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「え……」


 室内に踏み込もうとしたとたん、ぶわりと押し寄せて来た密度の濃い空気に、一瞬キリの足が止まった。

 扉を開くまで気付かなかったが、ここに満ちているのはとんでもなく濃密な『瘴気』だ。

 浄化のために各地を巡ったキリでも、ここまでのものにはそうそう遭遇したことはない。

 そう思いかけ、キリは慌てて背後を見遣った。


「……………………………」

「キリ?」

「ううん、何でもない」


(心配はいらなかったか)


 とっさに振り返ったが、ロウェンの表情は相変わらず平然としたものだ。

 これが剣のおかげなのか、あるいは本人の鈍さなのかは不明だが、この顔色を見る限り気にする必要はなさそうだ。

 むしろ、気にしなければならないのは。


「おーい……」


 こりこりとこめかみを指でかきながら、キリは呼びかけとも独り言ともつかない声量で言った。

 キリが三年ぶりに訪れた広間の中央に、棒立ちになって立ち尽くす長い赤髪が見える。

 背中を向けていても、それが誰か分からないわけがない。


「ほんとに、何やってるんだか」


 ぼそっと零し、すたすたとキリは歩き出し――た、ところでぐいと腕を引き戻された。


「って、待てよ!」

「ロウェン?」


 小首を傾げると、チッと舌打ちの音がした。


「んな、ほいほい近づくな! あいつの様子、明らかにおかしいだろうが!」


 身動ぎもせず、魔法陣の中心に立っているキニスの後ろ姿に視線をやるロウェンの声音は、きつく鋭いものだった。

 彼のその警戒心は、まあ分かる。

 しかし自分たちの気配にキニスが反応する様子が全くない以上、傍に行ってみるしかないだろう。


「多分、大丈夫じゃない? 私は勿論ロウェンにも保険があるわけだし」


 彼の腰元にある剣をちらりと見遣り、そう言った。

 そうでもなければ、自分もさすがに魔術師でもない彼を置いてキニスに近寄るような真似はしない。

 多少の心外さを込めてそう言うと、キリはキニスの正面へと回り込んだ。

 そこにあったのは、ほんの少し前まで頻繁に顔を合わせていた傲岸不遜な男の顔――の筈だったのだが。

 けれど、今キリが目にしている白皙の面差しは大理石でできた彫像のように固く硬直し、青灰色の双眸は虚ろに開かれている。

 あたかもそれは、キリの世界の神話に出て来る蛇の髪を持った女によって石化された者のようだった。


「これは、生きてる、よな?」


 微動だにしないキニスの様子を見て、ロウェンがそろそろと訊いて来たが、生憎キリにその返事をする余裕はなかった。


(これが見えてないロウェンが、ほんとに羨ましい、……ていうか妬ましい)


 キリは仕方なく、それまで微妙に逸らしていた視線を己の足下――正確には床上の魔法陣へ――に向けた。

 ぞわぞわとした寒気が、背中を伝っていくのを感じる。


「一体、どうしろってのよ……」


 ロウェンの目には一切映ってはいないだろうが、キリの両目にはキニスの足元から這い上がり、彼を束縛している何十もの手や腕が見えていた。

 真っ黒な影のようなそれらはどれも細くたおやかで、見るだけで女性のものだとすぐに分かる。

 キニスにまとわりつくその腕たちは、今にも彼を地中深くに引きずり込まんとでもしているかのようだ。


「まったく、どんな馬鹿をやらかしたのよ?」


 キリはそう声を張り上げると、身を返して自分たちが入って来たのとは逆の方向へと向き直った。

 そして、この場にいるべき筈のもう一人の名を口にする。


「どうなの? ――レジオン?」











 こつり、と靴音が響いた。

 次いで、暗がりから現れた真っ直ぐな灰色の髪を見て、キリは己の予測が正しかったことを知る。


「まさか、こんなに早く君がここに来るとは、思わなかったな」

「行き掛り上こうなっただけだけどね。でも、それはそっちだって同じでしょ。キニスのこれ、どうしてこんなことになったわけ?」


 悪寒を堪えながら床へと視線を向けるキリに、レジオンは「わからない」と呟いた。


「わからない?」

「この召喚の魔法陣は何十年に一度使われるかというものだ。これを読み解くことができるのは専門の知識をもった魔術師ぐらいだ」

「そんなことは知ってるわよ。私が訊きたいのは、あなたたちがこの魔法陣を用いて何をしようとしていたのかってこと。ここから凄まじい『瘴気』が溢れて出しているのは、これがおかしくなったのが原因でしょう。というか、――そもそも、この魔法陣は何なの」


 これは単に異世界人の召喚に使うためだけのものではないんでしょう、とキリが声を低めるとレジオンの緑色の瞳が暗く翳った。


「気づいていたのか?」

「ここに来る前に、ベイネルにあった遺跡を見て来たもの。あれと比較したら明らかにこの魔法陣が異質なものだって分かるわ。どうして、こんなおかしなことになっているのよ」


 キリは一度きつく唇を噛みしめた。


「あなたは――、ううん。あなたたちは、何のためにこの魔法陣を用いていたの?」


 硬い声音で問いかけられて、レジオンはわずかに躊躇うように視線を揺らした。

 それでも容赦なく見つめ続けるキリに観念したのか、ゆっくりと重い口が開かれる。


「魔法陣がおかしくなった直接の原因は、『聖女』が帰れなくなったことだ。『狂王』の代以前にも、自らの意思で戻らなかった娘はいたから、気づくのが遅れた。本来であれば『聖女』の召喚の際に、この魔法陣の『扉』は開かれて、そして帰還と同時に閉ざされる仕組みになっているんだが」


