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第6話 真実は、まだ届かない

 第6話 真実は、まだ届かない


 あの日から数日間、俺たちは役割を分けて動いた。


 まず、俺。


 俺の担当は、図書室だった。


 水野さんと朝倉くんが交わす会話を聞き、その言葉の奥にあるものを読む。


 言い方だけを見れば、かなりまともな仕事のように聞こえる。


 だが実際にやっていることは、図書室の返却棚を整理しながら、二人の会話に神経を尖らせるという、かなり地味で、かなり胃に悪い作業だった。


 二人の視線。


 言葉の間。


 本を渡すときの指先。


 相手の名前を呼ぶ直前の呼吸。


 そういう、本人たちも気づいていない小さな揺れを拾うことが、俺の役割だった。


 まあ、どちらにせよ白瀬叶に言わせれば「変態っぽい」のだろうが。


 次に、白瀬叶。


 白瀬叶は、二人の周囲にいる生徒たちへ自然に近づき、雑談の中から必要な情報を拾った。


 図書委員の先輩。


 同じクラスの女子。


 朝倉くんとたまに話す男子。


 水野さんと貸出カウンターで一緒になる生徒。


 叶は誰に対しても、いかにも偶然のように話しかける。


「最近、図書室って忙しい?」


「朝倉くん、ちょっと疲れてる感じしない?」


「水野さんって、本の話になると雰囲気変わるよね」


 あいつのすごいところは、質問しているように見えないのに、いつの間にか必要な話を引き出しているところだ。


 俺がやれば尋問にしか見えない会話を、叶は世間話に変えてしまう。


 相手は警戒せず、むしろ叶に相談されたような気分で話してしまう。


 便利な能力だ。


 正直、少し腹立たしい。


 そして榎本すず。


 榎本すずは――本人いわく「取材」、俺たちから見れば「かなり危うい尾行まがいの調査」によって、朝倉航の日常を追った。


 俺の言葉で言えば、まあ、かなりぎりぎりの追跡調査である。


「ストーカーじゃないよ。取材だよ。しかも今回は記事にしない取材!」


 本人はそう主張していたが、言い方を変えても危険度はあまり下がっていない。


 ただし、すずの情報収集力が役に立つことも事実だった。


「追った」という言い方はかなり危険なので、本人は「行動圏の取材」と呼んでいる。


 さらに危険だった。


 すずは少し不満そうに頬を膨らませていた。


「私、そんなに信用ない?」


「前科があるから」


「失礼だな」


      ◇


 そして今日。


 俺たちはまた、恋愛工作室に集まっていた。


 旧校舎の端。


 古い準備室。


 机の上には、俺たちがそれぞれ集めたメモと写真と、すずのノートパソコンが並んでいる。


 叶が両手を合わせるようにして、俺たちを見た。


「それで、どう? みんな」


「まず図書室での二人だけど」


 俺はノートを開いた。


 そこには、水野と朝倉のここ数日の会話を簡単に記録してある。


 もちろん、内容そのものではなく、間や反応の変化を中心にだ。


「表面上は大きな問題はない。二人とも普通に会話している。返却本の整理もしているし、朝倉くんが水野を避けている様子もない」


「じゃあ、よくなったの?」


 すずが首をかしげる。


 俺は首を横に振った。


「違う。むしろ、前と逆になった」


「逆?」


 叶が聞き返す。


「ああ」


 俺はペンでノートを叩いた。


「以前は、水野さんが不安そうで、朝倉くんが比較的落ち着いているように見えた。水野さんは朝倉くんの動きを追って、朝倉くんはそれに気づいていながら、あえて触れないようにしていた」


「でも今は逆だ」


「逆?」


「水野は、何かを諦めたみたいに振る舞っている。朝倉くんが先に帰っても、来られなくても、短く返事をして、それ以上踏み込まない」


 俺は数日前の図書室を思い出す。


 朝倉くんがスマホを見ても、水野は反応しない。


 朝倉くんが先に帰ると言っても、水野は短く頷くだけ。


 朝倉くんが話しかけようとしても、必要以上に踏み込まない。


 あまりにも淡々としている。


「諦めたように見える。けど、本当に諦めた人間の反応じゃない。何かを胸の奥に押し込んで、表面だけ平らにしている感じだ」


「水野さんらしいね」


 叶が小さく言った。


「で、朝倉くんは?」


「朝倉くんの方は、逆に迷いが出ている」


「迷い?」


「何かを言おうとしてやめる場面が何度もあった。水野が本棚へ向かうと視線で追う。けど、声はかけない。水野がいつも借りていた作家の本を見ている時も、何か言いかけていた」


