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第2話 相棒候補は恋を信じない

第2話 相棒候補は恋を信じない


 翌日になっても、昨日のことが頭から離れなかった。


 恋愛工作室。


 旧校舎の端にある、埃っぽい準備室。

 手書きの札。

 白瀬叶の妙に明るい笑顔。

 榎本すずの、新聞部員としては明らかに危険な情報収集能力。

 そして――水野栞の相談票。


『図書委員の朝倉航くんに、告白したいです。

 でも、本当に告白していいのか分かりません。』


 たった二行だった。

 たった二行なのに、その二行の間に、書かれていない言葉が山ほど詰まっている気がした。


  告白したい。

 でも、したくない。

 しなければいけない気がする。

 でも、してはいけない気もする。


 そういう矛盾を抱えたまま、何度も紙を折り、開き、また折った水野栞の指先を想像してしまって、俺は昨夜ほとんど眠れなかった。


 ……いや、違う。


 正確には、眠れなかった理由はもう一つある。


 白瀬叶だ。


 あの校内一の人気者は、どういうわけか俺を恋愛工作室の「相棒」にする気でいる。


 恋愛相談。


 その言葉だけで、俺の胃は少し重くなる。


 人の恋なんて、外側から見ているぶんにはまだいい。

 図書室の本棚の隙間から、視線の向きや言葉の間を読むくらいなら、ただの観察で済む。


 でも、相談に乗るとなれば話は別だ。


 言葉を返す。

 選択を促す。

 場合によっては、誰かの関係が変わるきっかけになる。


 それはつまり、責任が発生するということだ。


 俺は、責任という言葉が嫌いだ。


 重いからではない。

 逃げたいからでもない。


 ただ――一度背負ってしまったものが、いつまでも手の中に残ることを知っているからだ。


「……帰るか」


 放課後。

 終礼が終わり、クラスメイトたちが部活や自習室へ散っていく中、俺は鞄を肩にかけた。


 俺が教室のドアを出ようとした瞬間、ぽん、と肩に誰かの手が置かれた。


「律くん」


「うわっ!」


 反射的に振り向くと、そこには白瀬叶がいた。


「なんでそんなに驚くの?」


「驚かせる側が言う台詞じゃない」


「驚かせてないよ。心配して声をかけただけ」


 本当に心配なら、せめて俺の前で心配してよ。」


「わかった。なんでそんなに元気ないの?」


「もう遅いよ、 次からは……」


「まだ遅くないよ。相変わらず死んだ魚みたいな目をしてるじゃない?」


「そういう意味じゃない!」


「で? 本当に大丈夫? 具合悪いの?」


「悪くはない。ただ、少し寝不足なだけだ」


「昨日のこと、考えてた?」


「……少しは」


「そっか」


 叶は満足そうに頷いた。


 その表情が、なんだか腹立たしい。


 俺は目をそらす。


「それで、何の用だ」


「何の用だって、一緒に行くんだろ?」


「どこに?」


「とぼけるなよ。恋愛工作室だ」


「そうね」


「よく逃げようなんて思わなかったな? 信じてたぞ!」


「信じていた相手の教室前まで直接迎えに来るのか」


「ただ、話をしたかっただけだよ。私たち、まだよく知ってる仲でもないし、私は君のことをもっとたくさん知りたいんだ」


「うちの学年一の美少女が、こうして関心を持ってくださるとは光栄です」


「そんなことを言う君は、私のことをもっと知りたくないの? うちの学年一の美少女の秘密を知ることができる機会なのに」


「さあな。俺は最初から他人に質問攻めをするタイプじゃないから」


「嫌だとは言わないんだね?」


「それは……」


「まあ、何か聞きたいことができたら、いつでも聞いて。答えるかどうかは私の気分だけど」


「自由すぎるだろ」


「秘密があるほうが、ヒロインっぽいでしょ?」


「自分で言うな」


 そんなくだらない会話をしながら、旧校舎へ続く渡り廊下に入ると、空気が少し変わった。


 本校舎のざわめきが遠ざかり、古い木材の匂いと、窓枠の隙間から入る夕方の風だけが残る。


 人通りが減り、床板のきしむ音だけがやけに大きく響く。


 昨日と同じ廊下。


 昨日と同じ扉。


 けれど今日は、なぜか少しだけ違って見えた。


 扉の前に立つ。


 白い厚紙の札。


 ――恋愛工作室。


 二度目でも、やはり怪しい。


