15
蔵の外へと一歩出たとたん、ぴゅうっと吹きつけてきた風にキリは思わず首をすくめた。
「ひゃ……っ」
ついさっきまで埃で充満していた場所にいた身に澄んだ空気は美味しかったのだが、この寒さは不意打ちだった。
暦の上はまだ秋だが、冷たく鋭い北方の風はすでに冬の気配を漂わせており、比較的南にあるウィンシアから来たキリにはいささか肌寒い。
薄曇りの空を仰ぐと、灰色の雲がかなりの速度で吹き流されて行くのが見えた。
(雪が降る前には動かないとな……)
だがこの様子だと、それはいささか早く来そうだ。
ばさばさと翻る髪を手で押さえ、キリは遠くに見える山の一角に目を移した。
高い丘の上にあるこのレーヴァ家の館は、周辺に遮るものがないので、当然ながらあたりがよく見渡せる。
キリは双眸を細め、注意深く目を凝らした。
こうして見る限り、どうにかそこまでは白く染まっていないようだが。
「ベイネルの山か?」
「え……っ」
内心を読んだかのような一言に、キリの心臓が大きく跳ねた。
「あそこの谷間に一つの遺跡があってな。初代の『聖女』の召喚がそこで行われたのだと、うちに代々言い伝えられてる。……まあ、そんなこと、地元の人間はほとんど知らないけどな」
「そ、そうなんだ」
ばくばくと鳴る心臓を感じながら、努めてキリは何ともないよう答えを返した。
だがロウェンはそんなキリの様子に気づいているのかいないのか、特に表情を変えることなく説明を続けた。
「相当古いものだから下手に入ると危ないってことで、立入禁止になってる。といっても、あそこの管理はうちの管轄だから、定期的に見には行ってるけど」
「……………………………」
キリの背を冷や汗がつっと伝った。
隣に立つロウェンの横顔をそうっと盗み見るが、深い濃紫色の眼差しは静かに山麓へと向けられたままだ。
改めてその端整な顔立ちを眺め、キリは密かに考え込んだ。
(あー、もう、なんだかなあ)
どうにもこうにも釈然としない。
(ほんとに、分からない)
ここに来る道中で、キリは彼に自分が『聖女』であることと、無断で王都の城から逃げ出して来たことを話した。
けれどキリは、大人しく戻るつもりなどない。
だがそれはあくまでキリの事情だ。ゆえに、この件にロウェンを巻き込むつもりもなかった。
なのに、である。
どういうわけか彼は、王宮から追われているキリのことを、報告しないと言い切ったのだ。
それでは明確に上の意に逆らうことになるというのに。
そこまで考えたところで、キリは心の中で溜息をついた。
死にかけていたロウェンを助けたのは確かだが、それでも彼がこうまでして自分を庇うのはどう考えても割に合わないだろうと思うのだ。
そもそもキリは自身について、『聖女』という特殊過ぎる肩書と能力はさておき、それ以外については極々平凡な人間であると認識している。
特別な地位や権力を持っているわけでも、抜きんでた美貌や優れた頭脳などを持っているわけでもない。
だからこそ、そんな自分に肩入れするような理由がどうしても思いつかないのだ。
キリは、燃えるように赤い髪をした怜悧な顔立ちの魔術師や金髪碧眼の神々しいまでの美貌の王子、著名な芸術家が造り上げた彫像のように瑕瑾のない容姿の侯爵家の総領息子などの面々を思い浮かべた。
そうして、脳内のそれらと横の男を見比べ、心の中で頷く。
見るひとの好みによる違いはあれど、ロウェンのそれは彼らに引けを取るものではない。
(無条件で信じるには、ちょっと上出来すぎる男というか……)
本当に、何をどこまで知っていて、そして一体どういうつもりなのだろうか。
ここで何もかもぶちまけて問い詰めたい気持ちはあったが、同時に全てを知るのも怖い気がした。
それでも、これまで幾度となく感じた疑問がキリの口をとっさに衝いて出そうになった、そのとき。
「――あいつ、どうしたんだ?」
「え?」
ロウェンの声に、キリはとっさに彼の視線を追った。
するとそこに、ぼやけた陽光の下であってもつい目を惹かれるような白銀の髪が見えた。
「ミリア、どうかしたのか?」
