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第4話 返却期限の向こう側

 第4話 返却期限の向こう側


 尾行という行為は、たいていの場合、健全な学園生活から三歩くらい外れている。


 相手に気づかれないよう距離を取り、曲がり角では足音を殺し、視線を合わせず、それでいて見失わないようにする。


 そして今。


 図書委員の朝倉航を、水野栞が追っている。


 その水野栞を、俺と白瀬叶と榎本すずが追っている。


 つまり、尾行の尾行である。


 いや、正確に言えば、尾行対象を尾行している尾行者を尾行している。


 不審者を追う不審者を追う不審者という、極めて不健全な三段構造が完成していた。


「ねえ、律くん」


 隣を歩く叶が、小声で言う。


「何だ」


「緊張してる?」


「していない」


「でも、さっきから歩き方が硬いよ」


「尾行という状況に慣れている高校生の方が問題だろ」


「私はわりと慣れてるよ」


「慣れるな」


 背後から、すずがひょこっと顔を出した。


「ちなみに新聞部では、取材対象を見失わない歩き方っていうのがあってね」


「聞きたくない」


「まず、相手の靴音を覚える」


「聞きたくないと言った」


「次に、周囲のガラス反射を使って距離を測る」


「これ、冷静に考えると、私たちもかなり怪しくない?」


「今さら気づいたのか」


「でも水野さん、けっこう自然に歩いてるよ。すごい」


「自然に見えてるのは、俺らが不自然だから相対的にそう見えるだけだ」


 夕方の通学路には、部活帰りの生徒や買い物帰りの人が混じっている。


 商店街の端を抜け、駅前の大通りを渡り、少し古い住宅街へ入る。


 その先に、市立図書館がある。


 白い外壁と大きなガラス窓。


「市立図書館、あそこだね」


 叶が小さく言った。


 星ノ宮学園から徒歩十五分ほどの場所にある市立図書館。


 試験前には星ノ宮学園の生徒もよく利用する場所だ。


 学校の図書室よりもずっと大きく、古い蔵書も多い。


 自動ドアの開閉音。

 親子連れの声。

 自転車置き場で鳴るベル。

 返却ポストの金属音。


 学校の中とは違う、生活の匂いがする場所だった。


 朝倉くんはその入口前で立ち止まった。


 腕時計を見る。


 それから、誰かを探すように周囲を見回した。


 水野さんが少し離れた植え込みの影で息を止める。


 俺たちはさらに離れた掲示板の前に移動する。


 すずが掲示板を覗き込んで言った。


「市民講座、『はじめての俳句』だって」


「今関係ないだろ」


「尾行中に一句」


「詠むな」


「恋追えば、新聞逆さ、春浅し」


 そのときだった。


 叶が小さく肘で俺をつついた。


「来た」


 図書館の横手から、一人の少女が小走りで近づいてきた。


 紺色のブレザーに、星ノ宮とは違うチェックのスカート。


 髪は肩の少し下で揺れていて、歩くたびに鞄についた小さなキーホルダーが跳ねている。


「こっちこっち!」


 少女が手を振っていた。


 朝倉くんはその少女を見つけると、少しだけ肩の力を抜いた。


 少女は朝倉くんの前で止まり、すぐに頬を膨らませた。


「遅い」


 少女は朝倉くんの前で止まり、すぐに頬を膨らませた。


「悪い。今日は図書室で少しやることがあった」


「少し?」


「少し」


「その少しのせいで、私、入口で三回も自動ドアに歓迎されたんだけど」


「中で待てばよかっただろ」


「中で待ったら、遅れた人に圧が伝わらない」


「圧を伝えるために外にいたのか」


「もちろん」


 少女が腕を組んだ。


「で、謝罪は?」


「ごめん」


「言葉だけ?」


「何がいい」


「……パフェとか」


「……分かった。帰りに寄る」


「チョコバナナ」


「高い方を選ぶな」


「遅刻した人に選択権はありません」


「はいはい」


「よし、許す」


「許すの早いな」


「だってパフェは偉大だから」


 少女は満足げに頷き、朝倉くんの少し前を歩き出す。


 朝倉くんはそれに続いて、市立図書館の中へ入っていった。


 水野さんの手が、震えていた。


 叶がそっと近づく。