 だが、昨日より少しだけ見慣れた。


 見慣れたことに気づいて、俺は少しだけ負けた気分になった。


「どうぞ」


 叶は笑って扉を開けた。


 中は昨日とほとんど変わっていなかった。


 古い机。

 不揃いの椅子。

 壁際の棚。

 相談票が入った箱。

 窓辺に置かれた、少し欠けた白いカップ。


 ただ、今日は一つだけ違っていた。


「榎本は?」


「すず? 今日はアルバイト」


「新聞部員がアルバイト?」


「この部屋に設置する監視カメラを買うためにお金を貯めてるんだって。お小遣いだけじゃ足りないらしいよ」


「待て。今、さらっと犯罪に近い単語が聞こえたんだが」


「大丈夫。買わせないから」


「買わせない以前に、発想段階で止めろ」


「すずって、発想だけならもう校則を三つくらい飛び越えてるから」


 叶はくすっと笑った。


 電気ケトルが低い音を立て始める。


 旧校舎の部屋で電気ケトルが鳴ると、なぜか秘密基地感が増す。


 叶は椅子を一脚引き、座るように促す。


「荷物は適当に置いて。まだ片づけ途中だから狭いけど、少しずつ良くしていく予定」


 叶は机の横に鞄を置いた。


「荷物、そこに置いていいよ」


「俺は長居しない」


「じゃあ短居して」


「日本語を柔軟にしすぎるな」


「固いよりいいでしょ」


 俺は結局、部屋の隅に鞄を置いた。


「はい、一歩前進」


「鞄を置いただけだ」


 その瞬間、叶が満足そうにうなずく。


「気になることがある」


「お、もう質問? なになに?」


「なぜ、さっきから俺をこの部屋の一員みたいに扱う」

 叶はきょとんとした。


「だめ?」


「だめというか、前提がおかしい。俺はまだ何も引き受けていない」


「でも来た」


「半ば連行された」


「逃げなかった」


「教室前で待ち伏せされた」


「それでも来た」


 俺は沈黙した。


 叶はずるい。


 言葉の押し引きが妙に上手い。


 強引なくせに、逃げ道を完全には塞がない。


 だから余計に断りづらい。


 俺はため息をついた。


「先に言っておく。俺は何の動機もなく、純粋に他人を助けるためだけに動ける人間じゃない。おまえみたいに心が善良にできているわけじゃない」


 叶は紙コップにティーバッグを入れた。


「律はさ」


「何だ」


「人助けって、嫌い?」


「好き嫌いの問題じゃない」


「じゃあ、得意不得意?」


「もっと違う」


「じゃあ、好きだけど不得意?」


「勝手に好意を混ぜるな」


「嫌いだけど得意?」


「それはそれで嫌な才能だな」


 叶は紙コップを二つ、机に置いた。


「じゃあ、どうして嫌なの?」


「嫌というより、避けたい」


「どうして?」


 俺は少し黙った。


 電気ケトルの音が、部屋の中で小さく膨らんでいく。


「人の恋に関わるのは、余計な責任を増やすだけだ」


 叶はすぐには返さなかった。


 その沈黙が、少し意外だった。


 電気ケトルの音が、部屋の中で小さく膨らんでいく。


「人の恋に関わるのは、余計な責任を増やすだけだ」


 叶はすぐには返さなかった。


 その沈黙が、少し意外だった。


 彼女なら「そんなことないよ」とすぐ言うと思っていた。


 けれど叶は、紙コップを両手で包むように持ったまま、俺を見ていた。


「責任が怖い人のほうが、無責任なことはしないと思う」


「それは俺を買いかぶりすぎだ」


「そうかな」


「俺は純粋に誰かを助けたいと思って動く人間じゃない」


「私もだよ」


「……え?」


 思わず聞き返した。


 叶は湯気の立つ紙コップを見下ろしていた。


 いつもの笑顔より、少しだけ遠い表情だった。


「私も、純粋に人助けが好きだから始めたわけじゃない」


「じゃあ、どうして恋愛工作室なんて始めたんだ」


「知りたい?」


「まあ、多少は」


「それは今は秘密」


「便利な言葉だな」


「便利だよ。使いどころが大事」


「俺に話す気はないと」


「今は、ね」


「知りたかったら、恋愛工作室のメンバーになってね」


「勧誘の仕方が露骨すぎる」


「露骨なほうが誤解がなくていいでしょ?」


「恋愛工作室の室長が言う言葉とは思えないな」


「じゃあ、誤解があるほうがいい?」


「それも違う」


「ほら、私たち相性いいかも」


「どこがだ」


