17
そこには、ただ風の吹き抜ける音と、梢の立てる葉ずれの音色だけが響いていた。
冷たい風がキリの黒髪を巻き上げ、頬をさあっと撫ぜていく。
エルフィンの背から降りたキリは、目前に広がる風景に呼吸を呑んだ。
冴え冴えとした月光に照らし出されているのは、古い遺跡だった。
月明かりのせいか、足の下に敷き詰められた石畳も立ち並ぶ石柱も、すべてが青白く染まっている。
その静まり返った空気に、キリはしばし立ち尽くしていた。
「――ここが……?」
そうぽつんと口にしたときだ。辺りを見回していたキリの頭の端を何かがよぎった。
(何……?)
おそらくは風化した柱が崩れ落ちたのだろう、足下に無造作に転がる大小の瓦礫を避けながらキリは歩き出した。
「暗いから、気をつけろよ」
「うん」
ロウェンの言葉に短く頷きつつも、足早にキリは進んだ。
何故だろう、妙に心がざわついている。
キリの靴先に当たった小さな石の欠片が飛んで、コツっと軽い音をたてた。そんな微かな物音ですら響くような静寂の中にいるからだろうか、キリの心臓がうるさいほどに鳴っていた。
キリは目の前を塞いでいた、腰くらいの高さのある大きな石の塊の向こうへと回り込んだ。
そこでキリが目にした物は――、例えるなら、そう、漆黒の鏡だった。
より正確に言えば、それは鏡のように見える水面だったのだが。
ちょっとした広場ほどの大きさのある場所に、一面に水が湛えられていた。
その表面に映り込んだ夜空を、黒い鏡のように思ったのか。
不意に襲って来た既視感に、キリはくらりと目眩を覚えた。
この光景を、キリは知らない。だが、ここらに満ちた空気には覚えがあった。
(最初に、王宮で呼び出されたとき……)
あまりの衝撃のせいで、当時のキリの記憶は曖昧だ。だが、あのとき自分の真下に広がっていた魔法陣も、確かにここと同じ気配を放っていた。
「当時の経緯は、今となっては誰も分からないんだが」
キリの後ろを付いて来たロウェンが静かに言った。
「エルアイオンの死後、ゆうに百年以上経ってからのことだ。これと全く同様の魔法陣が王宮内の一角に設けられることになったのは。まあ、諸々の都合を考慮したら、こんな辺境の地で召喚の術を行うのが面倒だったというだけかもしれないけどな」
キリは夜空を映し出した水鏡をじっと見つめたまま、ロウェンの声に耳を澄ませた。
「うちに言い伝えられているところによると、どうやらこの魔法陣は異世界との『扉』ということらしい。最初の『聖女』の帰還もここで行ったみたいだ。それ以後のことは、ほとんど記録にないな。ただ、最後にここで帰還の魔術が行われたのかはいつかはっきりしてる。――アルティリエという名の『聖女』を知っているか?」
弾かれたように、キリは背後を振り返った。
「え、帰れなかったんじゃ、なかったの……?」
キリがその名を目にしたのは、各地を巡る旅の途中でのことだった。当然ながらそれは、アルティリエ本人が残したものではない。その記録を残したのは、彼女よりも後世の『聖女』だ。
アルティリエをこちらの世界に留めるために帰還の術式が失われたことも、『狂王』による暴挙も、キリはそれらの手記によって知った。
キリはこくりと息を呑みこみ、ゆっくりと口を開いた。
「どうやって、アルティリエは元の世界に帰ったの? 『狂王』サースティンはそれを阻止するために魔術書を棄損したのに」
「魔術書はな」
「え?」
「帰還の術式を記した書は確かに焼かれた。でも、アルティリエを召喚した魔術師はまだ健在だったってことだ」
キリの両目が大きく見開かれた。
「それはつまり、その魔術師が帰還の術式を知ってたってこと……?」
「ああ。そもそも召喚の術式と帰還の術式は対のものとして生み出されたものだ。当時『聖女』を呼び出した魔術師が、魔術書が失われる前に把握していたとして不思議じゃない」
「だったら、どうして」
