第3話 証拠は恋を急がせる
第3話 証拠は恋を急がせる
あの日から数日間、俺たちは証拠を集めた。
正確に言うなら、証拠と呼ぶには少し気が弱く、噂と呼ぶには少し骨があり、恋の材料にするにはかなり扱いづらいものを集めた。
「証拠」という言葉は便利だ。
図書委員のシフト表の写し。
返却本リスト。
貸出カードの記録を手書きでまとめたもの。
水野が何度も手に取っていた作家の本の一覧。
朝倉が最近、図書室を早く出た曜日と時刻。
机の上に並べれば、それだけで真実へ近づいているように見える。
確かな事実の顔をして、見る側の不安を勝手に増幅する。
だが、どれも、単体では決定的ではない。
好きだから見ていたのか。
気まずいから目を逸らしたのか。
忙しいから先に帰ったのか。
それとも、避けるために帰ったのか。
恋愛の証拠は、たいていの場合、証拠の顔をした解釈でしかない。
そして今。
旧校舎の端にある恋愛工作室で、俺はその解釈の山を前に、頭を抱えていた。
白瀬叶は、椅子の背に軽く手を置きながら、机の上のメモを見つめていた。
「……いろいろ見つけることには成功した」
「言い方がすごく不穏だね」
俺は向かいの椅子に座る。
叶は頷き、机の上のシフト表を指差した。
「朝倉航は、ここ二週間で図書委員のシフトを三回変更している。水曜と金曜の放課後に早退が増えた。理由欄には、本人の字で『M迎え』」
「M」
すずがわざとらしく顎に手を当てる。
「ミステリアスなイニシャルだね。暗号かな」
叶が言う。
「暗号だとしたら、もうちょっと隠そうとするんじゃないかな」
俺はシフト表をじっと見つめていた。
「“会う”じゃなくて“迎え”なんだよね」
「そう。恋人や友達と会うなら、普通は“迎え”とは書かない。少なくとも、図書委員のシフト表に残す表現としては少し変だ」
「家族、とか?」
「可能性はある」
叶は次に、貸出カードの写しを机の中央へ置いた。
そこには、同じ作家の本を借りた名前が並んでいる。
水野栞。
朝倉航。
水野栞。
朝倉航。
まるで、声に出さない手紙のやり取りみたいに。
「この作者の本は、水野と朝倉が交互に借りていた。かなり長い期間だ。けれど、最新巻だけ朝倉が学校図書室で借りていない」
叶は貸出カードの写しを指で叩く。
「問題は、その流れが最近止まっていることだ」
すずが聞く。
「興味がなくなった、ってこと?」
「そうとも読める」
俺が続ける。
「別の場所で借りた、とも読める?」
「そうとも読める」
「つまり?」
「つまり、分からない」
「でも水野さんから見たら」
すずが言う。
「自分と同じ本を読むのをやめた、みたいに見える」
その通りだった。
事実は単純でも、受け取る側の心がすでに不安でいっぱいなら、その単純な事実は別の意味を持つ。
俺はメモを一枚取る。
「何か、もっと確実なものが必要だね」
叶の声は静かだった。
でも、少しだけ鋭い。
「問題は、証拠そのものより水野の状態だ。今の水野にこの材料を全部見せたら、たぶん彼女は一番悪い形で受け取る」
俺は椅子に逆向きに座り、背もたれに顎を乗せていた。
「朝倉に別の女ができた、か」
「言い方が昼ドラ」
「すずが言いたかったことを短くしただけだ」
「ひどい!」
すずは頬を膨らませたが、すぐに表情を戻した。
「実際、そうかもしれないだろ」
叶は机の上のメモを一枚ずつ見ていく。
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない」
もしこれが恋愛ドラマなら、視聴者の八割は「はい、別の女の子ですね」と言うだろう。
だが、現実は恋愛ドラマより意地が悪い。
「今さら私たちが“たぶんこうだ”と断定してしまえば、見たものだけで決めつけるなと言っておいて、私たちが見たものだけで決めつけることになる。あのとき水野さんに言ったことと、今まで待った意味がなくなる」
すずがノートパソコンを開く。
「そして、私の調査によると」
すずはわざと咳払いした。
「調査という名の尾行じゃないだろうな」
すずは俺のツッコミを聞き流し、ノートパソコンの画面をこちらに向けた。
「調査によると、朝倉航くんは最近、毎週決まった曜日に図書室を早く出るようになってる。で、その曜日のうち何回かは、学校の外で誰かと会ってる」
叶の表情が固まった。
「……それ、本当?」
「うん。市立図書館の近く。相手は星ノ宮の制服じゃなかった」
「……それ、水野さんにはまだ言ってないよね?」
「言ってない。というか、言えない」
「あと、もうひとつ」
「まだあるのか」
「水野さんの方は、最近一人で告白の練習をしてるっぽい」