 そんなことを言い合っていると、扉の向こうで小さな足音がした。


 こつ、こつ、と控えめな音。


 やがて扉の前で止まり、遠慮がちな声がした。


「あの……」


 水野栞だった。


 叶の表情が変わった。


 明るい笑顔はそのままなのに、空気だけが少し静かになる。


「……来たみたい」


 控えめなノックが三回。


「どうぞ」


 叶が声をかけると、扉がゆっくり開いた。


 鞄の持ち手を両手で握りしめ、肩をすぼめている。


 昨日の校門前と同じ、逃げたいのに逃げきれない顔。


「来てくれてありがとう、水野さん。こっちに座って」


「はい」


 水野さんは小さく会釈して、叶の示した椅子に腰を下ろした。


 背筋は伸びている。

 でも、膝の上に置いた手は、制服のスカートを小さく握っていた。


「律くん、扉閉めてもらえる?」


 叶が俺を見る。


「ああ」


 なぜ俺が助手みたいな動きをしているのか。


 疑問はあったが、今それを口にすると空気が壊れそうだったので、黙って扉を閉めた。


 外の廊下の音が遠くなった。


 部屋の中に、古い木の匂いと、水野さんの小さな呼吸だけが残る。


 叶は水野さんの正面に座り、ゆっくりと口を開いた。


「お茶、飲む?」


「あ、はい」


「薄い緑茶だけど」


「大丈夫です」


 叶は真剣にうなずいた。


「今日は、来てくれてありがとう。こういう場所に来るのって、けっこう勇気がいるよね」


「……はい」


「実は、正式に話す前から、水野さんのことは少し気になってたんだ」


「私のことを、ですか?」


「うん。図書室で椎橋先生のお手伝いをしてる時に、よく見かけてたから。水野さんと、朝倉くん」


 そこで叶は、ちらりと俺を見た。


「そうだよね、律くん?」


 ウインクされた。


「……まあ、見かけたことはある」


 俺は視線を逸らした。


「ほら。律くんも心配してたって」


「俺は観察していただけだ」


「それを心配って呼ぶ日もあるよ」


「勝手に美化するな」


 水野さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 叶

はそれを待っていたように、ゆっくり切り出した。


「水野さん。昨日の相談票、読ませてもらったよ」


「はい」


「書くの、大変だった?」


「……はい」


「水野さんは、朝倉くんに告白したい、って決めてるわけじゃないんだよね」


 水野さんの指が、紙コップのふちをなぞった。


「……はい」


「告白したい気持ちはある?」


「あります」


「でも、分からない?」


「分からないです。何を言えばいいのか。どうすればいいのか。それに……本当に言っていいのか」


「じゃあ、まずは朝倉くんのことを教えてくれる? 好きになった理由じゃなくてもいいよ。どんなふうに話すようになったのか、とか」


 水野さんは紙コップを見つめた。


「……図書室です」


 水野さんが小さく言った。


「いつも同じ席で本を読んでいる人がいて。朝倉くんでした。読んでいたのが、私の好きな作家の本で……それで、気になって」


「同じ作家が好きだったんだ」


「はい。最初は、ただそれだけでした。でも、その本を借りようとしたら、朝倉くんも同じ本を返しに来ていて。それで、少しだけ話しました」


「なるほど」


 叶は微笑んだ。


「だから、同じ本の貸出カードに、水野さんと朝倉くんの名前が交互に残ってたんだ」


 本の話になった途端、視線が紙コップから少し上がる。


 図書室での記憶を思い出しているのだろう。


「直接話したのは、短編集の解釈がきっかけでした。最後の話のラストを、私は希望だと思ったんです。でも朝倉くんは、あれは別れだって言って。全然違う読み方なのに、どっちも間違いじゃない気がして……それが、すごく楽しかった」


 叶は黙って聞いている。


 俺も、黙っていた。


「それから、図書委員の人数が足りないって聞いて、私が誘いました。一緒にやってみないかって。朝倉くんは少し迷ってたけど、最後には頷いてくれて」


「勇気出したんだね」


 水野さんは、ほんの少しだけ頬を染めた。


「私、あまり自分の話をするのが得意じゃないんです。家でも、学校でも、話している途中で何を言いたいのか分からなくなることが多くて。でも、本の話だけは違って。朝倉くんと本を選ぶ時間だけは、ちゃんと言葉が出てくるんです」