「水野さん」


 水野さんは振り返らない。


「うん」


「見られてましたよね」


「うん」


「変なこと、してますよね。私」


 叶は少しだけ首を横に振った。


「どうする?」


 水野さんの喉が、小さく動いた。


「まだ……まだです」


 水野さんは図書館の自動ドアを見た。


 小さな声だった。


「まだ、分からないですよね」


 その向こうで、朝倉くんと少女が受付カウンターの方へ歩いている。


 少女は朝倉くんに何か言い、朝倉くんは軽く肩をすくめた。


「まだ確かじゃないですよね。普通に、ただの約束かもしれません。図書館で本を選ぶだけの……そういう、普通の」


「朝倉くんは本が好きだから、誰かと図書館に来てもおかしくないです」


「うん」


「それに、私、まだ朝倉くんの彼女じゃありません」


 その言葉は、乾いていた。


「だから、あの人が誰と会っていても、怒る権利なんてないんです。問い詰める権利もありません。ただ……自分の目で確認するくらいは、許されると思いたいです」


 水野さんは図書館の入口を見つめたまま言った。


「大丈夫です」


 水野さんは自分の手を見下ろす。


 指先が震えていた。


「でも、信じたいんです」


 図書館の自動ドアが開いた。


 水野さんは一歩踏み出した。


 叶がすぐ隣に並ぶ。


「水野さん、本当に入る?」


「朝倉くんを信じたい。私が勝手に不安になって、勝手に怖くなって、勝手に悪い方に考えているだけだって、思いたいんです」


 叶が一歩前に出る。


「中に入ったら、朝倉くんに気づかれるかもしれない」


「気づかれて、離れなきゃいけなくなるような関係なら」


 水野さんは、そこで一度だけ唇を噛んだ。


「それはもう、決まったようなものじゃないですか」


 水野さんは、無理に笑った。


「大丈夫です。そんな関係じゃないはずですから」


 叶は静かに言った。


「……分かった」


 水野さんは小さく頭を下げる。


「ごめんなさい。止めないでください」


 そう言って、水野さんは市立図書館へ入っていった。


 ガラスの自動ドアが開き、閉じる。


 その向こうに、彼女の背中が消えた。


 俺と叶はしばらくその場に立っていた。


 けれど、沈黙は長く続かなかった。


 俺は息を吐く。


「俺たちも行くぞ」


 叶がこちらを見た。


「うん」



 *



 市立図書館の中は、星ノ宮学園の図書室より広く、ずっと無機質だった。


 学校の図書室には、生徒たちの癖が染みついている。


 誰がどの机をよく使うか。


 どの棚の前でよく立ち止まるか。


 返却ポストにどんな折れ方の紙が入っているか。


 そういう小さな人間の跡がある。


 けれど、市立図書館は違う。


 誰のものでもない静けさが、整然と並んでいる。


 その中で、朝倉くんと少女は参考書の棚の前にいた。


 誰のものでもない静けさが、整然と並んでいる。


 その中で、朝倉くんと少女は参考書の棚の前にいた。


 水野さんは、俺たちより少し前の棚の陰に立っていた。


 俺たちは少し離れた新聞閲覧コーナーの陰に隠れる。


 朝倉くんたちとの距離は、声が断片的に聞こえる程度。


 朝倉くんは棚から参考書を二冊抜き、少女に見せた。


 薄いものと、分厚いもの。


 少女は腕を組み、真剣な顔で見比べていた。


「こっちは解説が多い」


 声は小さかったが、静かな図書館ではかすかに届いた。


 少女は片方を受け取り、ぱらぱらとページをめくる。


「でも、これ、厚い」


「参考書なんだから当たり前だろ」


「字が多いと眠くなる」


「お前は絵本からやり直した方がいい」


「ひどっ。パフェ一個追加」


「追加するな」


「薄い方が続くだろ」


「私を三日坊主前提で語らないで」


「前科がある」


「前科って言うな。あれは計画的撤退」


「今までの実績から判断してる」


「失礼。私はやればできるタイプです」


「やるまでが長いタイプだろ」


 少女は不満そうに頬をふくらませる。


「言い方が先生みたいで嫌」


 朝倉くんはそれを見ても、特に表情を変えない。


「聞いたのはそっちだろ」


「聞いたけど、もうちょっと夢のある答えが欲しかった」


