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第5話 終わっていない依頼

第5話 終わっていない依頼


 その日から数日間、俺は恋愛工作室へ行かなかった。


 叶も、来いとは言わなかった。


 榎本すずも、廊下の角から新聞を逆さに持って現れることはなかった。


 つまり、とても平和だった。


 平和だったはずなのに、どういうわけか落ち着かなかった。


 手書きの札。

 古い机。

 不揃いの椅子。

 白瀬叶の妙にまっすぐな目。

 榎本すずの、油断すると何でも未掲載ノートに書きそうな手つき。


 そして、水野栞の「告白、やめます」という言葉。


 どれも、頭から離れなかった。


授業中も。

昼休みも。

帰りのホームルームが終わったあとも。


気づけば俺は、図書室にいた。


「雨宮くん、この本、返却棚にお願いできる?」


「はい」


 司書の椎橋先生に頼まれて、返却本を棚に戻す。

 図書委員の作業を少し手伝う。

 借りる予定もない本の背表紙を眺める。


 言い訳はいくらでもあった。


 ただの手伝いだ。

 もともと図書室にはよく来ている。

 恋愛工作室とは関係ない。


 あくまで返却本を棚に戻しながら。


 カウンターで貸出カードを揃えながら。


 新聞閲覧コーナーの横を通りすぎながら。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は水野栞と朝倉航を見ていた。