「つまり」


 すずが指を立てる。


「水野さんは諦めようとしていて、朝倉くんは話そうとして迷ってる?」


「そう見える」


「前と真逆だね」


「ああ」


 前は水野が焦り、朝倉くんが黙っていた。


 今は水野が黙り、朝倉くんが焦っている。


 それだけで、何かが動いたことは分かる。


 だが、なぜ動いたのかが分からない。


「変化が急すぎる」


 俺は言った。


「水野が諦めたのは市立図書館での一件がきっかけだろう。だけど朝倉くんの方の迷いは、今週の月曜あたりからはっきり強くなっている」


「月曜……」


 叶が考え込む。


 その時、すずが勢いよくノートパソコンを開いた。


 起動音が静かな部屋に響く。


「そこで情報担当の出番です」


 すずはノートパソコンの画面をこちらへ向けた。


 そこには市立図書館と、商店街の古本屋の写真が並んでいる。


「週末、朝倉くんは市立図書館に行ってる。そこで一冊、本を借りた。そのあと、こもれび堂にも寄った」


 俺は画面に映る写真を見る。


 遠目に撮られた図書館の入口と、返却カウンター付近。


 遠目だからはっきりしないが、朝倉くんが一冊の文庫本を持っている。


 表紙は少し古い。


 けれど、タイトルには見覚えがあった。


 水野さんと朝倉くんの貸出カードに、何度も名前が残っていた作家。


 二人の間で、言葉の代わりにやり取りされていたような本。


「水野さんが前に話していた作家の本と同じ」


 すずが言った。


「市立図書館であの子が朝倉くんに押しつけてた本も、多分これ」


「やっぱり、この本か」


「うん」


 すずが頷く。


「水野さんが前に話していた本だよね。学校の図書室にはないって言ってた」


「そう。朝倉くん、前に水野さんと話してた時に言ってたよね。『読んでみたいけど、うちの図書室には入ってない』って」


「じゃあ、朝倉くんは水野さんとその本の話をするために借りたってこと?」


「その可能性は高い」


「別の読み方は?」


 すずが言う。


 俺は少し考えた。


「ゼロではない。でも、少なくとも今までの流れを考えるなら、水野さんと関係がある可能性が一番高い」


「つまり、朝倉くんは水野さんを避けてるわけじゃない?」


 叶の声に、ほんの少し希望が混じる。


 俺はすぐには頷かなかった。


「それを断定するには早い。ただ、水野さんが思っているほど単純に『別の女の子がいる』という話ではないと思う」


 すずは次の写真へ切り替えた。


 古本屋の棚。


 そこには高校入試用の参考書が写っていた。


 古本屋の袋から少しだけ覗いた背表紙。


「あと、これ」


「参考書?」


 叶が首を傾げる。


 表紙には大きく、高校入試対策と書かれている。


「朝倉くん、古本屋で高校入試の参考書も買ってたっぽい」


「高校入試?」


 叶が首を傾げる。


「朝倉くんは高校生だよね?」


「朝倉くんが使うにはおかしいよね。高校一年生が今さら高校入試の参考書なんて」


「だから、本人用じゃない」


「じゃあ、この高校入試参考書は?」


「まだ確定じゃないけど、私もその線を疑ってる。例の女の子、星ノ宮の制服じゃないし、年下に見えた。高校入試の参考書を選んでるなら、中学生って考えるのが自然」


 すずは画面をこちらへ向けた。

 写真には、古本屋の棚に並ぶ参考書が写っている。

 その隣に、例の他校の制服の少女らしき横顔。


 俺は言った。


「でも、これでだいぶ見えたね。朝倉くんは水野さんと話すために本を探している。なのに水野さんは、朝倉くんが自分から離れようとしていると思っている」


「問題は、朝倉くんが図書委員を辞める理由だ」


 俺が言うと、叶が自分のメモを見た。


「そこ、少し聞けたよ」


「周辺から?」


「うん。二人とも個人的な話をたくさんするタイプじゃないから、はっきりしたことは少ないけど……最近、朝倉くんが“ちょっときつい”って言うことが増えたみたい」


「きつい?」


「家のこととか、放課後の予定とか、いろいろ重なってるみたい。あと、図書委員を辞めるかもしれないって、何人かに相談してた」


 黒板に、叶が新しく書き込む。


『朝倉航:図書委員を辞める?』


「理由は?」


「詳しくは言ってない。ただ、周囲に“図書委員に興味ある人いないかな”って聞いていたらしい」


「代わりを探していたのか」


「うん。でも迷ってる」


 叶は少しだけ目を伏せた。


「水野さんと一緒にやっていた委員だから」


 そうか。


 やはり、朝倉くんは終わらせたいわけではない。


 終わることを言えずにいる。


 そして水野さんは、終わったことにしようとしている。


 二人とも、同じ場所に立っているのに、互いに背を向けている。


「それから、もう一つ」


 すずが画面を切り替えた。


「今週の木曜日、あの女の子が一人で市立図書館に来るっぽい」


「どうして分かる」


「朝倉くんと話してるのを聞いた。『木曜も一緒に行って』って頼んでたんだけど、朝倉くんが断ってた。誰かと約束があるからって」


「木曜日……」