 その言葉で、いくつかの点が線になった。


 同じ本。

 貸出カード。

 図書委員。

 本を介してしか繋がれない距離。


 俺は水野さんの言葉そのものよりも、言葉の隙間を見ていた。


「好きな人に告白したい」という相談にしては、彼女の視線は前へ進んでいない。


 大事な部分を、まだ避けている。


 俺はそう判断した。


「朝倉くんはすぐ承諾した?」


「少し驚いていました。でも、はいって」


 沈黙。


 叶がすぐに間へ入ろうとする気配がした。


 だが、俺は先に言った。


「今の話には矛盾がある」


 水野さんの顔から、色が引いた。


 叶がこちらを見た。


 水野さんも顔を上げる。


 俺は続ける。


「昨日の相談票には、朝倉航に告白したいと書いてあった。でも今の話だと、君が守りたいのは告白じゃない。朝倉くんと本を選ぶ時間だ」


 水野さんの肩が震える。


「……」


「それは、依頼を決めた理由じゃないだろ」


 水野さんは唇を噛んだ。


「最近」


 水野さんがぽつりと言った。


「朝倉くんが、図書室に来る時間が減ったんです」


 空気が少し変わった。


「前は、シフトがない日でも来ていたんです。なのに最近は、先に帰る日が増えて」




「それで不安になった?」


 水野さんの手が、紙コップを少し強く握った。


「はい。でも、それだけじゃなくて……図書委員をやめるかもしれないって聞いて」


「本人からは聞いてない?」


 水野さんは首を横に振った。


「聞けませんでした」


「どうして?」


「聞いたら、終わりそうで」


 その言葉は、部屋の中に小さく落ちた。


 叶の目が少しだけ揺れる。


「終わるって、図書委員が?」


 水野さんは少し間を置いた。


「図書委員も。でも、それだけじゃなくて……本の話をする時間も」


「うん」


「朝倉くんが図書室に来なくなったら、私は朝倉くんと話す理由がなくなるんだと思いました」


「理由がないと、話せない?」


「……話せないと思います。少なくとも私は」


 水野さんは紙コップを見つめた。


「それで、焦ったんです。何か言わないとって。今のうちに言わないと、間に合わなくなるって」


 水野さんは鞄から一冊の文庫本を取り出した。


 昨日、棚から何度も抜いていた淡い青色の本だった。


「これ、朝倉くんが好きだって言っていた本です」


「借りたんだ」


「借りられませんでした」


「どうして?」


「貸出カードに、朝倉くんの名前が何度もあって」


 水野さんは本を見つめた。


「私が借りたら、追いかけているみたいで」


「追いかけてるんじゃないの?」


「分からないです」


「もう一度聞いて悪いんだけど、告白したい気持ちはある?」


「あります」


「でも、分からない?」


「分からないです」


「それに、最近、誰かと連絡を取って、急いで帰る日が増えていて」


「誰か」


「分かりません。見ようとしたわけじゃないんです。でも、スマホの通知が見えてしまって」