 しかし、帰還の術式が失われたことでその法則が崩れた、とレジオンは続けた。


「……ちょっと待った」


 苦虫を百匹ほど嚙み潰したような表情でキリが片手をあげた。


「それは、……つまりこういうことなわけ? アルティリエより後、ずっとこの『扉』は開きっ放しだったってことなの?」

「おそらくは」

「――馬鹿じゃないの!?」


 キリは絶叫した。


「年々『瘴気』の量が増えて、『聖女』が呼び出される間隔が短くなってる!? んなの、当たり前でしょうが! こんなのを放置しておいてどうにかなるわけないでしょ、根本から対処しなさいよ!」


 凄まじい怒号が広間に響き渡り、一瞬ののちに静まり返る。

 床から伸びていたおびただしい数の黒い手たちですら、その剣幕に怯んだかのようにぴくりと揺れたが、生憎頭に血の上っていたキリの目には入らなかった。


「だったら明らかに、この魔法陣も『瘴気』の要因の一つじゃない。異界の『瘴気』は間違いなくここからも流れ込んでいるんだから」


 それから改めて魔法陣へと目を向け、キリは苦り切った声を出す。


「言っとくけど、もうこの魔法陣は相当おかしくなってるわよ。というか、これでよく無事に私の召喚ができたもんだわ。それどころか――」


 そこで、キリの言葉が途切れた。さすがにそれ以上のことを口にするには躊躇いがある。


(次以降の召喚は不可能かもしれないだなんて、言わない方がいいか)


 そんな未来の話など、キリの預かり知るところではない。

 だが、と、キリの双眸が深く沈んだ。

 この世界に対する恩も愛着も、キリにはさほどない。――一方的に自分が奪われた三年間は、そんな安いものではない。

 一度深呼吸をして、キリは口を開いた。


「それどころか、こうして『瘴気』をまき散らすようなことにまでなっていて。これはもう、キニスにも手に負えないくらいに変質してるってことなんでしょうけど。――それで、よ」


 キリはレジオンに向き直った。


「何の足掻きであなたがこの場に留まっていたのか、聞かせてもらいましょうか。言っておくけど、フォルカーの身柄を先に抑えられなかった以上、あなたに勝ち目はないわよ」

「……何だと?」


 最後のその一言に、それまで平然としていたレジオンの面持ちが一変した。


「随分はっきりと断言するんだな。私に勝ち目がないと、何を根拠に……」


 口調こそ抑えていても、その忌々しげな表情は隠しようがなかった。

 なんだかんだといえ、自分も彼との付き合いは三年間に及ぶのだ。

 極力表に出さないように隠してはいたものの、レジオンのフォルカーに対する敵愾心が生半ではないことはキリも気づいていた。


(負けん気が強いのは悪いことじゃないけど、そういうのは一個人としてやってよ)


 口にはしなかったが、キリは胸の内でそんな台詞をこっそり零す。

 ――それとも、そこまでレジオンはフォルカーの下につくのが嫌だったのか。

 確かに、仕えるのがジークフリートであれば、適当に見下しながら相手をしていても腹は立たなかっただろうが。


「私がここに来たのがその答えよ。たまたまだけど、私もフォルカーもエドガーも、このひとの所で話をしていたから、私兵に見つかる前に先んじて動けたの。あなたの予定通りにフォルカーが執務室にいたら違ったんでしょうけどね」


 このひと、と言われて視線を向けられたロウェンは、実に不本意そうに「……俺のせいか?」とぼやいたがそれは無視した。

 おそらくレジオンは、最優先でフォルカーを捕らえるように采配していたのだろう。それゆえ、真っ先に兵を向かわせた先は王宮の奥にあるフォルカーの私室か若しくは最近滞在時間の長い執務室だった筈だ。だがそれが、裏目に出ることになった。


(別に狙ったわけじゃないんだけど、丁度いいタイミングで私がロウェンに会いに行ってたからなあ……)


 それが今夜に限って、まるきり見当違いの一室に対象者がいたというわけなのだから、非常に残念な話である。

 いつも通りの夜であったなら、マクファーレン侯の私兵は確実にフォルカーの拘束に成功していただろうが、これもまあ一つの運だ。それに――。


「さすがにそろそろ、フォルカーもエドガーも騎士団と合流してるでしょ。寄せ集めの私兵に負ける程この国の騎士団は弱くないわよね。……ただ、あなたがこの魔法陣を使ってどうするつもりだったかは、分からないけど」


 キリは一歩足を踏み出した。かつん、と靴音が鳴る。

 レジオンの深い緑の目を見据えながら、キリはさらに歩を進めた。


「正直ね、私はあなたやキニスが何をしようと、この国がどうなろうとどうでもいいの。それは、私には関係のない話だから。――ただ、見過ごせないことはある」


 キリが帰るためにこの魔法陣が必要なのは本当だ。けれども、自分がここに来た理由は他にもある。

 目の前に立つ男もキニスも、それを理解することなどないだろうが。

 そう言ってゆっくりと歩くキリの目に、ふとレジオンが唇を歪めるのが映った。


「――だったら、問題はないな」


 握り込められていた左手を上げていくその顔には、醜悪な笑みが浮かんでいる。

 背筋を走り抜けていく予感にキリは目を見開いたが、それはわずかに遅かった。


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