 叶が俺を見る。


 俺もすぐに気づいた。


「水野さんと朝倉くんが、図書室で本の話をする日だ」


「そう。図書委員の仕事がほとんどなくて、二人でゆっくり本の話ができる曜日」


 すずはペンで机を軽く叩いた。


「つまり、朝倉くんはその子より、水野さんとの約束を優先した」


「もし朝倉くんがその日に来られなくなったなら、水野さんにとっては大きいな」


 叶が頷く。


 その言葉で、いくつかの点がつながる。


 朝倉くんが図書室に来る時間を減らしたこと。


 図書委員を辞めようとしていること。


 市立図書館まで行って、水野さんが好きな作家の本を借りたこと。


 高校入試の参考書。


 あの少女。


 まだ線は完全ではない。


 だが、方向は見えてきた。


「なるほどな」


 俺は腕を組んだ。


「これで、朝倉くんが市立図書館まで行って水野さんの好きな本を借りた理由は見えてきた」


「水野さんと、最後にその本の話をしたかった?」


 叶が言う。


「あるいは、図書委員を辞める前に、何か渡したかった」


「じゃあ結局、問題は……」


「朝倉くんが何に疲れてるのか。それと、あの少女が誰なのか」


「うん。だから、先に確かめたい」


 すずがノートパソコンを閉じた。


「その答えを知るなら、木曜日だね」


「また市立図書館か」


 叶が頷く。


「うん。そこで何か分かるかもしれない」


「じゃあ、市立図書館編リターンズ」


 叶が立ち上がる。


「次回予告。恋愛工作室、再び市立図書館へ」


「タイトルは?」


「必要ない」


「私は『参考書は恋を証明するか』がいいと思う」


「行くしかないね」


 俺はため息をついた。


「朝倉くん、図書館好きでしょ?」


 叶がからかうように言う。


「好きな場所と、尾行場所が一致してほしくないんだよ」


「じゃあ、今回は尾行じゃなくて調査ね」


「言い換えてもやることは変わらないだろ」


 だが、俺たちは全員分かっていた。


 木曜日に何が分かるかで、この依頼の形は大きく変わる。


 水野さんが諦めようとしている恋が、本当に終わるのか。


 それとも、まだ言葉にできる余地があるのか。




      ◇



 そして木曜日。


 俺たちは、市立図書館へ向かった。


 夕方にはまだ早いが、日差しは少し低い。


 市立図書館のガラス張りの入口には、前に見たのと同じように、街路樹の影が映っている。


 市立図書館は、学校の図書室より広く、静かで、どこかよそよそしい。

 同じ本棚でも、制服の生徒と買い物帰りの大人と小学生が並ぶだけで、空気が変わる。

 学校の外には、学校の中だけでは見えない顔がある。


 そのことを、水野さんはあの日、痛いほど知ったのだと思う。


「……少し緊張するね」


 叶が小声で言った。


「お前でも緊張するのか」


「リツくん、顔が硬い」


 入口の自動ドアを抜けたところで、叶が小声で言った。


「普通だ」


「そうか?」


「そういうところ、かわいげがないよね」


「必要ない」


「少しは必要だよ?」


「何に」


「人間関係に」


 すずが横から顔を出した。


「二人とも、いちゃつくのは後にして」


「いちゃついてない」


「そういう反応が一番いちゃつきっぽいんだよね」


 軽口を交わしながらも、俺たちの視線は目的の少女を探していた。


 前に来たときと同じガラス張りの入口。


 自動ドア。


 返却ポスト。


 そして、入口近くの閲覧席に、例の他校制服の少女がいた。


 俺たちは図書館の中へ入った。


 前に朝倉くんと一緒にいた、他校の制服の少女。


 今日は一人だった。


 彼女は参考書の棚の前に立ち、真剣な顔で本を選んでいる。


 背は小柄で、髪は肩のあたりで少し跳ねている。


 背伸びをして棚を見上げ、重そうな問題集を抜き出し、ぱらぱらとページをめくる。


「いた」


 叶が小さく言った。


「一人だね」


 少女は参考書を開いていた。


 表紙のタイトルは、高校入試対策のものだった。


 古本屋で見た本と同じシリーズ。


 俺は小声で言った。


「あれだ」


「うん」


 叶がうなずく。


「参考書、本当にあの子のものっぽいね」


「本当だ」


 すずが息を呑む。


「ということは、やっぱり――」


 叶が一歩進みかけた。


 その時、後ろから声がした。


「白瀬?」


 俺たちは同時に振り返った。


 朝倉航が立っていた。


 鞄を肩にかけ、手には返却用の本が一冊。


 彼は俺たち三人を見て、きょとんとした顔をした。


「雨宮も、榎本も……何してるの、ここで」


「いや……朝倉くんこそ、どうしてここに」


「それはこっちが聞きたいんだけど」


 朝倉くんは眉を寄せた。


「みんなで市立図書館? しかも、そんな本棚の陰に隠れるみたいにして」


 叶は一瞬だけ笑顔を整えた。


「本を探しに」


「三人で?」


「うん」


「同じ棚の陰に固まって?」


「奇遇だね」


「奇遇……なのか?」


「仲良しだから」


 俺たち三人は、ほぼ同時に固まった。


