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 夕暮れとなり、随分とあたりが暗くなってきた。それに、どうやら風も強まってきたようだ。


 窓硝子を揺らすカタカタという音に、キリは手を止めて暮れゆく城下の街並みを見下ろした。

 電灯のそれではないたくさんの明かりがともされた街は、キリの故郷よりも柔らかな暖色に染まっている。

 色とりどりの煉瓦で作られた建物の並ぶこの城下町を、キリが初めて目にした時は驚いたものだ。

 明るい陽の下で見たそれはあたかもお伽話に出て来るように愛らしかったが、月光に浮かび上がる今はどこか静謐な美しさを湛えている。


 キリは見るともなしに、街の中央にある十字のルーディ街道を眺めた。夜が近いにも関わらずその並びは随分と賑わっている。

 三年前と比較すると、その違いは一目瞭然だった。こうして遠目に見てもすぐに分かる。


 室内に漂い出した香ばしい匂いとかまどから伝わる熱気から離れるように、キリは窓辺に身を寄せた。

 パンが焼き上がる気配と熱は心地良いものだったが、硝子越しに伝わる外の冷気で少しぼやけた頭をはっきりさせたかったのだ。

 ふう、と小さく息を吐くと、顔のすぐ横にあった無色の硝子がわずかに白く曇った。

 この城に戻って来てからまだたった三日しか経っていない。

 なのに、どうしてか、ひどく疲れている気がした。


(やってたことなんて、ほぼ寝てるだけ、なのに)


 キリが保護された際にはそれなりの火傷を負っていたそうだから、その回復に体力を消耗したのは事実だとしても、自分を治したのは他ならぬネイである。

 彼の治癒に手抜かりなどある筈がないので、この疲労感は決してそれによるものではないだろう。


(間違いなく、これは精神的な疲労だよなあ……)


 傷痕一つなく治してもらった上に、こんな場所で上げ前据え膳の待遇を受けている身分で何を言うか、と第三者からは思われるだろうが。

 だが実際に、これまでの追われる身という緊張感よりも、再会した人たち相手の腹に一物あるやり取りの方がずっとキリを疲弊させていた。

 この三年間はそれなりに辛抱できていたというのに、どうやら最近の逃走生活ですっかり気が抜けてしまっていたらしい。

 まあそれだけ、ロウェンとの道中が気楽なものだったということかもしれないが。

 そんな一時の休息を過ごした後では、この王宮における滞在はキリにとって想像以上に苦痛だった。

 誰かを疑うのも勘繰るのも、寂しいし苦しいことだ。当然、そんな生き方をしたいとは思わない。

 それでもキリは、どうしても最初から自分を利用しようとしたひとたちを信じる気にはなれなかった。


(――だから、不思議なのよね)


 空中を漂っていたキリの瞳が、半眼となった。

 異世界に召喚されるというシチュエーションはゲームやラノベでよくあるが、でもそれはれっきとした犯罪行為なわけである。自分の故郷で例えるとしても、もし日本の女子中学生が他国の都合やらなんやらで海外に連れ去られたら、明らかに国際犯罪だろう。


(なのに、どうして主人公は自分を拉致した犯罪者の発言を素直に信じたり、それどころかその首謀者や一味である人に惚れちゃったりするのかなー)


 幾らなんでも、攫った相手がイケメンだったら許される、という理屈はさすがにないだろうと思うのだが……。


 順当に考えれば、まずそんな仕打ちをした相手に怒るというのがあるべき行動ではないだろうか。

 自分の場合は一応、召喚された衝撃で意識が不明瞭なのを狙って暗示を掛けられたという事情はあるのだが。

 本当か嘘かは知らないが、催眠術をかけるのは半覚醒のときがよいという話を何かで耳にしたことがある。

 少なくとも、キリがこっちに来た際、頭が朦朧としていたのは事実だ。


(そうして暗示をかけた挙句、監視用の腕輪まで身に付けさせられたんだから、手の込んだやり方だけどね)