「雨宮くん」


 図書室で返却本を棚に戻していると、司書の椎橋先生が穏やかな声で俺を呼んだ。


「はい」


「その本、さっきから三回くらい同じ場所に入れて、また抜いてるけど」


「……確認です」


「何の?」


「……」


俺は無言で本棚に頭を下げた。


 椎橋先生はにこにこしたまま、カウンターへ戻っていった。


もし叶がここにいたら、たぶんこう言う。


「その言い訳、かなり苦しいよ」


分かっている。


苦しい。


けれど、見るしかなかった。


「何をやってるんだ、俺は」


 図書室の空気は、相変わらず静かだった。


 紙の匂い。


 ページをめくる音。


 鉛筆がノートを滑る小さな音。


 その中に、水野栞と朝倉航の声があった。


 二人は普通に話していた。


「朝倉くん、この本、予約が入っています」


「ああ。じゃあ、こっちだな」


「はい」


「水野さん、返却票、そこに置いておいてくれる?」


「はい」


「ありがとう」


「この返却分、文庫棚でいいですか?」


「ああ。上段の右から三番目」


「分かりました」


「あと、この本、予約入ってるから先に処理しておいて」


「はい」


 短い会話。

 必要な言葉。

 図書委員としての普通のやり取り。


つまり、平和だった。


平和なはずだった。


「雨宮くん」


図書室のカウンターで、水野栞が小さく声をかけてきた。


「これ、返却処理、終わっていますか?」


 俺は近づき、背表紙を見る。


 水野さんが手にしているのは、例の作家の本だった。


 彼女と朝倉くんが、何度も交互に借りていた作家。


「その本なら終わってる」


「ありがとうございます」


「……水野さん」


「はい」


「その本」


「返却されたので、戻すだけです」


「まだ何も言ってない」


「すみません」


 水野さんは小さく笑った。


 笑えている。


「最近、読んでないのか」


「その作家ですか?」


「うん」


「……少し、お休みしています」


「そっか」


「はい」


 それ以上は言えなかった。


水野さんは本を一冊、丁寧に棚へ戻した。


手つきはいつも通りだった。


声もいつも通り小さい。


表情も、以前よりむしろ落ち着いている。


朝倉航が図書室に来ても、水野さんは普通に話す。


朝倉くんが先に帰っても、水野さんは普通にうなずく。


朝倉くんが図書室に来ない日も、水野さんは普通に返却作業を続ける。


全部、普通だった。


普通すぎて、俺は逆に落ち着かなかった。


「水野さん」


返却棚の向こうから、朝倉くんの声がした。


水野さんの指が、ほんの少し止まる。


「はい」


「この前の棚、椎橋先生が確認してくれって」


「分かりました」


「あと……」


朝倉くんはそこで言葉を切った。


水野さんは顔を上げる。


「あと?」


「いや、何でもない」


「そうですか」


短い会話。


何も問題がない会話。


でも、会話の途中に残った空白だけが、やけに大きかった。


そんなふうに見えた。


その日。


俺は閉館後の図書室で、返却カードを箱に戻しながらため息をついた。


「雨宮くん」


 椎橋先生が俺の顔をのぞき込んだ。


「はい」


「カード、上下逆よ」


「……すみません」


「雨宮くん、この本、返却棚にお願いできる?」


「分かりました」


「無理しないでね。前みたいに脚立から落ちたりしないように」


椎橋先生に頼まれて、俺は返却本を抱えた。


 いつもの棚へ向かう。


本を棚へ戻しながら、俺は小さく呟いた。


図書室の窓の外では、放課後の光が少しずつ薄くなっていた。


静かだった。


あまりにも静かだった。


学生の本分は勉強である。


そして図書室は、勉強のために存在する場所である。


少なくとも、誰かの恋の残骸を観察するための場所ではない。


ないはずなのだが――。


本を棚へ戻しながら、俺は小さく呟いた。


「……終わってないな」


返却棚の横で、椎橋先生が声をかけてきた。


「何が?」


「うわっ」


 横から声がして、俺は持っていた本を落としかけた。


「あ、何でもありません」


「雨宮くん」


「はい」


「その本、そこの棚じゃなくて、一つ右ね」


「……すみません」


 椎橋先生がやわらかく笑った。


「最近、考えごとが多い?」


「いえ」


「そう」


返却本の整理を終えた俺は、図書室の扉の前でしばらく立ち止まっていた。


一、相手の気持ちは操作しない。

二、嘘で恋を成立させない。

三、成功とは、付き合うことではなく、依頼者が後悔しない選択をすること。


あの三つ目の鉄則が、ずっと頭から離れなかった。


依頼者が後悔しない選択。


言うのは簡単だ。


黒板に書くのも簡単だ。


けれど、実際に誰かが苦しそうな顔で「告白をやめます」と言ったとき、それが本当に後悔しない選択なのかを見分けるのは、想像以上に難しい。


椎橋先生の声が落ちる。


「雨宮くん、今日もありがとう。もう上がっていいわよ」


「はい」


俺は鞄を持って廊下へ出た。


全部が、静かに元へ戻ったように見える。


だが。


終わったものなど、何ひとつなかった。


逃げだ。


ただ、自分の気持ちを閉じ込める方法を覚えただけだ。


だからこそ、その日。