物言いたげなキリの視線に、ロウェンは少し困った顔になった。
「どうして、その術式を残しておかなかったのかって話だろ。単に、そんな余裕がなかったってことらしい。『狂王』は術式を消し去るだけじゃなくて、それを知る者全てを殺そうとしたらしいからな」
「なんなの、そのどこまでも傍迷惑な男は」
思わず本音が零れ落ちる。
いや、それはどこぞの王太子も大差ないのだが。
「全く同感だけどな。――アルティリエと彼女を召喚した魔術師はサースティンの手を逃れつつ、この場所に辿りついたそうだ。そして『狂王』の隙を衝き、魔術師はどうにかアルティリエを帰還させた」
失われた昔話を語るロウェンの顔を、キリは静かに見返した。
「アルティリエは、分かったけれど……。でも、その後のサースティンと魔術師はどうなったの?」
「そこら辺ははっきりしない。ただ、一説によると帰還の術式に巻き込まれた弊害で、相打ちになったとも言われてる。ちなみに……」
「何かあるの?」
「たいしたことじゃないんだけどな、その魔術師はうちの一族の人間だったらしい。どういった理由かは分からないが、このタジェスでは魔術師になれるほどの力を持った人間が生まれて来ることはほとんどないんだ。うちも、初代以降に輩出された魔術師の数は非常に少ない。逆に言えば、だからこそ当時の魔術師について記録が残っていたわけなんだが」
眉を寄せて、キリは考え込んだ。
「分かるような、分からないような……。それは、この地が『浄化』を必要とするほどの『瘴気』が生じることがないっていうのと関係してるの?」
「そんなの、俺の方が聞きたい」
ロウェンの表情は微妙だった。原因不明の現象に、どうにもすっきりしないと言いたげだ。
キリも小さく溜め息をついた。
(魔術の使い方はキニスから習ったけど、根本的な理論とか基礎については時間が足りなくてあまり教えてもらってないのよね……)
そもそもこの世界そのものが自分にとっては非常識過ぎるわけで――とぼやくように考えていたキリは、その瞬間体を強張らせた。
ざあっと全身の肌が粟立つ。
とっさに身を翻したキリの目に映ったのは、先程までの静けさが嘘のようにざわざわと波打つ水面だった。
「何なの……、これは!?」
古の神殿を思わせるような石柱が、そして床石が、別物のようにその色合いを変えている。白い石造りだったそれは、あたかも夜空を切り取った水晶のようだ。
その中で、星や蛍を思わせる無数の光が不規則な明滅を繰り返している。
それは、これまでキリが見たことのあるどんなイルミネーションよりも鮮やかで透き通った光を放っていた。
圧倒されるほど美しい、人智をこえた光景に立ち尽くすキリの傍で苛立たしげな声がした。
「もしかしたらと思ってたが、やっぱりそうか」
「ロウェン?」
キリが見上げると隣にいたロウェンが険しい眼差しで前を見据えていた。
ただ横で見ているだけのキリですら背筋が凍えるような表情は、初めて目にするものだった。
「キリ、教えてもらいたいんだが、ここで何が起きてるんだ。おまえの目にはどう見えてる?」
「どうって……」
とっさに訊き返しかけたキリは、途中で口を噤んだ。
「生憎俺は魔術が使えないからな、当然『精霊眼』もさっぱりだ」
「~~~~~~~~~っ!」
声にならない声でキリは呻いた。
そうだった。『精霊眼』を持つのは魔術を使える者だけだった。
魔術書の魔法文字と同様に、魔術を使える者とそうでない者とでは目に映るものが違うのだ。
基本的に、これまでキリが行動を共にしていた人たちは皆『精霊眼』で見ることができたので、失念していた。
「ええっと、端的に言うと、この建造物自体が光ってて……。床とか柱の中で、小さな光がきらきらしてる。たくさんの蛍が光ってるみたいに」
頭上だけでなく足下にも広がる星空に、上下すら分からなくなりそうになりながら、キリはたどたどしく説明した。