 キリはふと視線を落とした。そこにあるのは繊細な蔦模様が彫り込まれた幅広の腕輪だ。

 左手首に嵌まったその銀の輪は、不思議なことに取りつけるための金具はおろか、継ぎ目すらも見当たらない。

 キリは軽く鼻を鳴らし、ぶらぶらと手首を振った。

 そして無造作な口調で、扉の向こうに立っている相手へと問いかけた。


「またこんな拘束具を付けるなんて、懲りないと思わない?」











 一時的なこととはいえ、自分が個人的な厨房がわりに使用させてもらっているこの部屋まで辿りつける人間などそうはいない。

 そのことをキリは認識していたし、それでなくともそろそろ来る頃合いだろうと思っていたのだ。


「そこにいるんでしょう、シュゼット?」


 待っていた少女の名前を口にすると、ほっそりとした人影が躊躇いがちに中へと入って来た。

 自分より一つ年上のその姿は、女性と言うにはまだ少し若いが、そろそろ少女の域を脱しつつあるかもしれない。

 けれどもどちらにせよ、その清楚な美しさに変わりはない。

 だが、柔らかそうな栗色の髪と同性でも羨みたくなるような肌理の細かい白い肌をした少女は、ひどく強張った顔でキリを見ていた。


「ちょうどいいときに来たみたいね、せっかくだから味見してくれない? シュゼットが教えてくれたレシピの通りに作ってみたんだけど」


 かまどから取り出し少し冷ましておいた小ぶりのパンを一つ手に取ると、キリはそれを更に小さく切り分け一口サイズにした。


「ファーロの実があったから、それでソースも作ったの。一緒に試してみて」


 小皿の上に取り分けたソースと焼きたてのパンをのせて差し出すと、シュゼットはおずおずとそれを受け取った。

 桜貝のような爪で彩られた細い指先が、一切れのパンを口に運ぶのを見守ってから、キリも同じ物を一口齧る。

 そのまま噛み締めると、口の中に小麦に似た甘みとトマトに近いような濃厚な味が口の中に広がった。


(これは、結構うまくできたかな?)


 自分にしてみれば合格の出来なのだが、彼女はどうだろうか。

 ごくりと飲み込んでから、キリは「どう?」と尋ねてみた。

 料理の基本は祖母から習っていたが、この世界での調理方法を教えてくれたのは目の前の少女である。

 色んな意味を含めて教師でもあった彼女の意見を聞きたかったのだが、力のこもった全身から緊張が抜ける様子はないようだった。


「そんなに警戒しなくても、別に食ってかかる気はないんだけどね」


 淡々と言って、キリは残りのパンを口に放り込んだ。

 そうしてもぐもぐと咀嚼しているキリの前で、シュゼットが重たげな唇を開いた。


「ミヅキは、どうして……」

「どうしてここにいるのかって? 私は普通に食べられない物が多すぎるから、王宮の料理人にいちいち指示して作ってもらうのが面倒だもの。変なものが混ぜられていても怖いしね。だったらいっそ自分で作った方が各方面に問題が起きないでしょ、ってフォルカーにごり押ししただけ」


 毎回のこれが手間ではないとは言わないが、それでもこうして自炊する方が色々な意味で遥かに安全なのだ。

 こういうときにはコンビニやデリバリーとかが恋しくなるなあ、とキリが呑気に考えていると、シュゼットが青褪めた顔でこちらを見て来た。榛色の瞳に、思いつめた光が浮かんでいる。