「えっと」


 叶が笑顔を作る。


「読書?」


「疑問形にするな」


 俺は小声で言った。


 すずは案内パンフレットを掲げる。


「市立図書館の地域文化コーナー特集を――」


「それ、児童向けイベント案内だぞ」


 朝倉くんが冷静に突っ込んだ。


「市立図書館の床材の耐久性を確認している」


「リツくん」


 叶が小声で止める。


「今のは苦しすぎる」


「分かってる」


 すずがすかさず手を上げた。


「新聞部の資料探し」


「三人で?」


「うん。チーム取材」


「雨宮も新聞部だったっけ」


「体験入部」


「してない」


 朝倉くんは少し困ったように眉を寄せた。


「いや、別にいいけど……白瀬たちこそ、ここで何か調べもの?」


「えーっと」


 すずが目を泳がせる。


 こういうとき、一番口が回るはずの彼女が、意外と弱い。


 叶が一歩前に出る。


「本を探しに来たの」


「三人で?」


「うん」


「この並びで?」


 朝倉くんの視線が、俺、叶、すずの順に動く。


 もっともな疑問だった。


 俺と叶とすずの三人で市立図書館の参考書コーナーにいる理由など、普通に考えればかなり怪しい。


 すずが小声で言う。


「恋愛工作室、市立図書館支部の視察とか?」


「黙ってろ」


 叶は一瞬だけ迷って、それから笑った。

 自然だった。

 俺なら十五秒沈黙してから余計に怪しいことを言う場面だ。


「うん。ちょっと参考書を見に来てて。朝倉くんは?」


「今日は図書室で水野といる日じゃなかったのか」


 そう言った瞬間、朝倉くんの表情が変わった。


「水野?」


「そうだ。木曜はいつも――」


「水野は今日、体調が悪いって言って先に帰った」


「……何?」


「先に帰った?」


 叶の声が低くなる。


「ああ。図書室にも来なかった。今日は……話したいことがあったんだけど」


 朝倉くんは、鞄の紐を握り直した。


「だから、市立図書館に?」


「あと、借りていた本の返却期限が今日だったから」


「うん。だから、こっちに来た。今週が最後の図書委員当番になるかもしれなかったから、今日話しておきたかったんだけど……急に休むって聞いて」


「朝倉くん、それ、水野さんにちゃんと言った?」


「いや、まだ……」


 朝倉くんは視線を落とす。


「言おうと思ってた。今日、ちゃんと」


 叶の顔から、いつもの柔らかさが消えた。


「待って」


 叶が一歩前に出た。


「朝倉くん、本当に何も知らないの?」


「何のこと?」


「水野さんのこと」


「水野が体調悪いってこと以外は……」


「水野さんを一人にして、どうするの!」


 図書館の静けさの中で、叶の声が思ったより強く響いた。


 朝倉くんは困惑したように眉を寄せる。


「どういう意味だよ。水野さんに何かあったのか?」


 その時、参考書コーナーにいた少女がこちらへ近づいてきた。


「お兄ちゃん?」


 俺たちは三人同時に少女を見た。


「お兄ちゃん?」


 一瞬、空気が止まった。


 朝倉くんは少女を見て、それから俺たちを見た。


「ああ、えっと……妹の美緒」


 美緒は不思議そうに首をかしげる。


「こんにちは。えっと、兄の知り合いですか?」


「たぶん、そう」


 朝倉くんが曖昧に答える。


「たぶんって何だ」


 俺が反射的に突っ込むと、朝倉くんは少しだけ困った顔をした。


「いや、どう説明すればいいのか分からなくて」


「知り合いというか」


 すずが微妙な顔をする。


「事件関係者というか」


「すず」


「美緒さん、だよね。初めまして。白瀬叶です」


「どうも。朝倉美緒です。兄がお世話になってます」


 美緒はぺこりと頭を下げた。


 叶が目を見開く。


 俺は、頭の中で最後の点がつながる音を聞いた気がした。


 朝倉くんが少しだけ不満そうに言う。


「なんで俺が世話されてる前提なんだよ」


「されてるでしょ。今も、すごくされてる顔してる」


「どんな顔だ」


「説明不足で周囲を困らせた人の顔」


 朝倉くんの妹。


 市立図書館で一緒に本を選んでいた少女。


 参考書を買っていた相手。


 袖を引っ張り、荷物を持たせ、飲み物を当然のように受け取っていた相手。


 全部、妹だった。


「えっと……兄が何かしました?」


「兄が何か、というより」


 叶が苦笑する。


「兄の説明不足が、少し」


「かなり」


 すずが訂正する。


「相当」


 俺も訂正した。


 朝倉くんが眉を寄せる。


「何なんだよ」


 美緒は参考書を抱え直した。


「じゃあ、あの本は?」


 叶が聞いた。


「水野さんが好きな作家の本。学校の図書室にはなかった本」


 朝倉くんは驚いたように顔を上げる。


「それも知ってるのか」


「少しだけ」


 叶はごまかした。


 ごまかし方が下手だ。


 朝倉くんは鞄の中を見た。


「水野に渡そうと思ってた。プレゼントってほどじゃない。ただ……次に話す理由が欲しかった」


 美緒が横から呆れたように言う。


