が強いな)


 これを嵌めたのはキニスではなくレジオンだろうが、今回の抵抗の方が強いのは、魔術の契約の際に用いた名前が原因だろう。おそらく、「ミヅキ」ではなく「キリ」の名前で腕輪を結びつけたに違いない。


「でも、残念でした」


 くすりと笑い、キリは右手に力をこめた。

 初めてロウェンに名乗ったときに告げたように、「キリ」は完全な本名ではないのだから。

 けれども、別に「ミヅキ」が偽名だと言うわけでもない。


 そもそも、魔術において名前というのは非常に重いものだ。

 ゆえに仮に魔術の契約の際に偽名を用いたとしても、その時点でそれが真実の名に置き変わることになる。それゆえ、魔術に関わる人間は名を偽ることはしない。そんなことをしたとしても、正しい魔術の効果を発揮することはできないからだ。


(そういう意味で言うと、私の場合は想定外の連続だったんだよなあ……)


 ふうっと小さく息をつく。

 キリがこちらの世界へ召喚されたのが、ほんの数ヶ月違っていたら、おそらく事態は全く異なる様相を呈していたことだろう。

 もしも自分が何事も無く中学校を卒業し、高校へと入学していた、その頃だったなら。


 そもそも、桐生という姓は、キリの母の旧姓なのである。

 中学三年生の秋の終わりに両親が離婚するまで、キリは父の姓である水月を名乗っていた。だが、親権者が母となり、キリの姓は桐生に変わることとなった。

 しかし、書類上はそうであったとしても実際にこれまでの名前を変えて新たな生活を始めるには、いささか時期が微妙だったのだ。

 残りの中学生活はせいぜい三ヶ月程度。そんな短い期間だというのに、学校側に届け出て名簿だの何だの一式を変更してもらうのは面倒以外の何物でもない。

 そういった理由から、中学を卒業するまではキリは水月という姓を使い続けることにしたのである。

 それゆえに、最初にこちらで訊かれたときに、とっさに水月という名が出てしまったのだ。


(だってねえ、ファーストネームが先に来るこちらの世界と違って、日本社会で名前を尋ねられたら、大概は姓を名乗る人間の方が多いだろうし)


 ――そうして、全く無自覚に名乗ったその名前が、一時的に使っている姓だったということが、キニスを始めキリをこちらに招いた人間たちの盲点となったというわけだ。

 キリにかけられた暗示もこの腕輪も、魔術の要にされたのは「ミヅキ」という名だ。

 だからこそ、こちらにきて数カ月が経過し、予定通りにキリが自分の姓は「桐生」だと認識した時点で、その効力が一気に弱まったのだろう。


(フォルカーたちにしてみたら、丁度私への教育が上手くいきかけたところで正気に返られるっていう最悪なタイミングだっただろうけどね)


 一度外された腕輪を再び着けさせるのに、「キリ」の名前を核としたのはいい目の付けどころだったが、それでも姓の一部でしかない以上、完全に拘束するほどの力はない。


(――なのに、なんでかな?)


 左の指先から完全に腕輪を抜き去るその前に、キリはふとそう考えた。

 そんな経緯を承知の上で、それでもキリはさっきロウェンに自身の「本当の名」を告げたのだ。

 そうしたのは、きっと。

 最後までキリを利用しようとしなかった彼に。そして、帰れと言ってくれた彼に。――せめて、これくらいは。


(多分、ロウェンには一つだけでも本当のものを渡していきたいって、そう思ったんだろうな)


 そんな己に、キリは小さく苦笑した。












 手の上にのせた銀の輪は淡い光を放ち、そこに刻まれた幾つもの名を浮かび上がらせていた。

 カナン、マルグリット、ルイーゼ、メリル、ナシャーナ……。

 それらはみな、この場所に眠るキリの先代たちのものだった。


(まさかこんなところで手掛かりになるとはね、当人たちの本意でもなかっただろうけど)


 だが、手元にこれがあったことで、残留思念である彼女たちに働きかけやすくなったのは事実だった。

 その全ての名を眺め、キリは一振りの短剣を取り出した。この守り刀は『聖女』として各地を巡るときにも常に携えていたものだったので、先日王宮に保護された際にも没収されなかったのだろう。