「でも」


 水野さんは息を吸った。


「もし、朝倉くんが図書室に来なくなった理由が、別の誰かだったら」


 叶は黙って待った。


「誰かと一緒にいる時間が増えたからだったら」


 水野さんの声がかすかに震えた。


「私が告白するのは、その人から朝倉くんを奪うことになるんじゃないかって」


「水野さん」


「はい」


「君が怖がっているのは、断られることじゃないんだな」


 水野さんの肩が小さく揺れた。


 叶がこちらを見た。


「朝倉航という人間が好きなんじゃなくて、自分の話を聞いてくれる人を失いたくないだけなんじゃないか。だから告白という形で、自分の近くに留めておきたい。違うか」


「……いえ」


「そこを隠したままだと、依頼にならない」


「律くん」


 叶の声が、静かに割って入った。


 水野さんは俯いていた。


「水野さんは、朝倉くんが図書室に来る時間が減ったこと、図書委員を辞めるかもしれないこと、放課後に急いで帰ることから、他に誰かがいる可能性を考えた」


 俺は止まらなかった。


「でも、本人に確認していない。急いで帰る理由も、図書委員を辞める理由も、朝倉くん本人の言葉じゃない。そこから告白するかしないかを決めるのは危うい」


「律くん」


 叶の声が、部屋の空気を切った。


 旧校舎の小さな部屋に、沈黙が落ちる。


 外では、どこかの部活の声が遠く聞こえていた。


 水野さんはしばらくうつむいたままだった。


 やがて、小さな声で言う。


「……間違っては、ないと思います」


 水野さんは無理に笑おうとした。


 失敗して、唇だけが少し震える。


「でも、それだけじゃないって、思いたいです」


「でも――」


「律、そこまで」


「でも――」


「そこまで」


 部屋の空気が止まった。


 古い時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。


 叶が静かに言う。


「水野さん、ごめん」


「いえ……」


 水野さんは小さく首を振った。


「私、まだ、ちゃんと話す準備ができてなかったのかもしれません」


 叶はすぐに立ち上がらなかった。


 ただ、机の上に置いてあった相談票をそっと裏返した。


「今日は、ここまでにしよう」


「でも……」


「すみません」


「謝らなくていい。謝るのは、こっち」


 叶は俺を見ないまま言った。


「今日は、うちの仮相棒が言葉の投げ方を間違えた」


 水野さんは慌てたように首を振る。


「いえ。雨宮くんの言ったこと、たぶん……私が考えたくなかったことなので」


 水野さんは静かに立ち上がった。


「今日は、ありがとうございました」


「来てくれてありがとう、水野さん。また話せそうなら、ここに来て」


 水野さんは立ち上がり、もう一度小さく頭を下げて、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 旧校舎の床板が、遠ざかる足音を鳴らした。