 少女はむっとしながらも、朝倉くんが差し出した薄い参考書を受け取った。


 少女は参考書を一冊抱え、今度は文学の棚へ移動した。


 そして、一冊の小説を引き抜く。


 その背表紙を見た瞬間、水野さんの指が動いた。


 水野さんが前に朝倉くんへ勧めていた作家の、学校には置かれていない本。


 少女はその本を朝倉くんの胸元へ押しつけるように差し出した。


「これ、好きなんでしょ?」


 朝倉くんは本を受け取り、少し視線をそらした。


「……好きっていうか」


「好きじゃないの?」


「簡単に言うな」


「はいはい、照れ隠し照れ隠し」


「そういう問題じゃない」


 少女は棚に背中を預け、からかうように笑っている。


「迷いすぎ」


「うるさい」


 その笑顔は明るく、悪意がない。


 悪意がないからこそ、水野さんには残酷だった。


 朝倉くんは言い返さず、本の表紙を見た。


 その横顔は、図書室で水野さんと話していた時より少しだけ柔らかかった。


 水野さんは息を止めているように見えた。


 水野さんの手が棚の端を掴む。


 指先が白くなる。


 叶が一歩動きかけた。


 けれど、止まった。


 少女は朝倉くんの袖を引いた。


「次、こっち」


「引っ張るな」


「早く。閉まっちゃう」


「まだ閉まらない」


「いいから」


「図書館で走るな」


「走ってないですー」


 朝倉くんと少女は、その後も本棚の間を移動した。


 朝倉くんと少女は、その後もしばらく棚を移動した。


 学習参考書。


 文庫本。


 児童書の近くにある低い棚。


 朝倉くんは何冊か本を抱え、少女は気まぐれに本を抜いては戻す。


 そのたびに朝倉くんが注意する。


 そのたびに少女が軽く言い返す。


 やがて少女が朝倉くんの袖をつまんだ。


「ねえ、重い」


「自分で持て」


「さっきパフェ奢るって言った人の態度じゃない」


「パフェと荷物持ちは別料金だ」


「けち」


「はいはい」


 少女が朝倉くんの袖を引く。


 朝倉くんは面倒くさそうにしながら、少女の鞄を受け取った。


 朝倉くんと少女は、貸出カウンターの方へ行った。


 少女がカードを探して鞄の中をひっくり返している。


「ない」


「またか」


「今回は本当にない」


「前もそう言って、財布の中にあっただろ」


「財布もない」


「それは別問題だ」


「あ、あった」


「何が」


「カード」


「財布は?」


「ない」


「大問題のほうが残ってるじゃないか」


 少女はにやにや笑う。


 朝倉くんは額に手を当てた。


 少女はけろっとしている。


「……律くん」


 叶が小さく俺の名前を呼んだ。


「ああ」


「どう見える?」


「親しいね」


「そうだね」


 自然だった。


 やり取りが自然すぎた。


 ぎこちない会話なら、まだ安心できたかもしれない。

 初々しい距離なら、割り込む余地を感じたかもしれない。


 けれど二人のやり取りには、遠慮のなさがあった。


 遠慮がない関係には、時間がある。

 積み重ねがある。

 自分の知らない共有がある。


 水野さんが図書室で少しずつ積み重ねてきたものとは、別の時間。


 それが、目の前にあった。


 どれも、水野さんの知らない朝倉くんだった。


 その方が、もしかすると、彼女にはずっと苦しかったのかもしれない。


 結局、少女の財布は鞄の内ポケットから出てきた。


 少女は当然のような顔で貸出カードを出し、朝倉くんに何かを言った。


「行こ。約束」


「図書館で大声出すな」


「無理。パフェがあるから」


 それから、二人で図書館を出ていった。


 水野さんは少し遅れて、その後を追うように出口へ向かった。


 俺たちも続いた。


 市立図書館の外に出ると、夕方の風が頬を撫でた。


 図書館を出たところで、少女は自販機の前に立ち止まった。


「のど乾いた」


「さっき館内で水飲んでただろ」


「今、乾いた」


「燃費が悪いな」


 少女が自販機の前で腕を組む。


「今日は甘いやつ」


 朝倉くんはため息をつきながら、缶を一本買った。


 少女は当然のように受け取った。


「ありがと」


