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不意に、深い深い水底から、浮き上がるような感覚があった。
闇の中にすっかり溶け込み、同化していた自身の輪郭が、再び形を取っていく。そう気付くのと同時に、視界は開かれた。
(――、…………、―――――――――?)
寝起きのぼんやりとした頭のまま、彼――ロウェンは緩やかに瞬いた。
何故だろう、体のあちこちがひどくだるかった。
全身がこのまま下に沈んでいくかと思うくらいに、重い。
そんなことを考え、ロウェンはようやくそこで自分が仰向けに寝ていることに気がついた。
(そう言えば、妙に固いような……)
気がつけば、肩や腰や踵が痛い。この感触からすると、少なくともロウェンが横になっているここは寝台ではなさそうだ。
(……? 俺、どっかで雑魚寝でもしてたか?)
そう、疑問を抱いた途端だった。意識を失う前の記憶が、ロウェンの中で堰を切ったように甦る。
「――――――っ!」
とっさに右手をつき、上半身を起こそうとしたその直後に、ロウェンは己の行動を後悔した。
呻き声すら出せないほどの激痛が、全身を襲う。
そのまま悶絶しそうになっていると、呆れ半分心配半分といった声が届いた。
「ちょっと、何やってるんですか」
澄んだそれは、若い女のものだった。
「…………?」
ロウェンはそろそろと――体の痛みに響かないよう――その方向へと顔を向けた。
真っ先に目に飛び込んで来たのは、小さな焚火の炎だった。
そして、その側らに座るほっそりとした一つの影。
「――――――――」
夜目に慣れた身にはいささか眩しすぎる炎の明かりにロウェンが目を細めていると、人影は軽く首をすくめた。
「大丈夫……なんて、訊くまでもないか。喋れそうですか? あ、それと、水ありますけど飲みます?」
ロウェンに話しかけて来た相手はそう言いながら、水筒とおぼしきものを手にとって軽く振ってみせた。
その言葉に、ロウェンは今まで意識していなかった喉の渇きを自覚する。
「……もらう」
目が覚めてからはじめて出した声は、自分の耳で聞いてもすっかり罅割れ嗄れていた。
小柄な影がその場から立ち上がり、すたすたとこちらに歩いて来る。
「どうぞ」
水の注がれた器を受け取り、ロウェンは一息に中身を飲み干した。
中身が空になると同時に、華奢な手が伸ばされる。
ロウェンはそれに逆らうことなく指の力を抜いたが、すぐに再び水で満たされた器が手渡された。
「一気に飲むとむせますよ」
淡々としているが、その言い方には気遣いを感じる。
炎を背にしたその顔を、ロウェンは思わずじっと見た。
声音だけで想像していたよりも、年若い面差しをした少女だった。
腰まで届く真っ直ぐな長い髪と、それに縁取られた小さな卵型の顔。
大きな二重の瞳は髪と同じ黒色だろうか。年齢は十五歳前後かと思われたが、その表情は愛らしい容姿から受ける印象よりもずっと落ち着いて見えた。
一瞬、何を口にするか考えたが、それ以上に言うべき言葉があったことを思い出した。
「……ありがとう」
兎にも角にもこれは伝えておかねばなるまいと礼を述べると、少女はくすりと笑みを零した。
「どういたしまして。それで、どう? 話はできそう?」
再度の問いかけに、ロウェンはようやくはっきりしてきた頭で「ああ」と頷いた。
そうして、改めて周囲を見回し、頭を掻いた。指を差し込んだ髪がわずかにぱさついているようなのは、潮風にさらされていたせいか。
潮の匂いのする空気を深く吸い込み、どうにか心を落ち着ける。
それからロウェンは頭上に広がる一面の星と背後の海を眺め、弱り切った声で言った。
「……ともかく、ここは一体どこなんだ?」