少し声を張り上げてロウェンが呼びかけると、小柄な少女は石段を上っていた足を止めてこちらを見上げて来た。ひらひらと片手を振ってから、再び自分たちの所へと向かってくる。
寒風に巻き上げられた黒髪を両手で押し止めながら、キリも大声で彼女に言った。
「気をつけて。かなり、風が強くなってきたみたい」
来た時には気づかなかったが、こうして改めて見下ろすとかなり角度の急な階段である。
下りのときには怖いかもしれないな、とキリは密かに思った。
しかし少女は気負いのない足取りで最後の段を上り切ると、にこりと笑った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。慣れてますから」
可憐な容姿に相応しい、澄んだ声音でミリアは言った。
長い銀の睫に縁取られたその瞳は、透き通るような青紫色だ。どことなくロウェンと重なる面差しは、やはりその血のつながりゆえか。
彼の再従妹だということだから似ていても不思議はないのだが、それでも対照的な黒髪と銀髪の二人の印象が被って見えるのは少し面白かった。
キリが興味深く彼らを眺めていると、ミリアがロウェンに何かを手渡した。
「これは? 急ぎの件か?」
言いながら二通の封を切ったロウェンに、ミリアも頷く。
「そちらは隣の領からのものです。先日の海賊討伐の件についてのようですね。もう一つの方は、ラース様から届いた鷹文です」
耳にした名前に、キリはとっさにロウェンの手元を見た。
あのとき、笑って自分とロウェンとを送り出してくれた彼。心配はいらないとロウェンは言っていたが、どうだったのだろうか。
キリは注意深くその様子を窺ったが、ロウェンの表情に目立った変化は見られなかった。
濃紫色の瞳で文面を素早く一瞥し、ただふうんと呟きを落とす。
「成程、な」
小さく独り言ちる彼に訊きたいことは色々あったが、しかし今ここにはミリアがいる。第三者の耳目があるところで、下手なことは口にできない。
ロウェンは広げた紙面を畳み、封筒の中に戻すとミリアを見た。
「分かった。すぐに返事をしたためるから、送る手配を頼む」
「はい」
すんなり首肯した後、ミリアはふとキリへと視線を向けた。
ふわりと微笑むその顔は、十代半ばにしか見えない。しかし驚いたことに、彼女はこれで二十歳だという。
(これで、私より二つ年上って……)
ひそかに悩むキリに、ミリアは軽く小首を傾げて質問して来た。
「キリ様は、今日はこちらにお泊りになられるのですよね。これから料理人が食事の用意を始めるのですけれど、何か苦手な物はございますか?」
「うぐっ……」
彼女にそんな意図はないにせよ、それはキリには急所を突かれるような問いかけである。
だが、思わずくぐもった声をあげたキリの前で、ロウェンが軽く首を振った。
「いや、悪いが予定が入った。俺たちはこれからちょっと出かけて来る。さすがに晩餐には間に合いそうにないからな、厨房には何か作ってもらうよう俺から頼んでおく」
ちらりとキリに視線をよこし、ロウェンはあっさりと言った。
(はあっ?)
寝耳に水の話に、キリは軽く目を見開く。だが、自分のそんな反応には気づいているであろう男は知らん顔だ。
そしてミリアも特に疑問を抱いた様子はないようで、ロウェンに訊き返す。
「どちらにですか?」
「ベイネルの山麓だ。エルフィンで行くからな、そんなに時間はかからない」
「ええっ!?」
思わず出した大声に他の二人の視線が向いたが、生憎キリにそれを気に留める余裕はなかった。
「エルフィンって。もしかして、あの大きい鳥のこと!?」
顔を引き攣らせているキリに、不可解そうにロウェンが訊いて来る。
「それがどうかしたか?」
一瞬山の方角を見遣り、再びキリに視線を戻して言う。
「さすがに馬じゃ一日がかりだ。あれじゃなかったら、とんでもなく時間を食うぞ?」
キリにもその理屈はよく分かる。起伏の激しい陸路を馬で行くのに比べ、エルフィンならあの距離なら瞬く間だろう。
――しかし、だ。
この後に訪れるだろう展開を思い描いたキリの眉がへにゃ、と下がった。