「ちゃんと言えるじゃないか」


「子ども扱いしないで」


「子どもだろ」


「やめろ」


「さあ?」


 並んで歩き、少女が何かを言い、朝倉くんが呆れた顔で返す。


 俺は水野さんを見た。


 水野さんはもう、二人の言葉を聞いていなかった。


 たぶん、聞こえているのは自分の中の声だけだ。


 問題は、真実が何かではなかった。


 今の水野さんの目には、もう答えが決まりかけているということだった。


 水野さんは、そこで足を止めた。


 もう追わなかった。


 朝倉くんたちの姿が人混みに消えていく。


 それを見送ってから、水野さんはゆっくり振り返った。


 夕方の風が、図書館前の木を揺らしている。


 市立図書館のガラス扉には、俺たちの姿が薄く映っていた。


「白瀬さん」


「うん」


「帰ります」


 夕方の空は、いつの間にか薄い紫色に変わっていた。


 通学路の街灯が、一つ、また一つと点き始めている。


 駅前の通りには人が増え、車の音と自転車のベルが重なっている。


 その中で、水野さんだけがやけに静かに見えた。



 *



 通学路の途中。


 図書館から学校へ戻る道と、駅へ向かう道が分かれる角で、水野さんは立ち止まった。


「白瀬さん」


「うん」


「告白、やめます」


 水野さんは静かに言った。


「依頼、なかったことにしてください」


 風が、街路樹の葉を揺らした。


「大丈夫?」


「……もう、大丈夫です」


 水野さんが言った。


 叶はすぐに否定しなかった。


「どうして?」


 ただ、そう尋ねた。


 水野さんは少しだけ目を伏せる。


「朝倉くんには、もう本を選ぶ相手がいるみたいだからです」


「そう見えたんだね」


「はい」


「恋人だと思う?」


「……分かりません」


「分からないんだね」


 水野さんは鞄の持ち手を見つめた。


「でも、あんなふうに話せる人がいるんだって、分かりました」


「だから――」


 水野さんは俺の言葉を遮った。


「雨宮くんが言いたいこと、少し分かります」


 俺は口を閉じた。


 水野さんはゆっくり続けた。


「分かっています。でも、私、今はそれを聞いたら、たぶん期待してしまいます」


「期待するのが悪いとは言ってない」


「悪くないです。でも、期待したら、また見に行ってしまいそうです。もっと確かめたくなります。もっと疑って、もっと勝手に傷ついて」


 風が、彼女の髪を少し揺らした。


「不安だったから、仕方ないって言ってもらえたら、少し楽になると思います」


 水野さんは叶を見た。


「でも、楽になったら、私、また同じことをする気がします」


 水野さんは胸元で手を握った。


「それは、嫌です」


 すずが、珍しく小さな声で言った。


「……それ、けっこう自分に厳しくない?」


「そうかもしれません」


「もう少し、相手のせいにしてもいいと思うけど」


「すみません。もう、十分です」


「十分って、本当に?」


「はい」


「もし本当に、あの人が朝倉くんの恋人なら――」


「それは、まだ分からないよ」


「はい。分かりません。本当は、何も分かっていないのかもしれません」


「でも、もし本当にそうなら、私が好きですって言うのは……その人から朝倉くんを奪おうとしているみたいで、嫌なんです」


「それに、たとえ違ったとしても」


 そこで一度、彼女は言葉を切った。


「それでも」


 水野さんは少しだけ唇を噛んだ。


「朝倉くんを信じたいって言いながら、信じられなかった。知りたいって言いながら、朝倉くんに聞く勇気はなくて、こっそり後を追いました」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 水野さんは続ける。


「今日、分かったんです。私は、図書室にいる朝倉くんしか知らなかったんだって」


 風が通り過ぎる。


 並木の葉が揺れた。


「私は、朝倉くんのことを図書室の中でしか見ていなかったんだと思います」


「私と本の話をしてくれる朝倉くん。貸出カードに名前を残してくれる朝倉くん。図書委員のカウンターで、同じ作家の本を並べてくれる朝倉くん。私は、その朝倉くんだけを見て、好きかもしれないって思っていました」