俺は初めて、自分の足で恋愛工作室へ向かった。


新校舎の賑やかな声が、背中の方で少しずつ遠ざかる。


部活へ向かう生徒の足音。


教室に残っている誰かの笑い声。


購買のシャッターが下りる音。


そういう学園の日常から一歩ずつ離れていくたび、旧校舎の空気が近づいてくる。


旧校舎へ続く渡り廊下は、夕方の光で少し赤く染まっていた。


古い木の匂い。


人通りの少ない廊下。


軋む床板。


窓枠に積もった薄い埃。


恋愛工作室の札がかかった扉の前で、俺は一度立ち止まる。


 見慣れたくなかった名前なのに、もう違和感が薄くなっている。


それだけのことなのに、やけに落ち着かなかった。


ノックをするべきか。


勝手に開けるべきか。


そもそも、数日顔を出さなかった人間が急に来て、何と言えばいいのか。


そうやって無駄に悩んでいると、中から声がした。


「入っていいよ、律くん」


「……なんで分かるんだよ」


俺が扉を開けると、叶が椅子に座っていた。


いつものように、少し楽しそうな笑顔で。


「おかえり」


その声を聞いた瞬間、俺の頭の中が一瞬だけ真っ白になった。


叶がいた。


当然のように、椅子に座って。


当然のように、俺を待っていたみたいな顔で。


その横では、榎本すずが机に頬杖をつきながら、こちらに手を振っている。


「次に来る時は、お茶とお菓子もお願いね。ちょうど切らしてたんだよね」


「……何でいるんだ」


「第一声がそれ?」


叶がくすっと笑う。


「待ってたよ、律くん」


「……待ってたって何だ。俺たち、約束でもしてたか?」


「俺たち、約束していたか?」


「してないよ」


叶はあっさり言った。


「じゃあ、なぜ待っていた」


「来ると思ったから」


叶は当たり前のように言う。


その顔があまりにも自然で、逆に腹が立った。


「そもそも、おまえたちはなぜここにいる」


すずがにやりと笑う。


「何を今さら。ここは校内有数のネタ発生地点、すなわち新聞部にとっての第二の家だよ?」


「私は恋愛工作室の室長だよ? ここにいるのがそんなにおかしい?」


「いや……それはおかしくないけど」


部屋の中が、少し静かになった。


外では、どこかの部活の掛け声が遠く聞こえる。


叶はしばらく俺を見ていた。


そして、ふっと笑った。


「何をそんなに改まってるの」


「……改まる必要がある話だろ」


「あるけど、でも」


叶は机に肘をつき、少し身を乗り出す。


「私たち、相棒でしょ」


「それはそうだが……」


「じゃあ、早く入って座って。いつまでも入口で突っ立ってると、こっちまで気まずくなるから」


「俺はもう十分気まずい」


「じゃあ、座れば半分になるよ」


「そういう計算式は初めて聞いた」


俺は仕方なく部屋に入った。


そして、改めて中を見回す。


「それで、どう?」


叶は部屋を見回した。


「少し広くなったでしょ。片付けたんだ」


確かに、以前より部屋は整っていた。


床に積まれていた段ボールは壁際に寄せられ、机の上の紙束は種類ごとにまとめられている。


古い棚には本とノートが並べられ、窓際には小さな花瓶まで置かれていた。


隅にあった電気ケトルも、なぜか少し誇らしげに見える。


「確かに、まともな部屋に近づいている」


「褒め方が相変わらず減点方式だね」


「前よりは、秘密結社感が減った」


「でしょ?」


叶は嬉しそうに笑った。


「ここ、これからもっと使うことになると思うし」


「旧校舎の未使用準備室としては高評価だ」


「それ、褒めてる?」


「条件付きで」


 叶が、向かいの椅子を指さした。


「座って。話したいこと、あるんでしょ」


 俺は椅子に座った。


 叶は紙コップを俺の前に置いた。


「律くん、話したいこと、あるんでしょ?」


「うん」


 少しだけ、呼び方が柔らかくなった気がした。


「……用意がいいな」


 叶が紙コップを一つ差し出した。


「水野さんのこと?」


「うん」


叶はお茶を淹れながら、静かに聞いた。


「話して」


 俺は一度息を吐いた。


「この数日、水野さんと朝倉くんを見ていた」


「うん」


「表面上は元に戻ったように見える。二人は普通に話している。水野さんは落ち着いている。朝倉くんが早く帰っても、淡々と受け入れている」


「うん」


「でも、それは解決じゃない」


「どう見えた?」


「水野さんは、諦めたんじゃない。諦めたことにして、傷つかない場所まで引いている」


 叶は目を伏せた。


「朝倉くんは?」


「何か言いたそうにしている。けれど言わない。水野さんが引いているから、余計に踏み込めない」


「二人とも、遠慮してる?」


「遠慮というより、怖がっている」


「何を?」


「終わらせることを」


「今の状況で、水野さんに後悔を残さない方法は、たぶん一つしかない」


「うん」


「朝倉航自身の口から、あの少女との関係を示す言葉が出る瞬間を、正確に確かめること」


すずが少しだけ笑う。


「つまり、彼女かどうか」


「それだけじゃない」


俺は首を振った。


「彼女じゃないと分かっただけでは終わらない。あの少女が誰か。市立図書館で何をしていたのか。朝倉くんが図書室を早く出る理由。図書委員を辞めるかもしれない理由。水野さんへ何を言えていないのか」


