25
風の流れない場所は、随分と空気が澱むものだ。
それでも、今の季節が秋であったのはまだマシと言えるのかもしれないが。
時折黴と埃の匂いが鼻先をかすめるような、狭く薄暗い通路を進んでいたキリは、その場で一度足を止めた。それから、意識して深い呼吸をする。
それは、気づけばすぐに足早となっている己を押し止めるために、必要なことだった。
(急ぎたいけど、でも、ここで転んで怪我なんてしたらそっちの方が余計に時間がかかるし)
時折壁の向こうから届く悲鳴や怒号に、つい逸りそうになるが、それでも今はとにかく落ち着くべきだと自身に言い聞かせた。
だがあえてそうしている時点ですでに冷静ではないのだろうと、キリが頭の隅で思っていると、背後から――不本意ではあるが――耳に馴染みつつある声が聞こえた。
「キリ? どうかしたのか」
こんな事態の最中ですら動揺を窺わせないその響きに、キリはげんなりと肩を落とした。
「ほんとに、どうしてあなたが一緒に来るんだか……」
そんな愚痴が、つい唇から零れ落ちる。
出会ってからたいして日数は経っていないというのに、一体自分は何度こんなやり取りを繰り返したのだか。
といっても、そんなことを数えても不毛なだけなのでわざわざする気はないが。
「どうしてもこうしてもないだろうが。危険だって分かってるのに、おまえ一人にするわけにはいかないだろ」
ぎりぎりまで声量を潜めつつも強い口調になるキリに対し、応えて来たのは相変わらず底の読めない穏やかな声音だった。
いや、それは穏やかというよりも飄々としていると言う方が正しいのかもしれないが。
更に文句を言いかけたキリだったが、進んでいた隠し通路の先が上り階段に差し掛かったところで口を噤んだ。
前方を見上げ、思わず眉を顰める。
見たところ、目の前の勾配はなかなかのものだ。
いくら暗闇の中でも光を放つ塗料が各所に配置されているとはいえ、うっかり足を滑らそうものなら大惨事は免れまい
なんせ、これだけ狭い道幅である。それはつまり、左右に逃れるスペースがないということだ。万一前を歩く人間が落ちたとしたら、背後にいる相手も道連れにしてしまうだろう。
(と言っても、ロウェンに先を進んでもらおうにも、いちいち罠の配置を伝えてる余裕なんてないし……)
通路の床に敷き詰められた石組みや頭上の梁を見遣り、キリは顔をしかめた。
熱を感じさせない、ぼんやりとした明かりに浮かぶ暗い道は一見何もないように見える。しかし、実はここには様々な仕掛けが施されているのだ。
この隠し通路は緊急時の避難用ということでかつてキリが教えられたものだが、こんな場面で使うことになるとは思いもしなかった。
(あくまで目的は避難だから、外部から侵入されることのないようにってことで設置された罠なんだろうけど)
その筈なのだが、この罠はあらかじめ知っている者ですら陥れられかねないものではないだろうか。
これを用意した人間はつくづく性悪だと思いながら、キリは最初の一段に足をのせ、ロウェンを振り返った。
「ここにも仕掛けがあるから、私の歩いた場所の上に続いて。うっかり他のところを踏んだら、色々飛んで来るから」
「……色々、か?」
「そう、色々」
微妙な間を置いて反復したロウェンに、こくりと頷き返した。
色々とは色々で、具体的に言えば、それはおそらく矢とか刃物とか槍の先だろう。
当然直撃をくらおうものなら、良くて重傷、でなければ即死だ。
まあ、そんな物騒な階段なので、丸々二階分を無事に上がり切ったところで思わず安堵の息が出たのは無理もない。
キリは石壁の隙間から覗く光景を確認し、この先の道順を脳裏に描いてから一つ頷いた。
自分の記憶が間違ってなければ、ここを開けば、庭園の隅に出ることができる筈だ。さすがにまだ、そこまで兵は入っていないだろう。
(ここまで来れば、あとはどうにかなるか)
「……………………」
無言のまま、キリは視線を下に落とした。
暗い視界の中、組まれた石の合間に掛けられた己の指先が小刻みに震えている。
耳の奥では、どくん、どくんと心臓が大きく鳴っていた。
これは期待なのか、それとも不安なのか――。
それでも、この話をすることができるのは、きっと今このときだけだ。
キリは一度目を瞑り、くるりと身を翻した。
出口となる隠し扉に背を向け、真っ直ぐに、ロウェンを見つめる。
「キリ? どうした?」
わずかに目を細めて訊いて来る彼に気取られないよう、キリは体の陰でぎゅっと拳を握り、静かに唇を開いた。