 その声は震えていた。


「でも、朝倉くんには、図書室の外の時間もあるんですよね」


「水野さん」


「朝倉くんにも、私が知らない約束があって、私が知らない人と話して、私が知らない顔で笑うんだって」


 俺は何も言わなかった。


「それを見て、分かりました。私、朝倉くんを好きかどうかより先に、朝倉くんが図書室からいなくなるのが怖かったんです」


「自分を責めたい?」


「……少し」


「分かった」


「大丈夫です」


 水野さんは少しだけ笑った。


 さっき図書館前で見せた笑みよりも、ずっと弱い笑顔だった。


「何も起きません。ただ、告白をしないだけです」


「そっか」


「朝倉くんが選びたいものを、邪魔したくないんです」


「図書委員を辞めたいなら、辞めていいと思います。市立図書館で誰かと本を選びたいなら、それもいいと思います」


 夕方の通学路に、車の音が流れていく。


 誰かの自転車がベルを鳴らし、遠くで子どもが笑っている。


 そんな普通の音の中で、水野さんの声だけが細く残った。


「それは、水野さんが後悔しない選択?」


 叶が静かに聞いた。


 水野さんは少しだけ視線を落とす。


「分かりません」


「でも、今は、そう思いたいです」


「今のまま告白したら、きっと後悔します」


「好きですって言う言葉の中に、疑ったことも、焦ったことも、取られたくないって思ったことも、全部混ざってしまう気がするからです」


「そんな言葉を、朝倉くんに渡したくないです」


「きっと、きれいな言葉にはならないと思います」


 その答えは、正直だった。


 強がりでも、完全な納得でもない。


 ただ、今の彼女が言える精一杯の言葉だった。


「分かった」


 水野さんが言った。


「ひとつ、お願いがあります」


 叶が頷く。


「何?」


「今日は、もう追いかけてこないでください」


 俺たちは黙った。


 水野さんは続ける。


「一人になる時間がほしいんです。考える時間が。気持ちを整える時間が」


 叶は少しだけ迷った。


 けれど、やがて静かに頷いた。


「分かった。今日は、ここまでにしよう」


「ありがとうございます。今まで、手伝ってくれて」


「また、話したくなったら来て」


「はい」


「依頼じゃなくてもいいから」


「はい」


 水野さんは少しだけ目を伏せた。


 そして、俺の方を見る。


「雨宮くんにも、ありがとうございました」


「俺は何もしてない」


「いいえ、そんなことないです」


 水野さんは少しだけ首を振る。


「最初に相談したとき、雨宮くんに言われたこと、正直すごく痛かったです」


「……悪かった」


「今でも、少し痛いです。正直、少しだけ恨んでいました」


「……だろうな」


 水野さんは苦笑した。


「でも、今は……あの時、すぐに告白しなくてよかったと思っています。もしあのまま言っていたら、きっと今の関係まで全部なくなっていた気がするから」


「だから、本当にありがとうございました」


 水野さんは気づかないまま、もう一度頭を下げた。


 俺は何も返せなかった。


 水野さんは鞄を持ち直す。


 もう一度だけ頭を下げ、俺たちに背を向けた。


 彼女の背中が遠ざかっていく。


 小さな背中だった。


 けれど、今は誰にも支えられたくない背中でもあった。


 その背中は、図書室で本棚の影に隠れていた時より少しだけ遠く見えた。


 俺たちは、その場に残された。


 しばらく誰も喋らなかった。


 彼女が角を曲がり、見えなくなってから、すずが小さく息を吐いた。


「本当に、あのまま一人にしてよかったのかな」


「分からない」


 俺は正直に答えた。


「でも、今の水野さんにこれ以上触れるのは、逆効果だと思う」


 俺は言った。


「理由をつけて引き止めれば、彼女はたぶん、俺たちの前で“納得した人”の顔をする」


「それは……分かる」


 叶は頷いた。


「今日は一人にしてあげよう。水野さんがそう言ったんだから」


 すずがぽつりと言う。


 叶は小さくうなずいた。


「うん。似てる。でも、同じじゃない」


「その違い、どうやって見分けるの?」


 叶はすぐに答えなかった。


 その沈黙を、俺が引き取る。


「分からない」


 二人が俺を見る。


 俺は水野さんが歩いていった道から視線を外せなかった。


「少なくとも、今の俺には分からない」


 すずが少し意外そうな顔をした。


「意外。律なら、依頼者本人が取り下げた以上、終了だって言うと思ってた」


「俺もそう言いたい」


「じゃあ、言えば?」


「言えないから困ってる」


 すずは少し驚いたように目を瞬かせた。


「少なくとも」


 俺は言った。


「俺たちは、朝倉くん本人の言葉をまだ聞いていない」