 俺はそこで一度言葉を切った。


 自分の声が思ったよりも真剣で、少し気恥ずかしくなる。


「朝倉航について、もう少し調べたい」


「調べるんだね」


すずの表情が少し変わった。


「でも、水野さんは依頼を取り下げたよね」


「ああ」


「本人がやめるって言った以上、こっちから勝手に続けるのは危なくない?」


「だから難しい」


俺は答えた。


「だから、俺たちが勝手に動くのは本来なら筋が悪い」


「本来なら、ね」


叶は俺の言葉を繰り返した。


俺は二人を見る。


「今回は、朝倉くんにも水野さんにも気づかれないように動く必要がある」


「朝倉くんだけじゃなくて、水野さんにも?」


叶が眉を寄せる。


すずが口笛を吹く真似をした。


「難易度高いね。二重尾行の次は、二重非公開調査かあ」


「楽しそうに言うな」


「楽しそうじゃないよ。取材魂が震えてるだけ」


「なお悪い」


叶は真剣な顔だった。


「どちらかに気づかれた時点で、たぶん関係が壊れる。朝倉くんと水野さんの関係だけじゃない。水野さんと俺たちの関係も、朝倉くんと俺たちの関係も」


「うん」


「そう」


俺は頷く。


「恋愛工作室そのものが、ただ人の秘密を暴く場所になる」


「それで」


「手伝ってほしい」


部屋の空気が、一瞬止まった。


外では、どこかの部活の掛け声が遠く聞こえる。


すずが目を見開く。


叶も、紙コップを持ったまま動かない。


「……何だ」


叶はしばらく俺を見ていた。


そして、ふっと笑った。


「もう一回言って」


叶が言った。


「言わない」


「録音しておけばよかった」


すずが悔しそうに言う。


「録音するな」


「歴史的瞬間だったのに」


叶がにこにこし始めた。


「律くん、助けてほしいって」


「復唱しなくていい」


「嬉しい」


「青春ドキュメンタリーの撮影現場?」


「じゃあ、青春倫理サスペンス」


「もっと嫌だ」


すずが机を軽く叩いた。


「大丈夫。ちゃんと聞いたよ」


「何を」


「リツくんが、私たちを頼ってくれたこと」


「大げさにするな」


「大げさじゃないよ」


 叶は椅子にもたれず、まっすぐ座っていた。


「私たち、相棒で、チームでしょ」


「今、自分で気づいた?」


「何を」


「自分がもう、かなり工作室側の人間になってること」


「気のせいだ」


「ふうん」


「その顔をやめろ」


すずがメモ帳を開きかける。


「見出し候補。『否定する時ほど人は本心に近い』」


「いいよ。手伝う」


「……即答だな」


「だって、最初からそのつもりだったし」


「叶」


「律くんが来なかった数日、私もずっと考えてた。水野さんを追いかけないって決めたことが、本当に正しかったのか。告白をやめるって言った言葉を、そのまま受け取っていいのか」


