11
広がる青い空へと向かい、一羽の鳥がばさりと翼を広げた。
小さな影は高台にそびえる尖塔をゆるりと旋回し、そのまま彼方へと去っていく。
鳥が後にしたその塔は、大陸有数の大国であるウィステリアの王都、ウィンシアの中央に存在するヨーリック城の一画にある。
しかし、国の内外問わず壮麗で知られるその城の内部は、先だっての祝典の日を境に異様な緊張感に包まれていた。
少しまでこの国は、溢れた『瘴気』に蝕まれ、人々は日々怯えながら過ごしていた。
それが、三年前に召喚された聖女の力により各地の『瘴気』が祓われたことで、最近ようやく国内は平穏を取り戻したのだ。
これで、延び延びになっていた王太子の即位式も近く執り行われることになるだろうと、本来であれば城内は賑やかな喜びに満ちていた――筈だったのだが。
それにも関わらず、ウィステリアの国政を統括する国王の執務室にあったのは王太子ではなく第五王子であるフォルカー・ディス・ウェスタインの姿だった。
山のような書類が積まれた重厚な机の前に座り、フォルカーはひたすらペンを滑らせていた。
夜空に似た深い瑠璃色の双眸は、一切滞ることなく難解な文面を読み進めて行く。
サインを終え、次の書類を取ろうとしたその耳に、ノックの音が届いた。
「入れ」
視線を下に落としたままフォルカーが告げると、分厚い扉が開かれる重い音がした。
近付いて来る靴音は、彼の耳によく馴染んだそれだ。
「報告、持って来たぞ」
フォルカーの手がようやくそこで止まった。顔を上げ、机の横に立った男を見る。
「見つかったのか?」
短い問いかけだったが、古くからの友人である彼相手にはこれで充分だった。
それに対し、ウィステリアの王立騎士団長であるエドガーの回答は芳しくないものだった。
「いや、似たような奴を見かけたって情報はあるが、現時点では決め手に欠けるな。この一週間手をこまねいたのが痛かった。それで確認したかったんだが……俺より、キニスの方はどうなんだ? ミヅキが着けてる腕輪を探ればすぐに分かるんじゃないのか?」
「俺もそう思ってたんだけどね、生憎その目論見は完全に外れた」
「――どういうことだ?」
驚くエドガーに対し、フォルカーは淡々と言った。
「聞くと、腕輪の反応が全く感知できないそうなんだよ。おそらく彼女はあれを外している」
「外すって……、けどあれは、着けさせた人間以外には取り外しができないものだったんじゃないのか?」
エドガーは訝しげに首を傾げた。
「その筈だったんだが、しかし他に考えられないんだ。嵌めている本人が死亡した場合も該当するが、そうでないことは分かり切っているしな」
基本的に、魔術の解呪は術を掛けた本人が解くか、術者もしくはその対象者が死亡した場合、あるいは術者の定めた条件を整えるかといった方法でしか解くことはできない。
そして、彼女のかけた魔術が今も顕在なのははっきりしているのである。
「まあ、そうだな。そんなことになってたら、すでにあいつにかかっている術は解けているか」
件の術をかけられた人物を思い浮かべたのか、エドガーは微妙な表情になった。
フォルカーもその心境は分かった。同情するような相手ではないが、それでも多少は気の毒にも思わなくもない、といったところだろうか。
「そういうことだ。……それで思い出したんだが、兄上の件についても同様に全く進展がないそうだ」
「そうなのか? 確かあいつ、『ミヅキのかけた術だ、それくらいどうとでもなる』とか余裕綽々だったじゃないか」
「それが、想定外に強い術だったらしい。定石どおりに術者が死亡するか、もしくは術者の定めた条件に沿わなければ解呪できないそうだ」
エドガーが、うわ、とばかりに顔を顰める。
「そういうこととなると、あっちは相当苛立ってるだろうな。当たり散らされている周囲の人間はとんだ災難だ。俺に言わせれば、自業自得でしかないが」
フォルカーの肩がくっと揺れた。その拍子に、きらめく金髪がさらりと流れる。
「随分辛辣だな」
「おまえと同じくな。まあ、あいつらが動くとろくなことにならないだろうから、それはまあいいんだが……」
皮肉な笑みを浮かべていたエドガーの灰色の瞳が、ふと暗くなった。
「それでも、いずれにせよミヅキの処遇は何も変わらないんだろ」
答えようとしたフォルカーの口元が、一瞬だけ静止した。
鉛を呑んだような胸の重さをあえて無視し、唇を動かす。
「……何にせよ、彼女はもう故郷には帰れない。残りの人生をこちらで過ごすしかないんだ。そうである以上、彼女を招いた俺たちにできることは、叶う限り最上の生活を用意することくらいだ」