「……この扉を開けたら、塔のすぐ近くに出るわ。そこからなら一本道で辿りつける」
「ああ、それがどうかしたか」
「だけど、途中で外壁に向かって進めば、川に下る道があるの。多分、レジオンもまだそこまでは気づいていないと思う」
息を吸い込み、キリはだから、と言葉を続けた。
「ここで私と別れて、外部に救援を求めるって手もあるんじゃないの?」
現在マクファーレン侯が起こしているこの内乱は、あくまで奇襲だ。つまり、正規の軍が動けば鎮圧可能な程度のものでもある。
おそらく侯爵は、最も目障りなフォルカーの身柄さえ確保できれば、後はどうにでもなると考えていただろう。
だからこそ、内部の手引きで私兵たちが王宮の奥深くに侵入してきたのだ。
しかしあいにくなことに、今夜に限ってその当人がたまたまロウェンの許を訪れていたため、その目論見は霧散することとなった。
(別に、私にはそんなつもりは露ほどもなかったんだけど)
結果としてフォルカーとエドガーが襲撃から免れることになったのは、本当にただの偶然だ。
自分をこちら側に招いた者たちがどう思っているのかは知らないが、基本的にキリは『浄化』の件を除き、極力この世界に不干渉であるように努めていたつもりだ。
この世界がどうなるのか、そしてどうありたいのか、それを選択するのはあくまでそこで生きる人間が決めることである。少なくとも、それはいずれここから去るつもりの人間が不用意に関わることではない。
……まあ、どこぞの元王太子に呪いを掛けた件についてはどうなのかと指摘されれば痛いのだが――なんせ一国の命運を左右しかねない――、しかしあれは一応正当防衛である。
ただ、それについてはさておき、キリにしてみればフォルカーとヴィクトルのどちらが王となろうが、この国がどうなろうが関係のない話である。
現在キリがキニスの許へと急いでいるのは、あくまでも個人的な事情ゆえ。
自分が無事に帰るためにも、あの場所に手出しされては困るのだ。
だが、それにロウェンが付き合う必要などどこにもないのである。
勿論彼がキリを監視する目的で付いて来るのなら話は別だが、どうにもそうは思えない。
なら、優先するべきはどちらなのか。
「友人だっていうんなら、フォルカーを助けたいって気持ちはあるんでしょう。……ロウェンも知ってるだろうけど、魔術を扱う人間には言霊の制約がかかるわ。そして、あのとき私はフォルカーに、キニスを止めるってそう言った。約束を違えた魔術師には――正確には私は魔術師じゃないけど――、必ず相応の報いがかかる。それでも、あえて私に付いて来る必要はある?」
それは別に、ロウェンを試そうとして言った台詞ではなかった。
フォルカーとエドガーが友人だと、彼がそう口にしたときの様子を思い出す。
気負いのないロウェンの口調もそうだが、フォルカーの口振りも双方の親しさをうかがわせるものだった。
友人が危険に晒されているのなら、そちらを優先すればいい。
自分にこだわる必要はないと――そういった意味を込めて訊いたキリは、しかしその直後に息を呑んでいた。
ドンッ、という鈍い音に続いた声は、叩きつけられた音とは打って変わって静かなものだった。
「……キリ」
こちらを見下ろして来た濃紫色の瞳には、鮮やかな怒りが浮かんでいた。
「あまり俺を――俺たちを、みくびるなよ」
押し殺した低い声は、キリが初めて耳にするものだった。
ロウェンは握りしめた拳を壁にぶつけたまま、きつい視線でキリを見据えて言う。
「フォルカーも俺も、こちらの世界の人間だ。――ああ、そうだ。意図したにせよそうでないにせよ、言い訳しようもない。俺たちは間違いなく、おまえの意思を、おまえの人生を、おまえの未来を踏みにじった側の人間だ」
驚きに、キリは目を見開いた。
キニスやフォルカーたちはそうだが、ロウェンのことをそういう風にキリが思ったことはないつもりだ。
だが、ロウェンは反論を許さない強さで言葉を続けた。
「だから、おまえが俺たちを信じないのは当然だ。それは、否定しない。けどな、キリ」
その真剣な目と、直接触れているわけではないが彼から伝わる空気越しの体温に、否応なくキリの心臓が暴れだす。
「……なによ」
「――だけど、おまえが俺たちを信じないことと、俺がおまえという人間を信じてることは、全く別の話なんだよ」
「………………え?」
あまりに意外なことを口にされ、キリはその場で硬直した。
一体、彼は何を言っているのだろう?