「だから早く渡しなって言ったじゃん」


「美緒、そこまで言わなくていい」


「言わないから誤解されるんでしょ」


「黙ってろ」


「だって、お兄ちゃん最近ずっと言ってたじゃん。渡すなら早いほうがいいとか、でも重く見えたら困るとか、学校の図書室にない本だから変に思われるかもとか」


「言ってない」


「お兄ちゃん、そういうところ本当に面倒くさい」


「お前に言われたくない」


 美緒は肩をすくめた。


「じゃあ、市立図書館に来ていたのは」


 叶が聞く。


 朝倉くんはまだ状況を理解しきれていない顔で答える。


「美緒が受験生だから。高校入試の参考書を探すのを手伝ってた。親が忙しいから、最近は家のこともだいたい俺がやってて」


 美緒が少し頬を膨らませる。


「だいたいって何。私も手伝ってるし」


「お前は自分の机の上をまず片づけろ」


「それは今関係ないでしょ」


「関係ある」


「だから、図書委員を辞めるかもしれないって言ってたのか」


「……ああ」


「そう。誰かに代わってもらえないか探してた」


「それ、水野さんには?」


 朝倉くんは黙った。


 その沈黙だけで十分だった。


 叶の声が、少し震えた。


「そういうことなら、ちゃんと話さなきゃ駄目だよ!」


 朝倉くんが顔を上げる。


「でも、家の事情を言い訳みたいに聞かせたくなかったんだ。それに……」


「それに?」


「言ったら、水野さんとの時間が終わる気がした」


 朝倉くんは小さくうなずいた。


 視線が、市立図書館の奥へ向く。


 そこには、本棚が並んでいる。


 学校の図書室とは違う、知らない本がいくらでもある場所。


「図書委員じゃなくなったら、水野と本の話をする理由がなくなる気がして。学校の図書室で同じ本を選ぶ時間も、なくなる気がして」


 俺は息を止めた。


 朝倉くんの言葉が落ちた。


 前に水野さんが言ったことと、まるで同じだった。


 朝倉くんは困った顔で俺たちを見た。


「何なんだよ、本当に。水野と何かあったのか?」


 叶が唇を結んだ。

 俺も答えを探した。


 どこまで言うべきか。

水野さんが恋愛工作室へ依頼したことを、勝手に明かすわけにはいかない。

 でも、もう黙っていられる段階ではなかった。


「朝倉くん」


 俺は言った。


「水野さんは、あなたに別の彼女ができたと思ってた」


 朝倉くんの目が見開かれた。


「え?」


「市立図書館で、美緒ちゃんと一緒にいるところを見たの。参考書を選んで、飲み物を買って、袖を引かれて、荷物を持ってるところ」


「いや、それは」


 美緒が慌てたように手を振る。


「え、待って。私、恋人に見えたの? お兄ちゃんと? え、無理。いや、お兄ちゃんが嫌いとかじゃないけど、無理。普通に兄だし。家で靴下片方なくして騒ぐ人だし」


「美緒、余計なこと言うな」


 すずが小さく呟いた。


「これ、まずいね」


「ああ」


 朝倉くんはすぐにスマホを取り出した。


 画面を見て、番号を選ぶ。


 呼び出し音。


 誰も出ない。


 もう一度。


 やはり出ない。


 朝倉くんの表情が硬くなる。


「出ない」


 電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるという機械的な音声だけが返ってくる。


「メッセージは?」


「送った。でも既読がつかない」


 すずがスマホを見ながら言った。


「まあ……今の水野さんなら、切っててもおかしくないか」


「縁起の悪いことを言うな」


「ごめん」


 朝倉くんは、ただスマホを握っていた。


「俺、何をしてたんだろうな」


「今は反省より先に動け」


 俺が言うと、朝倉くんは顔を上げた。


「……ああ」


「水野さんの家、連絡してみる?」


 叶は少し迷った。


「私が一度、椎橋先生に確認する。直接家に連絡できるか分からないけど」


 叶は図書館の外へ出て、電話をかけた。


 俺たちは入口近くで待った。


 朝倉くんはスマホを握ったまま、何度も画面を見ている。


 美緒はその横で、参考書を抱えたまま黙っていた。


 すずが気まずさに耐えきれず、小声で言う。


「こういう時、参考書って重いよね」


 美緒が反応した。


「物理的にですか、精神的にですか」


「両方」


「分かります。数学は特に精神的に重いです」


「数学、強いよね。開いただけで人生に問いを投げてくる」


「英語も強いです。なぜこの人たちは例文でこんなに旅行するんだろうって思います」


「参考書の中の人、行動力あるよね」


「私はまず机から動けないのに」


「受験生の名言だ」


 二人は少しだけ笑った。


 朝倉くんも、ほんの少し表情を緩めた。


 だがそれは一瞬だった。



      ◇



 叶が戻ってくる。


「椎橋先生が、水野さんのお家に確認してくれた。水野さん、まだ帰ってないみたい」


 朝倉くんがすぐに顔を上げた。


「どこに」


「分からない。お家の人は、学校から帰ってくると思っていたみたい」


「直接探すしかない」