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 先に口を開いたのは、叶だった。


「律くん」


「……何だ」


「水野さんの感情、分かってたんだよね」


「大体は」


「水野さんを助けようとしたんだよね」


「違う」


 即答した。


 叶はじっと俺を見る。


「違うの?」


「人の恋に関わると、余計な責任が増えるだけだ。俺は、そんなものを背負う気はない」


「責任が怖い人が、あんな無責任な言い方をするんだ」


「俺は事実を――」


「事実?」


 叶が遮る。


「水野さんが準備できてない言葉を、先に言い当てることが?」


「……」


「律くんは、人の気持ちを読むのがうまいよ。たぶん、私よりずっと早く、いろんなことに気づく」


 叶は机に手を置いた。


「でも、気づいたことをそのまま本人の前に置けばいいわけじゃない。言われた人が準備できてないなら、暴力になる」


「なら、どうすればよかった」


「じゃあ、何をしたかったの?」


「分からない」


「だから、最初に厳しいことを言って、引き返せるなら引き返したほうがいい」


「それ、誰のため?」


「水野さんのためだ」


「律くんのためでもあるよね」


 俺は返事をしなかった。


「ねえ、律くん」


 叶が少しだけ声を和らげた。


「さっきの質問に答えるよ」


「質問?」


「私が、恋愛工作室を作った理由」


「俺はまだ、相棒になるとは言っていない」


「言ったよ」


「言っていない」


「さっきの水野さんとの会話が、答えだった」


「どういう意味だ」


 叶はすぐには答えなかった。


 そして、机の上の紙コップを片づけながら言った。


「少し、場所を変えよう」


「どこへ」


「学校の中。遠くじゃないよ。律くんの質問に答えるための場所」


「……分かった」


 俺は立ち上がった。


 叶は恋愛工作室の電気を消し、部屋に鍵をかけた。


 旧校舎の廊下は、さっきより暗くなっていた。


 夕方の光が沈みかけて、窓の外には橙色と薄紫が混ざっている。


 俺は黙って、叶の後を追った。


 やがて、俺たちは図書室の奥へ向かった。


 一般の生徒があまり入らない、閉架書庫の前。


 普段は鍵がかかっているその部屋の前で、叶は立ち止まった。


「ここで何を話すんだ」


「見せたいものがあるの」


 叶は鍵を取り出し、慣れた手つきで扉を開けた。


 古い全集や、使われなくなった資料、何年も開かれていないような背表紙の色褪せた本が並んでいる。


 閉架書庫の中は、図書室とは違う匂いがした。


 紙。


 埃。


 古いインク。


 時間が止まったような匂い。


 叶は棚の奥へ進み、一冊の古いノートを取り出した。


 表紙は少し色褪せていて、角が丸くなっている。


 大切に扱われてきたものだと、見ただけで分かった。


「これは?」


「姉が残したノート」


 叶の声は、静かだった。


 俺は何も言わなかった。


 叶はノートを開かず、両手で大事そうに持った。


「うちの姉はね、病気だったの。長くは走れなかったし、学校にも毎日行けたわけじゃなかった。でも、人の話を聞くのが好きだった」


 書庫の奥で、紙がかすかに鳴った。


「好きって言えなかった人。謝れなかった人。友達のままでいたかった人。誰かを傷つけるのが怖くて黙った人」


 叶はノートを見つめる。


「そういう人の言葉を、姉はここに残してた」


 叶はノートの表紙を指先でなぞる。


「自分のことだけで精いっぱいでもおかしくなかったのに」


「それでも最後まで、誰かの話を聞こうとしてた」


その声には、笑おうとして失敗したような響きがあった。


「馬鹿だよね。自分のことだって救えなかったのに、他人の感情を救おうとしてたんだから」


「叶」


「でも、私はその馬鹿なところが好きだった」


 叶はノートを開いた。


ところどころに、赤いペンで短いメモがある。


『急がせないこと』


『相手の言葉を奪わないこと』


『言えなかった後悔は、あとで重くなる』


「お姉ちゃんを見て、思ったの」


「恋って、叶えるためだけに向き合うものじゃないんだって」


「言えなかった後悔を、少しでも減らすために向き合うものなんだって」


「それが、恋愛工作室を始めた理由か」


閉架書庫の小さな窓から、夕日が差し込んでいた。


光の中で、埃がゆっくり浮かんでいる。


「だから、恋愛工作室を作った。誰かの恋を成功させるためじゃない。誰かが、自分の気持ちを自分の言葉にできるように」

君の


「……それが、君の理由か」


「うん」


叶は頷いた。


「お姉ちゃんが残したものに意味をつけたかった。救えなかった恋を、私が救えば、お姉ちゃんがいなくなったことにも何か意味がある気がして」


「……」


「でも、それだけじゃ駄目だって、最近少し分かってきた」


「なぜ」


「救うって言葉、便利だけど危ないから」


 叶はノートを胸に抱いた。


「律くんってさ」


「誰かの感情を守るために悪役を引き受けるくせに、自分は気にしてないって顔をするところがあるよね」


俺は黙った。


「それ、ちょっとずるいよ」


「……ずるい?」


「だって、悪役になってる自分は傷つくけど、相手にちゃんと向き合わなくても済むから」


「……」


「うん。悪役になる覚悟があるなら、その後で傷ついた人の前にも立たなきゃ。言い当てて終わりじゃなくて、言いすぎたなら謝って、次にどう言えばよかったのか一緒に考えなきゃ」