叶が聞き返す。
「練習?」
「うん。図書室の閉館後、誰もいないと思って、返却カウンターの奥で小さく」
すずは少し迷ってから、スマホを取り出した。
「録音、あるけど……」
「録音したのか」
すずは素直にうなずいた。
「聞く?」
すずが再生ボタンを押す。
小さなスピーカーから、かすれたような声が流れた。
『朝倉くん。あの、私……』
すぐに沈黙。
『私、朝倉くんと本の話をしている時間が……』
また沈黙。
『違う。えっと……朝倉くんに、聞いてほしいことがあって』
息を吸う音。
『朝倉くん』
そして、もう一度。
『好き、です』
そこで、すずが止めた。
告白の練習というのは、もっと前向きなものだと思っていた。
好きです、と言うための準備。
気持ちを伝えるための勇気。
ラブコメの定番なら、顔を赤くしながら何度も噛んで、最後に「やっぱり無理!」としゃがみ込むような、そういう場面だ。
けれど今の音声は違った。
部屋に残ったのは、古い木の匂いと、空の急須と、誰かの言いかけた勇気だった。
「それで、どれくらい持ちそうだ?」
俺の質問に、叶は少しだけ目を伏せた。
「分からない」
「分からない、か」
「でも、長くはないと思う。水野さん、自分が何かをしないと終わるって思い込んでる」
「そして、何かをすれば壊れるとも思ってる」
「避けられないってことか」
「避けられないというより、見ないふりができないって感じ」
「最悪だな」
叶が小さく息を吐いた。
「うん、今のまま証拠だけ増やしても、だめだね」
叶が椅子から立ち上がった。
「行こう。水野さんがひとりで結論を急ぐ前に」
すずはノートパソコンを閉じ、満足げに言った。
「よし、恋愛工作室、出動だね」
「その言い方はやめろ。怪しさが増す」
「恋愛工作室にいる人が、それ言う?」
「ここにいるからこそ言ってる」
旧校舎の廊下は、夕方の光で薄く赤く染まっている。
床板が、ぎし、と鳴る。
その音が、やけに急かしているように聞こえた。
いつもの彼女なら、俺をからかったり、すずとくだらない記事タイトルを考えたりしているはずだ。
けれど今は違う。
水野栞の言葉を、まだ盗まないために。
朝倉航の事情を、勝手に決めつけないために。
そして、誰かが後悔する前に間に合うために。
叶は、静かに歩いていた。
図書室に着くと、俺たちはできるだけ目立たない位置に分かれた。
俺と叶は新聞閲覧コーナーの近く。
すずは少し離れた席で、なぜか新聞を広げている。
図書室には、放課後特有の空気が満ちていた。
窓の外は夕方に傾きかけていて、斜めに差し込む光が本棚の影を長く伸ばしている。
入口付近には、課題を広げる生徒が数人。
奥の閲覧席には、受験用の参考書を積んだ三年生。
ページをめくる音。
鉛筆が紙をなぞる音。
遠くで椎橋先生が返却本を整理する音。
そういうものの間に、言葉にならない緊張が混ざる。
水野栞は、図書委員カウンターの内側にいた。
隣には、朝倉航。
二人は返却された本を分類している。
手元の本を棚ごとに分け、貸出カードを確認し、淡々と作業している。
思ったより、会話は自然だった。
「この作家、最近新しい文庫出たらしいよ」
「知ってる。でも、学校にはまだ入ってないみたい」
「市立ならあるかも」
「そうなんだ」
自然な会話。
自然な距離。
「……普通に話してるね」
新聞閲覧コーナーで新聞を広げたすずが、小声で言った。
ただし、その自然さの中に、水野の必死さが隠れていた。
彼女の笑顔は半拍遅い。
朝倉が本を渡すたびに、指先がわずかに固まる。
朝倉が視線を外すたびに、水野の目がその横顔を追ってしまう。
自分の不吉な予感が、どうか間違いであってほしい。
そう祈りながら、いつも通りを演じている。
「止められるかな」
「今すぐ何か起きなければ、な」
その時だった。
机の上に置かれていた彼のスマホが、短く震えた。
水野の視線が、そこへ落ちる。
そして、まばたきが一度遅れた。
朝倉はすぐにスマホを伏せた。
「ごめん」
「ううん」
水野の声は、驚くほど落ち着いていた。
朝倉は鞄に手を伸ばす。
「ごめん。今日、ちょっと用事があるから先に帰る」
水野の顔に、薄い笑みが浮かぶ。
「朝倉くん、最近ちょっと忙しそうだね」
「うん。まあ、いろいろあって」
「そっか」
朝倉はスマホをポケットにしまい、鞄を肩にかけた。
「残りの返却処理、明日やるから。水野も今日は早く帰った方がいいよ」
「朝倉くん」
「うん」
「図書委員、やめるの?」
朝倉はすぐ答えなかった。
「ごめん。聞いちゃいけないことだったら」
「いや、そんなことはない。ただ……」