 俺は言った。


「私も手伝う」


 朝倉くんが慌てて止める。


「美緒は帰れ」


「嫌だ。私も関係あるでしょ」


「でも――」


「お兄ちゃんがちゃんと説明しなかったからこうなったんでしょ。私も探す」


 朝倉くんは何も言い返せなかった。


「いいのか?」


 俺が聞くと、美緒は少しだけ真剣な顔になった。


「私のせいで誤解された部分もあるんですよね。だったら、何もしないのは嫌です」


「君のせいじゃない」


 朝倉くんがすぐに言った。


 美緒は少し驚いたように兄を見る。


 朝倉くんは続ける。


「俺が言わなかったせいだ」


 その言葉を聞いて、叶が小さく頷いた。


 叶が言った。


「でも、手伝ってくれるなら助かる」


 朝倉くんは一瞬迷ったが、頷いた。


「無理はするな」


「はいはい。お兄ちゃんもね」


「分かった」


「じゃあ、分かれて探そう。学校、通学路、市立図書館の周辺、家の方向。見つけたらすぐ連絡」


 全員が頷く。


 そこからは、分担した。


 叶は学校方面へ。

 すずは図書室と旧校舎周辺へ。

 朝倉くんと美緒は市立図書館の中と商店街へ。

 俺は、水野さんが前に歩いていた通学路をたどることにした。


 夕方の街を走る。


 普段なら絶対にしない。


 運動部でもない人間が、鞄を肩に掛けたまま全力に近い速度で走ると、数分で肺が抗議を始める。


 それでも足を止められなかった。


 水野さんの家にも確認したが、まだ帰っていないらしい。


 学校にもいない。

 図書室にもいない。

 旧校舎にもいない。

 市立図書館の閲覧席にも、自習室にも、返却ポストの前にもいない。


「……くそ」


 時間だけが過ぎていく。


 空は少しずつ赤くなっていった。


 夕方の光が、街の影を長く伸ばしていく。


 走り回ったせいで、喉が痛い。


 足も重い。


 夕方の街は、やけに普通だった。


 自転車で帰る小学生。


 買い物袋を提げた人。


 犬の散歩をする老人。


 商店街のスピーカーから流れる、少し古い音楽。


 世界のほうは、誰か一人の恋が壊れかけていることなど知りもしない。


 普通に夕方を進めている。


 それが、少しだけ腹立たしかった。


 それでも走った。


 止まったら、水野さんがどこかへ消えてしまう気がした。


 そして、ある児童公園の前を通りかかった時。


 ブランコが二つ。


 小さな滑り台。


 砂場。


 錆びた鉄棒。


 小さな公園には、もう子どもはほとんどいなかった。


 夕日の色が、遊具の影を長く伸ばしている。


 その端のベンチに、見覚えのある後ろ姿があった。


 肩までの髪。


 小さな背中。


 鞄を膝に抱えるようにして立っている少女。


 俺は息を切らしながら叫んだ。


「水野さん!」


 彼女の肩が跳ねた。


 彼女が振り返った。


 制服のリボンは少し曲がっていた。


 髪も、図書室で見る時より乱れている。


 でも、泣いてはいなかった。


 夕焼けの光の中で、彼女の顔はひどく静かだった。


「……雨宮くん」


「やっと見つけた」


 息が切れて、言葉が続かない。


 情けない。


 もう少し格好よく登場できないのか、俺は。


 いや、できない。


 運動不足の人間に、ラブコメ的疾走シーンは荷が重すぎる。


「……どうして、ここに」


「一応、探したからな」


 言った直後、肺が痛くなって咳き込んだ。


 水野さんは戸惑ったように俺を見た。


「少しだけ、話を聞いてくれ」


 俺は近づこうとした。


 水野さんは、反射的に一歩下がった。


 その動きで、俺は止まる。


 水野さんは戸惑ったように俺を見た。


「私は……別に」


「聞いてくれ」


 俺は一歩近づいた。


「話がある」


 水野さんの表情が硬くなる。


「来ないでください」


 その声は小さかった。


 その言葉は、俺に向けたものなのか。


 朝倉くんに向けたものなのか。


 それとも、自分自身に向けたものなのか。


 分からなかった。


 けれど、はっきりしていた。


 俺は足を止める。


「分かった。近づかない。だから聞いてくれ」


「俺にはある」


「私はありません」


「分かってる。でも、少しだけでいい」


俺がもう一歩近づくと、水野さんは一歩下がった。


その反応が、胸に刺さる。


俺は足を止めた。


「逃げないでくれ」


水野さんは何も答えない。


「頼むから、もう走りたくない……」


「……え?」


「さっきからずっと走ってる。正直、足も痛いし、肺も痛い。これ以上追いかけっこになったら、俺が先に倒れる」


水野さんは一瞬だけ、困惑した顔をした。


だが、その表情はすぐに消えた。


「なら、追いかけなければいいじゃないですか」


「それができたら、最初から恋愛工作室なんて場所に座ってない」


自分で言って、少し驚いた。


いつの間にか俺は、自分をその場所に含めていた。


恋愛工作室。


あの三つ目の椅子。


叶に勝手に用意された席。


俺はそこに座ってしまった。