「あー……」
エドガーがひどく苦い面持ちになった。
「それも、ミヅキにばれたんだよな……。近々話すことになってたとはいえ、それでもあんな形で知らされたんだ。怒って城を飛び出しても無理はねえよな」
「出奔の理由だけならな」
「フォルカー?」
「衝動的に城を出たとしたなら、それで説明はつくだろう。でも、違う。ミヅキの行動は明らかに計画的なものだ」
「元々姿を消すつもりだったってことか?」
「ああ、そうでなければあの夜を境に腕輪の反応がなくなった理由が分からない。兄の行動はさすがに想定外だっただろうが、それ以外についてはな……。おそらくミヅキはかなり早い段階から準備を進めていた筈だ」
「どうしてそう思うんだ?」
「確信があったわけじゃない。ただ、今になって思い返せば、ミズキに掛けられていた暗示が時々薄れているように感じられることがあった」
「ちょ……、おまえら、そんなことまでミヅキにしてたのかよ!?」
初めて聞かされた事実に、エドガーの表情が一変した。
さすがにそこまでの行為に及んでいたとは、思いもしなかったのだろう。
「……洗脳と言う程強いものじゃなかった。そこまでしたら、万が一にも失敗したときの反発が怖いからな。だから弱い暗示をかけていた。ミヅキが俺たちに好意を抱きやすくなるよう、そして俺たちの言葉を信じやすくなるようなものをな。代々『聖女』の召喚の際には、そうしてきた」
「おまえの兄貴やレジオン、それにキニスならそれくらいの真似はしかねないが……。でも待てって、代々ずっとなのかよ?」
フォルカーはわずかに目を伏せた。それからゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、十代以上前に召喚された『紅の聖女』以降の話だな。彼女の話はおまえも耳にしたことくらいはあるだろう」
そう言われ、エドガーは己の記憶を探るように目を細めた。
「王族のおまえと違って、俺は詳しいことは知らんが……。確か、ウェスタインの王族をことごとく殺害した『聖女』だろ。当時の国王だった隻腕王クランジェルトと長い戦を繰り広げたっていう」
エドガーが口にしたそれは、公の歴史書には一切残されなかった史実の一部だ。
「おおまかにはそうだ。彼女が反旗を翻したことによって、そのときは国内が二分するほどの事態になったらしい。つまり、そのときになってようやく国の中枢部や魔術師たちは気がついたわけだ。――『聖女』の危険性に」
危険性、などと物騒なことを口にしたフォルカーを、エドガーは不思議そうに見返した。
「そうか? ミヅキは見た目も中身もごく普通の女の子だったけどな」
「それは否定しないが。……ただ、当然ながら『聖女』の持つ力は非常に大きい。ゆえに彼女たちがこの国――ひいてはこの世界への害意を持てば、大きな厄災を招きかねない。だからこそ、召喚の際には彼女たちに枷をつけることが定められたんだ。あの腕輪も、その一部だ」
「あれは、『聖女』の力を補助するためのものだって言ってなかったか?」
「そうだ。初代の『聖女』の時代からずっと使われていると聞いている。あの腕輪は『聖女』が力を揮うときの媒介になるからな。だから、それ以外にも機能を追加しても気づかれないと判断されたんだろう」
「『聖女』の居場所を知らせるってやつか……。単なる迷子札とかなら可愛げがあるけどな」
確かに、本人が見つけてほしいと思っているような場合なら有難いだろうが、そうでなければ迷惑極まりない代物だ。
あの腕輪は、『聖女』の安全のためというよりも、万が一彼女が逃げ出したとしても必ず見つけ出せるように用意された魔術具だった――のだが。
「なのに、ミヅキがどこにいるのかは全く分からない、か」
腕を組み、エドガーは壁に背中をもたれさせた。眉を寄せて考え込んでいる。
「他にミヅキを探す方法はないのか? 腕輪の方は無理でも他に使える魔術とかはどうなんだ」
「それが……、腕輪さえあるなら大丈夫だろうと、キニスもレジオンも思っていたそうだ。それでも、身近にあったミヅキの私物でも残っていたら探索の術は使えたんだが。ただ、そちらは彼女の方が一枚上手だった」
「上手?」
「あの夜の火事だよ。ご丁寧に、ミヅキは自分が滞在していた部屋の中だけを綺麗に燃やして姿を消したんだ」
手掛かりと成りうる物は全て燃やし尽くし、自らに繋がる可能性を全て排除してから彼女は去ったのだ。
「成程な。それだけで、どんだけあいつが考え抜いて行動したか分かるな」