何故だろう、妙に頭がくらくらとする。
気を抜けば揺らぎそうなキリの意識を、ロウェンの強い声が引き戻した。
「ここの遺跡は、魔光石でできてるからな。ベイネルでの魔術の使用は御法度だっていうのに、どこの馬鹿だ」
(魔光石って、確かキニスから聞いたっけ。魔術の効果を増幅させることができる、特殊な鉱石だって言ってたような……)
事実だとすれば、それが目の前の遺跡に使われていることは別に不思議ではないが。
しかし、今の懸念はそれではないだろう。
「……ロウェン。確認だけど、つまりここで魔術を使うのは危険だってことよね?」
キリの声音がやや低くなった。
にもかかわらず、ロウェンは飄々した様子で言う。
「ああ、このベイネルは魔光石の鉱山だからな。使う本人の意図に関係なく、簡単に魔術の威力が倍増しちまうことがある。余程の術者じゃない限り制御できないってことで禁じられてるんだ」
「どうしてそんな大事なことを来る前に言わないのかな!?」
「だっておまえ、これまでほとんど魔術を使わないようにしてただろ。俺を治した件を除いて」
実にあっさりと指摘され、キリは心の中で絶叫した。
(だーっ! もう!)
どうして彼はこうも物事を見ているのか。しかも色々と感づいているようなのに、こうして肝心な時にならないと一切表に出さないときている。
(腹の底を読みにくいのはフォルカーもだったけど……)
もしかしたらこの男はそれ以上かもしれないと、わずかにひやりとした感覚がよぎった。
「考えた上でそうしてるんなら、別に問題ないだろ。それに、曲がりなりにも『聖女』だっていうんならそれ相応の教育を受けてる筈だ。さほど酷い事態にはならないと思ったからな」
「ええ、ええ、そうですよ! とんでもないスパルタ教育を受けさせられましたよ!」
ほとんど自棄のようにキリは言い返した。
だが、言葉こそやさぐれてはいたが、その鋭い眼差しは闇に沈んだ山麓へと向けられたままだ。
(これは、明らかに外部の影響を受けてのものね)
面倒な真似をしてくれる、と内心で舌打ちした。
どれだけ古いものであったとしても、未だにこの遺跡には強力な力が残っている。条件さえ揃えることができれば、キリの望みを果たすこともおそらく可能だ。
ただしそれには、これ以上の干渉を受けなければ、との但し書きがつくが。
「間違いなく、この近くに魔術を使っている人間がいるわ。遺跡に生じてる魔力の偏りを見ると、主に風と地に関わるそれみたいだけど」
近くの石柱に手を当てそれを確かめると、キリは踵を返した。
「ちょっと行って見て来るわ。……一応訊いておくけど、侵入者ってどうしておけばいい?」
彼らを追い出せばいいのか、それとも捕まえればいいのか。
部外者なのは自分も同じであるので、その判断はこの地の責任を担う人間に仰ぐべきだろう――と思ったのだが。
なのに、ロウェンは何故かひどく不本意そうな顔でキリを見下ろして来た。
「……どうしておまえはそこで、自分一人で行くって考えになるんだかな」
「いや、だって危ないし」
魔術を使っている以上相手は魔術師だとしか思えないし、しかもそのひと――いや、一人でなく複数人かもしれないが――は立入禁止の場所に勝手に入った挙句、更に使用禁止の魔術で「何か」をしているわけだ。
魔術師といってもピンキリなので一概には言えないが、それでも魔術を使えない人間が相対するのはいささか危険である。
そう告げたキリは、しかしその直後に見たロウェンの顔に硬直した。
目の前に立つ男が浮かべているのは、実ににこやかな満面の笑みだ。
しかし、どうしてだろうか。キリの背筋がぞくぞくした。
ここで彼に逆らってはいけないと、キリのどこかが告げている。
「こんな夜中に、しかも初めて来た山の中を一人で行くなんて、有り得ないよな?」
「………………………はい」
有無を言わせぬ響きに、キリは大人しく頷くしかなかった。