だから、ここにいる。


「水野さん。朝倉くんのことだ」


その名前を出した瞬間、水野さんの肩が震えた。


「聞きたくありません」


「違うんだ」


「何が違うんですか」


「市立図書館にいた女の子は――」


「やめてください」


水野さんの声が、思ったより強かった。


「もう、そういう説明はいいです」


「説明を聞く前に終わらせるな」


「終わらせたのは私です」


水野さんは笑った。


泣きそうな笑顔ではなかった。


もう泣くことを諦めたみたいな笑顔だった。


「今さら、違ったなんて言わないでください」


その声は震えていた。


けれど、涙ではなかった。


もっと硬いものだった。


「もし違ったなら、わたしが一人で勝手に疑って、勝手に追いかけて、勝手に傷ついて、勝手に諦めたことになるじゃないですか」


「そんなの、あんまりです」


「だから、もういいんです」


「よくない」


「いいんです」


「よくないって言ってるだろ」


水野さんは笑った。


笑おうとして、失敗したような顔だった。


「朝倉くんが悪かった方が、まだ楽だったんです。わたしじゃなくて、朝倉くんが変わったんだって思えた方が、ずっと楽だったんです」


俺は何も言えなかった。


正しい説明を持ってきたはずだった。


妹だった。

参考書は家族のためだった。

本は水野さんに渡すためだった。

朝倉くんは君との時間を終わらせたくなかった。


その全部が、水野さんを救うと思っていた。


違った。


真実は、時に相手を追い詰める。


誤解だったと分かった瞬間、人は安心できるとは限らない。


自分が疑った事実と向き合わなければならなくなる。


自分が逃げたこと。

自分が勝手に決めたこと。

自分が相手を信じきれなかったこと。


その全部が、いきなり自分に返ってくる。


「水野さん」


「聞きたくないです」


 水野さんは首を振る。


「優しい説明も、正しい理由も、今は聞きたくないです」


「違う。これは」


「私は、ちゃんと分かってます」


 水野さんは無理に笑った。


俺が思わず声を強めると、水野さんはびくりとした。


その反応に、すぐ後悔する。


叶なら、もっと上手く言えただろう。


すずなら、別の角度から近づけただろう。


俺は駄目だ。


相手の痛みを見つけることはできても、触れ方を間違える。


それでも、今は言わなければならない。


「水野さん。君は、見たものだけで決めようとしたって言ってたな」


「……はい」


「なら、今度は聞いたことも入れて決めろ」


「聞いても、変わらないかもしれません」


「それでもだ」


俺は息を整えようとした。


だが、呼吸はまだ乱れている。


「後悔しない選択っていうのは、傷つかない選択じゃない。ちゃんと自分の言葉で決めるってことだろ」


水野さんの目が揺れた。


あと少し。


あと少しで届くかもしれない。


そう思った瞬間だった。


水野さんは後ろへ下がった。


そして、俺に背を向けた。


「ごめんなさい」


水野さんは鞄を抱え直した。


「今日は、誰にも会いたくないんです」


「水野」


「白瀬さんにも、朝倉くんにも、雨宮くんにも」


「待て」


「ごめんなさい」


「栞!」


彼女は走り出した。


公園の出口へ。


住宅街の細い道へ。


夕焼けの中、彼女の背中が遠ざかる。


「いや……待て! 本当に待て!」


俺は反射的に走り出した。


だが、身体がついてこなかった。


数歩で息が詰まる。


さっきまで街中を探し回っていた疲労が、一気に膝へ来る。


「頼む……本当に頼むから……!」


水野さんの背中が遠ざかる。


俺は息を切らしながら、どうにか追いかける。


「もう、これ以上走りたくないんだよ……!」


自分でも情けない叫びだと思う。


でも、情けなさを取り繕う余裕すらない。


誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


胸が痛い。


喉が焼ける。


胃がひっくり返りそうだ。


「頼む……止まってくれ……」


足がもつれた。


次の瞬間、膝から力が抜ける。


俺は、公園の出口の手前で膝をついた。


そのまま、地面に手をつく。


冷たい砂の感触が手のひらに広がる。


夕陽が目に痛い。


視界の先で、水野さんの背中が少しずつ小さくなっていく。


「……くそ」


顔を上げる。


水野さんの背中は、角を曲がって見えなくなった。


俺は手を伸ばすこともできず、ただその方向を見ていた。


俺は、ただ見ていることしかできなかった。


人の心の動きなら、少しは読めるつもりだった。


視線の揺れ。


言葉の間。


指先の震え。


そういうものなら、いくらでも見つけられると思っていた。


でも、走っていく誰かの背中を止めるには。


そんな分析は、何の役にも立たなかった。


遠ざかる水野さんを見つめながら、俺は荒い息の中で、どうしようもなく思った。


これはまだ、終わっていない。


終わっていないのに。


俺は今、彼女に追いつけない。