ただただ瞠目するキリの前で、ロウェンは一つ息をついた。
「俺には、本当のところおまえが何をどう思っているのかなんて分からない。けど、それでも、出会ってから今までのおまえを見て来た。だから俺はここにいて――、フォルカーもそうだ。あいつは自分がしたことは百も承知で、その上でキニスのことをおまえに任せた」
その言葉に、キリの脳裏をよぎったのは鮮やかな瑠璃色の眼差しだった。
キニスのところに向かうと伝えたキリに、フォルカーは一言、「頼む」とだけ告げたのだ。
そうして自分は、その言葉に頷いた。
そこに偽りはない。……ない、けれど。
「……じゃあ、訊くけど。あなたのいう『信じてる』って、どういうことなの? 自分の期待どおりのことを相手がしてくれること? それとも自分にとって都合のいいように相手が行動すること?」
もしロウェンやフォルカーがキリを『信じてる』というのがそういう意味であるのなら、そんなのはとんでもないお門違いだ。
無理矢理引きずり出されたこの舞台で、彼らの望む虚像を演じ終えた今となっては、キリはこれ以上茶番劇に付き合うつもりはない。
痛烈な皮肉をこめてそう口にしたキリに、ロウェンは軽く目を伏せた。
腹立たしい程長い睫毛がその目元でゆっくりと動き――、深い紫色の双眸が真っ直ぐにキリを見る。
「違う」
「何が違うの」
――どう、違うの、と語気を強めて続けようとしていたキリの口が半端な形で静止した。
その動きを相反するかのように、キリの瞳が大きく見開かれる。
頬に触れた指先の微かな熱に、動揺のあまり全身を強張らせているキリの両目を覗き込みながら、ロウェンは真摯な声音で言った。
「そう訊かれると難しいけどな。強いて言うと、……そうだな」
どこまでも真剣な声に、ほんの少し笑みが滲んだ。
「――俺がおまえを信じてるっていうのは、これから先おまえの取る行動がどんなものであれ、それはきっと俺が納得できることだろうと……俺がそう思えるってことだ。もしそれが俺や他の誰かの望みに沿うものではなかったとしても、な」
「……なら、もし私のすることがあなたの納得いかないことであったら……、それは結局私が裏切ったっていうことになるんじゃないの?」
けれども、たとえ彼にそう思われようとも、キリはもう誰かの思い通りになる気はないのだ。
低く告げたキリに、ロウェンはただ笑みを零しただけだった。
「だったら、それは単に俺の考え違いだったってだけの話だな」
そう言うと、キリと向かい合う形になっていたロウェンの上半身がゆっくりと起こされた。二人の距離が再び開いていく。
わずかな沈黙の後に、キリは再び口を開いた。
「……あなたが後悔しても、私には関係のないことだから」
ようやく押し出したキリの呟きに、返って来たのは「そうか」という笑みを含んだ声だった。




