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 茜色に染まる空が徐々に暗く沈んでいく中、キリの耳に――いや全身に、ごうごうと風のうねる音が響いていた。

 吹き抜ける風は、夕暮れになってから更に勢いを増したようだ。


「……っ!」


 不意に吹きつけて来た一際強い寒風に、キリは小さな悲鳴を呑み込こんだ。

 そのままさらわれるような感覚に、思わず体が強張る。

 これはもういっそ、質量すら感じる程の空気の塊だ。

 キリはぎゅっと手の中の服を握りしめた。こんなの、かつて体験した遊園地のジェットコースターなど比較にもならない。


(確かに、急いでいるとはいえ……!)


 これが一番早い方法だと、頭では分かっている。だが、それでもキリにとってこの移動手段は極力避けたいものだった。

 飛行機に乗ったことくらいはあるが、こんな風に生身で空を飛ぶような経験などあちらでしたことはない。

 まあ、どう考えても元の世界にこんな乗り物は存在しないので、未経験なのは無理のない話なのだが。


(一応これも、ファンタジーのお約束の一種と言えばそうなんだけどね……)


 とはいえ、ばさばさっという羽音がそばで響く度に、体中に伝わる振動は何度体験してもそうそう慣れるものではないのだ。

 キリは僅かに首を動かし、自分の真下を見下ろした。

 そこには乗った人間の体を固定するための鞍と、それを巻き付けている大きな黒い胴体が見える。

 暗く沈んだ周囲のせいではっきりとは見えないが、その黒い体躯はふわふわとした羽毛に覆われている筈だ。


(この一頭だけで、どれだけの羽毛布団が作れるんだろうなあ……)


 視界に広がる漆黒の双翼を見つめ、キリはついそんな場違いなことを考えた。

 しょうもない現実逃避である自覚はあったが、そうして気を逸らしていなければとても平静を保てそうにない。


 なんせ現在自分のいる場所は地上から遥か遠く離れた上空であるうえ、しかも乗っているのは機械ではない巨大な鳥の背の上なのだ。

 そうは言っても、手綱を操っているのは自分ではなく背後のロウェンなのでまだしもましではあるのだが。


 キリは視界の隅に映るロウェンの長い腕と、素直にその指示に従う黒鳥の頭頂部を眺めた。

 出立前には緊張のあまり気付かなかったが、そこには三つに別れた大きな羽毛が生えている。


(あれはちょっと、触ってみたいかも……)


 日本ではまず見たことも聞いたこともないこの巨鳥は、エルフィンという名称の鳥だ。

 魔術はあるが飛行機などの機械のないこちらの世界で、唯一空の移動に使われているのがこの鳥である。

 その大きさはちょっとした小屋ほどで、小さい体躯でも二人、大きいものなら三、四人の人間すら背に乗せて飛ぶことができるそうだ。


 キリは最初にこのエルフィンを見た時、その馬鹿でかさに仰天した。

 だが、サイズは非常識であるが、基本的にエルフィンは温厚な性格で何よりひどく頭のいい生き物である。人の指示をよく理解し、争いごとを好まない性分のためこうして使役が可能なのだ。

 そしてその羽毛はたいがい白や灰色、クリーム色などをしており、キリが現在乗っている黒色というのは珍しい。けれども今は羽根の色などは別にどうでもいい話だ。


 もし空を飛べたなら、と想像する子供はきっとたくさんいるだろう。というか、キリも幼い頃にそう思ったことがある。だがやってみると、これは相当おっかないものだった。


(一度グライダーを体験してみたいとか思ったことはあったけど、もういい!)


 星月夜なのでまだましだが、それでもびょうびょうと風は吹きつけてくるし、体はひっきりなしに上下に揺れるのである。とにかくひたすらに地面が恋しい。


「そろそろなんだがな」


 頭上でぼそっと響いた声にキリが仰向くと、すぐそこに遥かな地上を見下ろしているロウェンの濃紫色の双眸が見えた。

 二人で騎乗しているので当然ではあるのだが、それでも想像以上に近くにあったその顔に、キリは急いで首を回した。

 しかし、そのタイミングが悪かった。

 キリが顔を戻すのとほぼ同時に、騎乗しているエルフィンが緩く旋回をしたのである。

 勢いに流され、キリの体が大きく傾いた。


「―――――っ!」


 落ちる、と思ったその直後に、強い腕がキリを引き戻した。低く鋭い声が言う。


「何やってんだ、危ないだろうが」


 ぐっと肩を引き寄せられた。否応なく、背中に彼の体温を感じる。


(ちょ、近い近いっ!)


 自分とは違う他人の熱に、思わず頬に血が上った。唐突に脈拍が早くなる。

 周囲が暗いことを、今だけキリは感謝した。夜でなかったら、きっと真っ赤になった顔をロウェンに気付かれていたことだろう。


(なんかこっちのひとたちって、パーソナルスペースがやたら近くない?)


 正直言って、この距離感はキリには密接すぎる。未だかつて彼氏一人いたことのない身には刺激が強すぎるのだ。

 この三年は特に、極力異性との距離を取るよう仕向けられていたせいもあるのだろうけれども。


(お願いだから、早く着いて~っ!)


 ただでさえ遮るもののない空の上、しかも夜。

 付け加えれば更に冷たい風が吹き荒ぶ中での飛行というだけでもしんどいというのに、これ以上の精神的負荷は完全に許容量を超えている。

 これは一体何の苦行だ、とキリが内心で悲鳴を上げていると、ふいに速度が緩められた。

 体中に当たっていた風の勢いが弱まったのを感じ、目を瞬かせる。


「ロウェン?」

「ここだ」


 よろよろと顔を上げたキリは、ロウェンが顎を向けた先を視線で追いかけた。

 夜目をこらすと、常緑樹の木々に囲まれた窪地らしきものが見えて来た。

 ぽつぽつと立ち並ぶあれは、木ではなく柱だろうか、その中心に何かきらりと光るものが覗いている。


「あれは……?」


 呟きをもらしたキリに、ロウェンは「近くで見れば分かるだろ」とあっさり答えた。


「行くぞ」


 そうして、そのままいきなりエルフィンを降下させる。

 がくん、と体を置き去りにされるような感覚が、キリを襲った。

 とっさにすぐ傍にある腕にしがみつきながら、キリは心の中で声にならない文句を口にした。


(もちょっと心の準備をさせてよっ!)


 この男の行動はいちいち心臓に悪い――と、密かにキリは思った。


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