見上げた星の位置を確かめると、すでに深夜と言ってもいい時間だった。けれど、それ以外に分かりそうなことはない。
ロウェンはあちこち悲鳴を上げている体を引きずるようにして焚火の前に移動すると、炎を挟んで向かい側に座る少女を見た。
身につけているのは動きやすそうな細身のズボンに、仕立ての良いシャツ。肩に羽織った外套は高級そうだったが、実用的だ。日常的に目にするような、ごく普通の旅装姿である。
(とにかく、話を聞いてみるしかないか)
「ええと、色々と訊きたいことがあるんだが、いいか? いや、それより……、多分あんた、じゃない、君が俺を助けてくれた、んだよな。とにかく、おかげで命拾いした。ありがとう」
何がどうしてこの状態に至ったのかは不明だが、少なくとも彼女のおかげで自分がここにいることは確かなようだ。
「俺はロウェンだ。あん……、君の名前を聞いていいか?」
ロウェンの問いかけに、少女は一瞬黙り込んだ。瞳がわずかに宙を彷徨う。
「……キリ、よ。といっても、愛称みたいなものだけど。正式なのはここの国の人たちには呼びにくいと思うから」
目を真っ直ぐに見返しながら、キリはそう言った。確かに、あまり聞いたことのない響きだ。
興味をひかれ、ロウェンは無礼にならない範囲で彼女を観察した。名前もそうだが、その面差しも異国風のそれだ。どこの出身なのだろうと自分が知る限りの国や地方をさらったが、該当するような所は思いつかない。
とはいえ、まず確認しなければならないのは自分が今ここにいる経緯だろうか。
だが、ロウェンがそれを尋ねる前にキリの口が開かれた。
「今日、違うもう昨日か。昨日の昼すぎかな。この浜の近くの海上でね、沈没しかかっている船を見つけたの。大半が海中に沈んでて、こんな大きな船がどうしたんだろうと思ったんだけど」
ロウェンは無言で頷いた。あの船の損傷を考えれば、むしろよくもった方だろう。
「私が乗っていたのは小さな舟だったから、万が一にも巻き込まれないよう迂回しようとしたの。そうしたら、まだ海上にあった船首が見えて。白い船首像があるなーって眺めてたら、その横には彫像にもたれかかっている人っぽい姿があるし」
それが誰なのかは、わざわざ指摘するまでもない。
「死体だったら放っておこうとは思ったんだけど、なんだか身動きしたように見えたから。それで、舟の上に引き上げてみると息があって」
そこでキリは呆れたような眼差しを向けてきた。
その視線は「よくもまあ生きていたものだ」と雄弁に語っている。
「見捨てるわけにもいかないから、どうにかこの岩だらけの場所に接岸して、あなたを運び込んだってわけ」
「……よく俺を運べたな」
ロウェンは何とも言い難い顔になった。
今は互いに直に地面に座っているのではっきりとは言えないが、目の前の少女はかなり華奢で小柄だ。身長もロウェンより頭一つ分は低いのではないだろうか。
こんな細身の少女が、どうやって成人男性である自分をここまで連れて来たというのか。
そう思いかけ、ロウェンは内心でいや、と首を振った。
自分の推測が当たっていれば、この少女ならばそれくらいは可能かもしれない。
ロウェンはそっと右手を動かし、さりげない仕草で己の脇腹に手を当てた。
手のひらに、すっかり乾いてぱりぱりになった服の感触が伝わってくる。――だが、そこに痛みはない。
左の脇腹もだが、右の肩も左の膝もそうだ。
ひどい筋肉痛にも似た全身のだるさと鈍痛は目を覚まして以降ずっと続いているが、気を失う前の苛むような激痛はどこにも感じられない。
改めて自分が負っていた筈の傷を思い返す。あれほどの深手が、今ではすっかり塞がっていた。
確信に近い物を覚えながら、ロウェンは静かに問いかける。
「なあ――キリ、おまえは魔術師か?」