頭を悩ませつつもその声音に僅かに嬉しげな響きが宿っているのは、彼にとってのミヅキが護衛対象であったのと同時に教え子でもあるからだろう。
ミヅキに魔術の指導をしたのはキニスだが、武術の手解きをしたのはエドガーだった。
騎士団長の職にある彼にとって、武芸に一切の縁のない平和な世界で育ってきた少女はとんでもなく危なっかしく目に映っていたに違いない。
あまり態度に出すことはなかったが、エドガーがミヅキをひどく気遣っていることは親しくしていたフォルカーには分かっていた。
そして、そんな彼女がたった一人で姿をくらませたことを、心底案じていることもだ。
「ほんとに、どこに行ったんだろうな。自分が生まれた世界に帰れないことを知って、やけになっていなければいいんだが」
窓の外を見上げて言ったエドガーの口調は苦々しかった。
その気持ちはフォルカーにもよく分かった。
自分もキニスもミヅキに嘘を言ったわけではない。
召喚の術式を開発した大魔術師は同時に帰還の術式も生み出し魔術書に記した――、それは確かな事実だ。
ただ、その先に起こった史実を彼女に伝えなかったのは、明らかに故意に行ったことだった。
初代『聖女』が召喚されてから何代も経た後に、それは起きた。
今から数百年も前の話だ。召喚された『聖女』を元の世界に帰すまいと、当時の国王は帰還の術式が記された魔術書――正確にはその術式が書かれた貢だけだが――をすべて破棄し、焼き尽くしたのだ。
その所業によって、帰還の術式は完全に失われた。
ゆえに、召喚された『聖女』が帰還する術はない。
自分たちはそれを承知の上でミヅキを召喚し、更にその事実を隠した上で彼女に協力を促した。
……本当は、祝典の儀式を終えてから全ての事実をミヅキに伝えるつもりだった。
だが、フォルカーがそうする前に、思いもかけない暴挙に出た人物がいたのだ。
ウィステリアの第二王子であり同時に王太子であり、そしてフォルカーの異母兄でもあるジークフリート・ヴィア・ウェスタインだ。
どうやら彼は、長期間に及んだ『瘴気』による国土の疲弊で、自身の即位を先延ばしにされ続けていたことが余程腹に据えかねていたらしい。
あろうことか兄は深夜にミヅキの部屋に押し入り、彼女を妃とすることを告げたのだという。
当然ながら、ミヅキはそれを拒否したらそうだ。
しかし、喜んで受け入れるだろうと頭から思い込んでいた王太子は、想定外だった彼女の抵抗に頭に血がのぼったのだろう。
召喚された『聖女』が再び元の世界に戻る術はないことを、つい言ってしまったのだ。
「………………………」
フォルカーは、重い息を吐きだした。
本当に、考えるだに頭が痛い。それでなくとも、ミヅキにかかっている暗示の効果が弱まっていることは確かなのだ。どう話せば彼女が耳を傾けてくれるというのだろうか。
しかも、これだけでもミヅキの自分たちへの信頼は地に墜ちているというのに、である。
エドガーはフォルカーの内心を読んだかのようにその懸念を口にした。
「全く、あの王太子ときたら余計なことをしてくれる。更に、ミヅキを襲って思い通りにしようなんて、ふざけるにも程があるだろうが」
「………………………」
エドガーのその発言には、全くもって返す言葉も無かった。
兄の所業は、半分とはいえ血の繋がった弟としては身の置き所がないほどに情けなく恥ずかしいものだったが、それでもフォルカーはその代理を務めざるを得ない立場である。
「報復として、それ相応の目に遭わされたわけだけどね……」
「身から出た錆だがな」
その意見には全面的に賛成ではあるのだが。
「しかし、そうかと言って兄をあのままにしておくわけにもいかないだろう。王太子が『聖女』に呪いをかけられた挙句に王城から逃げられたなんて、世間に知られようものなら大変な醜聞だ」
「ああ、……これが余所の国の出来事だったら、単なる笑い話だったんだけどな。……頼んだところでミヅキが解呪してくれるどうかは不明だが。まあそれも、あいつを探しだしてからの話か」
「そういうことだ。これまで同様、探し人が『聖女』であることはばれないようにして捜索を続けてくれ」
「了解。ネイやシュゼットにも、心当たりがないかもう一度聞いてみる」
「頼む。……本格的な冬が始まる前に、ミヅキを見つけたい」
そう告げ終えると、思わずフォルカーの口から重い溜め息が零れ落ちた。
窓から吹き込んで来た色鮮やかな紅の一葉を指先で拾い上げて、フォルカーは青く染まった空を見上げる。
――そろそろ、秋の終わりが来るのだ。