ポケットの中でスマホが震えた。


叶からの着信だった。


俺は息を整えながら、ようやく通話ボタンを押した。


「叶」


自分でも驚くほど、声がかすれていた。


『律くん? 水野さん、見つかった?』


叶の声が聞こえる。


その声だけで、少しだけ現実に戻った気がした。


「見つけた」


でも、届かなかった。


公園のブランコが、風に揺れて小さく音を立てる。


本のページを閉じるみたいな、乾いた音だった。


俺はその音を聞きながら、ようやく理解した。


真実を見つけることと。


誰かの心に届くことは。


まったく別の問題なのだと。


『よかった。今どこ?』


「児童公園」


『水野さんは?』


「逃げられた」


俺は、遠くの道を見た。


もう、水野の姿は見えない。


電話の向こうで、叶が息を呑む気配がした。


俺は続けた。


「悪い。止められなかった」


『律くんは? 大丈夫?』


「大丈夫じゃない」


『え?』


「走りすぎて、吐きそうだ」


数秒の沈黙。


それから、叶が小さく息を吐いた。


『……そういう時に、ちゃんと大丈夫じゃないって言えるのは偉いよ』


「褒めるところか?」


『うん。少しだけ』


その声は、泣きそうでもあり、笑っているようでもあった。


「いや、俺は――」


『動かないで、行くから』


今度は強かった。


俺は反論をやめた。


「分かった」


その一言で、通話は切れた。


俺はスマホを握ったまま、ベンチにもたれた。


公園には、夕方の風だけが残っていた。


ブランコが小さく揺れる。


さっきまで水野が座っていたベンチには、何も残っていない。


いや。


何も残っていないわけではなかった。


彼女が握りしめていたはずの鞄の紐。


震えていた声。


「まだ好きなんだって分かるのが嫌なんです」


その言葉が、そこに残っていた。


まったく。


学生の本分は勉強である。


だが、今日の問題は、参考書にも載っていなければ、貸出カードにも答えが書かれていなかった。


真相を見つけた。


誤解も解けた。


それでも、肝心の人の心には届かない。


恋愛工作室の最初の依頼は、まだ終わらない。


むしろ、ここからが本当の失敗なのかもしれない。


そして、失敗したまま終わらせないために、俺たちはもう一度だけ、彼女の言葉を待たなければならなかった。


恋愛工作室は、恋を叶える場所ではない。


好きという気持ちを、自分の言葉に戻す場所だ。


なら、今の水野水野さんは。


好きという言葉から、必死に逃げている。


そして俺たちは、その言葉を追いかける方法を、まだ間違えている。


しばらくして、叶が走ってきた。


その後ろに、すず。


少し遅れて、朝倉くんと美緒の姿も見えた。


朝倉くんは俺を見るなり、息を詰めた。


「水野は?」


「逃げた」


俺は正直に答えた。


朝倉くんの顔が歪む。


「俺のせいだ」


「俺が、言わなかったから」


朝倉くんは、手元の本を見下ろしている。


「水野に、何も」


「それを今ここで言っても、水野には届かない」


俺は地面に座ったまま言った。


朝倉くんは何も言わなかった。


叶が俺の前にしゃがみ込む。


「立てる?」


「たぶん」


「たぶんは駄目」


「じゃあ、少し待て」


「うん」


夕焼けが公園の遊具を赤く染めている。


水野はもう見えない。


けれど、依頼は終わっていない。


むしろ、ようやく俺たちは本当の場所に来たのかもしれない。


誤解を解くことではなく。


告白させることでもなく。


諦めさせることでもない。


水野水野さんが、自分を責めずに朝倉航の言葉を聞けるようにすること。


朝倉航が、言えば終わると思っていた言葉を、それでも彼女へ渡せるようにすること。


その二つが揃わない限り、この依頼は終わらない。


俺は息を吐いた。


まだ胸が痛い。


足もだるい。


正直、今すぐ旧校舎へ戻って机に突っ伏したい。


だが、頭だけは妙に冴えていた。


「律くん」


叶が俺を見た。


「今日は、ここまでにしよう」


「……ああ」


その日、水野栞には届かなかった。


けれど、ひとつだけはっきりした。


恋は、誤解が解ければ自動的に救われるほど単純ではない。


疑った自分を許すこと。


言えなかった自分を認めること。


そして、それでももう一度、相手の前に立つこと。


その全部が必要になる。


夕方の公園で、俺はようやく立ち上がった。


足はまだ少し震えていた。


それでも、もう逃げるわけにはいかなかった。


俺は空を見上げた。


夕焼けが、妙に綺麗だった。


こういう時、物語なら主人公は走って追いつく。

相手の手首を掴んで、誤解だと叫ぶ。

そして、間に合う。


だが現実の俺は、走れなかった。


だから、まだ終わっていない。


水野栞の恋も。

朝倉航の沈黙も。

そして、俺たち恋愛工作室の最初の依頼も。


全部、まだ終われなかった。



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