 鞘をすらりと払うと、露になった刃の切っ先が冴え冴えときらめく。

 それからキリは足元の魔法陣を見つめ、一点をめがけて手にした剣を真っ直ぐに突き刺した。

 その次の瞬間に、陣を構成していた幾筋もの光が一気に膨張する。切れて弾けたそれは、あたかも無数の蛇のように床の上をのたうちまわった。

 暴れ狂うたびに光は砕け散り、闇の中にきらめく粒子が舞う。

 もし星の海に沈むとしたなら、こんな光景を見るのだろうか。

 そんなことを思いながら見守るキリの前で魔法陣から放たれていた光は徐々に弱まり、いつしか消え失せた。

 そうして周囲は深い闇に閉ざされたが、キリは恐れる様子もなく手にした腕輪を揃えた両手の上に置き、静かに前方へと持ち上げた。

 本当の意味でキリがこの腕輪を使うのは、これが最初で最後だろう。

 キニスには歴代の中でも最弱の力しか持たないと言われたが、しかし今の自分には契約による枷はないのだ。


(と言っても、腕輪に刻まれたのが本当の名前じゃないから全力を出せなかったってことに気付いたのは随分後のことだったから、それについてはあんまり人を責められた話じゃないんだけど)


 キリはこくり、と小さく喉を上下させた。

 己にとって唯一の、その響きを唇にのせる。

 この腕輪と、自身の持つ全ての力を用いるための、その要として。


「私は真奈《まな》。――桐生、真奈。当代『聖女』として、あなたの力を使わせてもらうわ」


 そう告げた瞬間、手のひらの腕輪が輝いた。

 冷たく硬い筈の金属が、その姿を忘れたかのように瞬く間に溶け落ちる。

 キリはとっさに指を合わせて手で器の形を作った。その中にあるのは、銀色の光る水だ。

 気がつくと、たくさんの女性たちがじっとこちらを見つめていた。その視線に微笑み返し、キリはゆっくりと歩き出す。

 こつり、こつりと靴音をたてて魔法陣の中央に歩み寄った。三年前に自分の招かれたその場所に立ち、静かに手を開く。


 ――ぱしゃん、と水音が響き渡った。


 キリの手のひらから流れ落ちた水は、円の形を保ったままゆるやかに広がり続けた。

 床の上の魔法陣を覆い尽くしたところで、ようやくその動きが止まる。――そして。

 どこからか、大きく風のうなる音が響き始めた。


(――『扉』が開いた)


 とろりとした闇をまとうこの風を、キリは一度だけ感じたことがあった。

 自分はこれに呼ばれて、この世界へと引き寄せられたのだ。

 だが、ここでこの『扉』を開けたのは、自身が帰るためにではない。

 漆黒の双眸に決意と郷愁を同時に湛え、キリは真っ直ぐに前を見据えた。

 視線を巡らせて、自分に向けられた顔を一つ一つ確かめる。

 そのどれもがまだ若く、年の頃は十代半ばから二十代くらいだろうか。もしかしたら生前の、それも『聖女』として招かれた当時の姿を取っているのかもしれない。

 ……この場に集う女性たちの全員が、過去の、そしてあったかもしれない未来のキリの姿だった。

 彼女たちはすでに魂ですらなく、肉体が朽ちた後に残った思念の欠片だ。そう分かってはいても、彼女たちをこのままにしてはいけなかった。


 それがたとえ想いの一片に過ぎなくても――、でもせめて、それだけでも自由にしてあげたかった。


「私は、帰るわ。そう決めてる。……でもそれは、今じゃないの」


 届かないと分かっていても、キリはその言葉を口にしていた。――ここにいない『彼』へ。


「帰りたいよ、今すぐにでも。だけど、まだ帰らない。私は、私を利用したひとたちと同じにだけはなりたくないから」


 この広間に辿りつく前から、キリの耳にはその声が届いていた。


 ――戻りたい。

 ――会いたい。

 ――悲しい。

 ――寂しい。

 ――苦しい。

 ――――――帰りたい。


 彼女たちをこのままに置き去りにして一人戻っても、キリはきっとずっと後悔し続ける。

 ここで魔法陣と魔術具の力を使い果たした結果、自分が帰れるのは遥かに先のことになるのかもしれないが、それでも、それだけのことだ。

 たとえ遠回りになったとしても、自分にはまだ選べる道が残っている。

 まだ、終わりとはならない。

 だからキリは、自らの「姉」達に言った。


「――どうか、行って。もう、あなた達は自由だから。あなた達は、あなた達の行きたい所に、行けるから」


 そう告げたとたんに、ぶわり、と吹き上がる風を感じた。

 それは広がり、流れていく。――どこまでも遠くへ。

 繋がれていたものが解き放たれ、遥か彼方へと上って行く。

 うねりを上げる風の向こうで、軽やかな笑い声が耳に届いた。



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