「律くんを見てると、少しだけお姉ちゃんを思い出す」


「俺が?」


「うん」


「誰かの気持ちを、放っておけないところ」


「もちろん、性格はかなりひねくれてるけど」


「天使みたいなお姉ちゃんが、もし悪魔に転生したら律くんみたいになるかも」


「俺は放っておく方だ」


「本当にそうなら、今日ここに来てないよ」


「俺をあちこち引っ張り回したのは、君だろ?」


「やっぱり素直じゃないな」


 叶はノートを棚に戻した。


「水野さんの気持ちは、たぶん時間がない。朝倉くんが図書委員をやめるなら、今の関係は変わる」


「……そう」


「待っている間に、手遅れになったら?」


「それでも、本人の言葉じゃないと意味がない」


「俺に何ができる」


「見つけること」


 叶は言った。


「水野さんが何を怖がっているのか。朝倉くんが何を隠しているのか。関係のどこに、言葉になっていないものがあるのか」


「また、今日みたいに傷つけるかもしれない」


「だから、相棒なんでしょ」


 叶は少し笑った。


「律くんが言いすぎたら、私が止める。私が優しすぎて踏み込めなかったら、律くんが見つける」


「都合のいい役割分担だな」


「うん。すごく都合がいい」


「認めるのか」


「相棒って、そういうものじゃない?」


「……分かった」


 俺は言った。


「ねえ、律くん」


「何だ」


「水野さんの依頼、受ける?」


「……条件がある」


「うん」


「俺は告白を成功させる作戦なんて立てない」


「もちろん」


「朝倉くんの気持ちを勝手に決めない」


「うん」


「水野さんにも、決めつけて押しつけない」


「うん」


「それと」


「それと?」


「一人では無理だ」


 叶は少しだけ目を見開いた。


「そこまで認めるんだ」


「うるさい」


「ごめん。嬉しくて」


「調子に乗るなよ」


「乗るよ。だって、恋愛工作室に新メンバーが入った日だから」


 叶は笑った。


 図書室でも、教室でも、旧校舎でも見た笑顔だった。


 けれど今の笑顔は、少しだけ違って見えた。



「まだ正式に入るとは――」


「よろしくね、律くん」


 叶は右手を差し出した。


 俺はその手を見た。


「握手か?」


「うん」


俺は叶の手を取った。


「よろしく、叶」


「もちろん」


その瞬間、閉架書庫の窓から、夕方の光が細く差し込んだ。


青春のど真ん中というには、あまりにも埃っぽい場所だった。

ロマンチックというには、古い本の匂いが強すぎた。

告白の舞台というには、二人とも恋愛偏差値に問題がありすぎた。


それでも。


俺の高校生活に、またひとつ、教科書に載っていない科目が増えた。


恋愛工作室、最初の依頼。


水野栞の片想い。


「戻ろうか」


「ああ」


閉架書庫を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。


さっきまで重かった空気が、少しだけ軽くなった気がする。


恋愛工作室へ戻る途中、叶がふと思い出したように言った。


「律くん」


「今度は何だ」


「水野さんの依頼、どうなると思う?」


「分からない」


「珍しいね」


「分からないものは分からない」


「でも、考えてるんでしょ」


「考えてはいる」


「なんで笑ってるんだ?」


叶は楽しそうに笑った。


「いや、ちょっと可愛いなって思って」


その笑い声が旧校舎の廊下に響く。


昨日まではただ古いだけに見えた場所が、少しだけ違って見えた。


秘密基地。


相談室。


そして、誰かがまだ自分の言葉を見つける前に、少しだけ立ち止まれる場所。


俺はまだ、恋を信じられない。


けれど。


そのやり方だけは、少しだけ信じてもいいと思った。

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