 叶が小さく頷く。


「うん」


「難しいね」


「難しいよ」


 叶は苦笑した。


「恋愛工作室、初仕事から難易度高すぎない?」


 すずがぼやく。


「普通、最初ってもっとこう、好きな人の下駄箱に手紙を入れるとか、放課後に呼び出すとか、そういう分かりやすいやつじゃない?」


「君の普通は参考にならない」


「難しいね」


「難しいなあ」


 叶はそう言って、空を見上げた。


 その横顔は、いつもより少し疲れて見えた。


「私も、少し考えたい」


「今後どうするか?」


「うん。それもあるけど」


 叶は、水野さんが消えた通学路を見た。


「水野さんが今日選んだ“やめる”を、私たちがどう扱うべきか」


「……尊重するべきだろ」


「もちろん」


 叶はすぐにうなずいた。


「でも、今日の選択が本当に彼女の言葉なのか、それとも不安が選ばせた沈黙なのか、まだ分からない」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


「水野さんに告白させるためじゃない。水野さんの結論を変えるためでもない」


「うん」


「ただ、朝倉くんが言えずにいることがあるなら、それが水野さんを傷つけ続ける可能性がある」


「……うん」


「それを、見落としたくない」


「そうね」


 俺は頷いた。


 しばらくして、叶はいつもの調子に戻るように、ぱん、と軽く手を叩いた。


「じゃあ、今日は本当に解散。リツくん、帰ろう」


「俺は君の帰宅ルートに組み込まれてるのか」


「途中まで同じでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ、組み込まれてる」


「すずちゃんも途中まで一緒?」


「私は反対方向」


「記事、書かないんだろうな」


「書かないよ。未掲載ノートに、書かない理由を書くくらい」


「結局書くのか」


「記録と公開は別物です」


 すずはそう言って、ひらひら手を振った。


「じゃあね、室長と分析係」


 すずは軽い足取りで去っていった。


 叶と俺は、駅とは反対の道へ歩き出す。


 少し歩いてから、叶が言った。


 くだらない会話が続いた。


 続けていた。


 たぶん、水野さんがいなくなった後の沈黙を、俺たちなりに避けていたのだと思う。


 けれど、どれだけ軽い言葉を重ねても、今日見た光景は消えない。


 朝倉航と、知らない少女。


 参考書。


 小説。


 渡せばいいじゃん、という言葉。


 水野さんの「告白、やめます」。


 どれも、返却期限を過ぎた本みたいに、俺の中で居座っている。


 返せるものなら、どこかへ返したかった。


 でも、人の気持ちは、本みたいにカウンターへ置けば済むわけじゃない。


 叶がふと、空を見上げた。


「水野さんちゃん来るかな」


「分からない」


「朝倉くんは、何か言うかな」


「分からない」


「私たちは、間違えないかな」


「分からない」


 叶は少し笑った。


「今日は、分からないばっかりだね」


「……今度は、たぶん」


「たぶんなんだ」


「断言できるほど、自分を信用していない」


 叶は少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「それなら大丈夫かも」


「どういう意味だ」


「自分を疑える人は、前より少しだけ優しくなれるから」


「慰めとしては雑だな」


「じゃあ、練習しないとね」


「何の」


「どっちかというと、人気者ヒロインがサブキャラの成長イベントを見守る顔」


「なにその保護者目線」


「お母さんみたいだった?」


「どこが」


「律、今ちょっとひどくない?」


「否定はしないんだね、叶」


「だって、ヒロインって呼ばれるのは嫌じゃないし」


「即答だね」


「でも律、最近かなりラブコメ主人公っぽいよ」


「どこがだよ」


「美少女二人と一緒に放課後の市立図書館で恋の謎を追ってるところ」


 俺は少し考えてから答えた。


「……そうだね」


「でも大事でしょ?」


「大事だな」


 叶は満足そうにうなずいた。


「律くんには、このくらいでいいの」


 叶はそう言って、歩き出した。


 その日、俺たちは何も解決しなかった。


 その日、恋愛工作室の最初の依頼は、終わったように見えた。


 依頼者は告白をやめると言い、俺たちは彼女を追わないことを選んだ。


 けれど、終わったように見える恋ほど、まだ返却期限の向こう側に言葉を残している。


 水野栞の恋は、まだ本棚に戻されていなかった。


 ただ、水野さんが選びかけた沈黙だけを、そっと持ち帰った。


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