その沈黙で、水野の顔が少しだけ白くなった。
「まだ、決めてない」
「そっか」
「でも、たぶん、シフトは減る」
「……そうなんだ」
「悪い。いろいろあって」
「いろいろ、か」
「ごめん」
「いや、謝らなくていいよ。責めてるわけじゃないから」
「……うん」
水野が少しだけ笑った。
「じゃあ、また明日」
「ああ。また明日」
朝倉は図書室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
水野はしばらく、朝倉が出ていった扉を見つめていた。
それから、ゆっくりと自分の鞄を手に取る。
叶がすぐに声をかける。
「水野さん?」
水野は振り返らない。
「白瀬さん」
「どこへ行くの?」
水野の肩が小さく揺れた。
「少し、寄るところがあります」
叶が一歩近づいた。
「朝倉くんを追いかけるの?」
水野は一瞬だけ、動きを止めた。
それから、ゆっくり叶を見た。
驚いた顔ではなかった。
むしろ、こうなることをどこかで予想していたような顔だった。
「さっき、朝倉くんのスマホが見えたんです。市立図書館で待ってる、って」
「私、ちゃんと待つって決めたはずなのに」
「見るつもりはなかったんです。スマホも、メモも、シフト表も」
「でも、見えたら、全部そっちに見えてしまって」
水野は鞄の持ち手をぎゅっと握る。
「私、朝倉くんのこと、信じてないみたいです」
水野は自分で苦笑した。
「朝倉くんのこと、好きなはずなのに。信じたいはずなのに。スマホが鳴るだけで怖くなって、誰かの名前が見えたら息ができなくなって、早く帰るって言われたら……もう駄目なんだって思ってしまう」
水野の声が震えた。
「それでも、信じたいです」
「だから、確かめに行きます」
「朝倉くんが、市立図書館で誰と会うのか」
図書室を出ようとする水野の手首を、叶がそっと掴む。
「待って、水野さん」
「……」
「 今、追いかけたら後悔するかもしれない」
「追いかけなくても、後悔するかもしれません」
「でも」
叶の指に、わずかに力が入った。
水野は続ける。
「でも、たぶん本当です」
「分かってます。まだ何も分かってないんですよね」
「分からないから、見に行くんです」
水野は、そっと叶の手を外した。
「白瀬さんは、言ってくれましたよね。後悔しない選択をするために、恋愛工作室はあるって」
「だったら、私は知りたいです。知らないまま告白するのも、知らないまま諦めるのも、きっと後悔するから」
水野は叶の手を見て、それから叶の顔を見た。
「私、告白する勇気はまだないです。でも、何も見ないまま諦める勇気もないんです」
「それは――」
「白瀬さんは、優しいですね」
彼女は鞄を抱え直した。
「でも、ごめんなさい。今日は止まれません」
「……」
水野は無理に笑った。
その笑顔は、図書室の蛍光灯の下で白く見えた。
図書室の静けさに不自然なくらい綺麗だった。
「大丈夫です。何もしません。ただ、見るだけです」
叶は何か言おうとした。
だが、水野はその前に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい」
そして、図書室を出ていった。
扉が閉まる。
さっき朝倉が出ていった時と同じ音。
けれど、今度はやけに大きく響いた。
数秒の沈黙。
最初に口を開いたのは、すずだった。
「このまま見送るの?」
俺は鞄を掴んだ。
「そんなわけないだろ」
「追うぞ」
すずは口元だけで笑った。
「だよね」
俺たちは図書室を出た。
放課後の空気は、いつもと変わらなかった。
部活へ急ぐ足音。
教室から聞こえる笑い声。
購買の袋をぶら下げた生徒。
どこにでもある、ありふれた学園の夕方。
だが、そのありふれた時間の中で、水野栞の恋は限界に近づいていた。
校舎の外へ出ると、夕方の風が制服の袖を揺らした。
朝倉航の姿は、もう校門の先に消えかけている。
水野はその後ろを追う。
夕方の光が、二人の影を別々の方向へ伸ばしていた。
俺たちは、その影を踏まないように距離を取りながら、あとを追った。
まるで、誰も自分の本当の目的地を知らないまま、同じ方向へ引き寄せられているみたいだった。
市立図書館。
そこには、朝倉航が会っている誰かがいる。
水野にとっては、恋敵かもしれない誰か。
朝倉にとっては、まだ俺たちの知らない誰か。
この依頼にとっては、たぶん最初の分岐点になる誰か。
そして、俺たちは、ようやく理解し始めていた。
恋を見届けるということは、誰かの好きな気持ちを応援するだけではない。
その人が、自分の不安に飲み込まれそうになる瞬間を、追いかけることでもあるのだと。