叶はホワイトボードを見る。


叶が少し笑う。


「でも、言いたいことは分かった。水野さんの不安を、私たちの推理で上書きしない。朝倉くん本人の言葉までたどり着く」


「そうだ」


「それで、律くんは私たちに何をしてほしいの?」


俺は一拍置いた。


こういうことを言うのは、少し苦手だ。


けれど、言わなければ伝わらない。


俺は机の上にあったシフト表を引き寄せた。


「俺には、水野さんと朝倉くんの会話を見ることはできる。言葉の間も、視線も、行動のズレも、ある程度は拾える」


「うん」


俺は叶を見た。


「でも、俺にはできないことがある」


叶が少し目を丸くする。


「叶みたいに自然に人の輪に入って話を聞くことはできない」


「うん」


次に、すずを見た。


「それから、すずみたいに相手に気づかれない距離で情報を拾うこともできない」


すずがにやっとした。


「律くんから褒められた?」


「褒めてはいない。事実を言っただけだ」


「それ、律くんにとっては最大級の褒め言葉でしょ」


俺は息を吐いた。


「俺一人では無理だ。だから、お前たちの力が必要だ」


しばらく沈黙が落ちた。


叶は嬉しそうに笑った。


「うん。任せて」


「妙に楽しそうだな」


「でも、嫌じゃないでしょ」


「……」


「否定しないんだ」


「違う」


「それ、すごく疲れるよ」


俺は何も言えなかった。


 気にしていないふり。

 それは、俺にとって一番慣れた防御だった。

 誰かの恋に関われば、責任が増える。

 増えた責任は、いつか取り返しのつかないものになる。

 だから、最初から関わらない方がいい。


 そう思っていた。


 でも今、俺は旧校舎の椅子に座り、叶とすずに助けを求めている。

 自分の理屈が、いつの間にか自分の行動に追い抜かれていた。


「……分かった」


 俺は小さく言った。


「無理はしない」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんは信用度が低いね」


「俺の正直さの限界だ」


 叶はようやく笑った。


「じゃあ、今日はそれで許す」


 すずが扉へ向かう。


「さて、まずは情報の風向きを見に行きますか」


「どこへ」


「新聞部。あと、商店街」


「また古本屋に行くのか?」


「店主のおじいちゃん、話すと長いけど、長い分だけ情報が混ざってるんだよ。おまけに、飴をくれる」


「目的が後半にずれてないか」


「情報と糖分は同時摂取が大事」


 叶が鞄を持った。


「私は朝倉くんのクラスの子に少し聞いてみる。最近忙しそうって話、どこまで周りが知ってるのか」


「気をつけろよ」


「うん」


「不自然に聞くなよ」


「リツくんよりは自然に聞けると思う」


「反論できないのが悔しい」


 叶は扉の前で振り返った。


「リツくんは?」


「俺は、図書室に戻る」


「もう閉まってるよ」


「返却ポストを見るだけ」


「また証拠探し?」


「違う」


「じゃあ?」


「……水野さんが、何か入れていないか確認する」


 叶の表情が少しだけ変わった。


「相談票?」


「分からない。ただ、終わったと言った人ほど、別の場所に言葉を置くことがある」


 すずが小さく口笛を吹いた。


「詩人だね」


「違う」


「じゃあ、返却ポストの哲学者」


「さらに違う」


 すずが笑い、叶も笑った。

 俺はため息をつく。


 その時、叶が急に真顔になった。


「でも、リツくん」


「何」


「水野さんがもし何か言葉を置いていたとしても、勝手に答えを決めちゃだめだよ」


「分かってる」


「私たちは、水野さんの代わりに決めるんじゃない」


「分かってる」


「朝倉くんの代わりにも、決めない」


「分かってる」


「じゃあ、よし」


 叶は満足そうにうなずいた。


「室長っぽいな」


 俺が言うと、叶は目を丸くした。


「え?」


「今の」


「室長っぽかった?」


「少し」


「ほんとに?」


「なぜそこで照れる」


 叶は頬に手を当てた。


「いや、リツくんに褒められると、なんか変な感じがして」


「褒めたわけじゃない」


「え、今のは褒めじゃないの?」


「観察結果だ」


「その言い方だと、嬉しさが半分くらい逃げる」


「半分残るなら十分だろ」


「けち」


 すずが扉を開けながら言った。


「二人とも、夫婦漫才は廊下で続けて。旧校舎が閉まるよ」


「夫婦じゃない」


 俺と叶の声が重なった。


 すずはにやっと笑う。


「息ぴったりじゃん」


「そういう罠を張るな」


「新聞部は流れを大事にします」


「何の流れだ」


「さあ?」


 すずは先に廊下へ出た。

 叶も続く。

 俺は最後に部屋の電気を消した。


 暗くなった恋愛工作室で、壁に貼られた三つの鉄則だけが、廊下の光を受けてかすかに浮かんで見えた。


 相手の気持ちは操作しない。

 嘘で恋を成立させない。

 成功とは、依頼者が後悔しない選択をすること。


 分かっている。

 分かっているから、難しい。


 俺たちは旧校舎を出て、それぞれ別の方向へ歩き出した。


 校舎の外は、夕方の色を失いかけていた。

 部活の声も、少しずつ遠くなる。


「リツくん」


 叶が数歩先で振り返る。


「何」


「戻ってきてくれて、ありがと」


「戻ったわけじゃない。用件があっただけだ」


「うん」


「本当に戻ったわけじゃない」


「うん」


「……聞いてるか」


「聞いてるよ」


 叶は笑った。


「用件があるなら、また来てね」


 それは、俺がいつでも逃げられるように開けられた出口みたいな言い方だった。

 同時に、いつでも戻れるように開けられた入口でもあった。


 ずるいと思う。

 叶のそういう言葉は、逃げ道を塞がないくせに、なぜか足だけを止める。


「……考えておく」


「うん」


 俺は図書室の方へ向かった。


 返却ポストには、何も入っていなかった。

 水野さんの相談票も、手紙も、本の水野さんも。


 空っぽのポストを見て、少しだけ安心した。

 それから、すぐに不安になった。


 言葉を置く場所がない人は、どこへ行くのだろう。


 俺はポストの蓋をそっと閉じた。

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