「違うわ、どうして言わなかったの?」

「あの馬鹿を手引きしたのが自分だってこと?」


 キリにそのものずばりを告げられ、シュゼットは唇を震わせた。


「……そうよ。あの夜、王太子殿下に訊ねられて、あなたの部屋に辿りつく方法を教えたわ。なのに、どうして……」

「どうして、そのことを他の人間に言わなかったのかって?」


 実家で使っていたフライパンよりも一回り大きい浅鍋を火の上に置いて、キリは肩を竦めた。


「そのほうがあなたには都合が良かったんじゃないの? ああ、でもそれは、キニスもレジオンも同じか」


 隠されていた通路をばらしたのは彼女だが、件の二人がそれを知りながら黙認した話は馬鹿殿下からすでに聞いている。


「あ、シュゼット、ちょっとそこ空けて」


 彼女の横を通り抜けたキリは、ひき肉にみじん切りにした玉ねぎ、卵、パン粉などを混ぜて作った種を手に取り、温まった浅鍋にそれを並べた。小さめに作ったので五つ同時に焼けるかと思ったのだが、余裕で七つは入った。

 肉汁のいい匂いを感じながら慎重に火の通り具合を見ているキリに、シュゼットが悲鳴のように言った。


「じゃあ、何でっ……!」

「そんなの自分で考えたらどう? どうして私が言わないのか」


 彼女が本当に聞きたいことなど分かっている。でもキリは答えを返さなかった。

 それだけ自分は怒っているのだな、とどこか冷めた頭の一部で考えつつ、片面が焼けて来た肉を順次上下に引っ繰り返していく。

 これまで声一つ荒げることのないキリの様子に何を思ったのか、いつもよりも硬い声音でシュゼットが呼びかけて来た。


「ミヅキ」

「ん?」

「……あなたは、まだ、逃げる気なの?」

「当たり前じゃない。何か問題ある?」


 キリは当然と言い放った。それ以外の選択などある筈がないだろうに。


「そんな、その腕輪があるのにどうやって」


 シュゼットの視線の先を認め、キリはああと頷いた。

 キリの左腕に嵌められた、銀の腕輪。

 これは先だってこの城を出る際に、外して懐へと仕舞いこんでいた物だ。

 それが、いつの間にかこうして元の位置に納まっているのは、キリが意識を失っている間に再び着けられたからだろう。

 魔術の媒介にも使えるが、主たる目的は『聖女』専用の発信機であるそれを、キリはちらりと見下ろした。

 気のない素振りでさらりと言う。


「まあ、どうとでもするわよ。シュゼットもその方が嬉しいでしょ。なんかフォルカーの支援をしている派閥あたりは、どうあっても私と彼とを結婚させたいみたいだし。……何だって、誰もかれもそんな風に都合よくいくと思うんだか不思議なんだけど」


 キリ自身にそんな気は皆無だと言うのに、どうして周囲はそう思いこんでいるのか。全くもって謎である。


「え……、って、ミヅキ!?」


 あてこすりではなく口にしたキリに、シュゼットの顔は一瞬にして茹だり、その直後一転して蒼白となった。


「私は、そんなっ……」

「シュゼットがフォルカーのことを好きなことなんて、ずっと前から知ってたわよ。だから、あのろくでなしに言ったんでしょ。この三年馬鹿をやらかしたせいで、王太子って身分だってのに評価は落ちる一方。逆にフォルカーを推す声は相当大きくなってたそうだから、焦ってたんだろうけど」


 それですぐさま『聖女』を取り込もうとしたのだと、その理屈は分からなくもないが。

 そう考え、キリはくすりと笑った。


「私がいなくなって、安心した? それで、私が戻って来て心配になった?」


 意地の悪い問いかけをしつつも、キリの手が止むことはなかった。

 焼き上がった肉を手早くパンに挟んで行き、そして最後の一つが出来上がる。

 それからキリは、薄い紙にくるまれたその包みを小さな籠に詰め込んだ。


「私がシュゼットを待ってたのは、それが理由かな」


 きっと底意地の悪い顔をしているだろうなあ、と思いながらキリはシュゼットへと顔を寄せた。


「分からない?」


 キリが声を潜めると、シュゼットは怯えたように一歩下がった。

 しかしキリは、すかさずその腕を掴み開いた距離を詰めた。生憎ここで、彼女を逃がす気はないのだ。


「せっかくだから、あなたと取引しようと思ってね」


 自分にできるこれ以上ない笑顔で、キリはにっこりと微笑んだ。



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