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第1話 恋愛工作室へようこそ

第1話 恋愛工作室へようこそ


「律……」


 学生の本分は勉強である。


 これは、古今東西、教師と保護者と進学塾が口をそろえて唱え続けてきた、きわめて退屈で、きわめて正しい真理だ。


 もちろん、俺――雨宮律も、その真理を疑ったことはない。


 なにしろここは、星ノ宮学園。


 県内有数の進学校であり、偏差値という現代社会の戦闘力ランキングにおいて、上位勢がひしめく由緒正しき学び舎である。


 朝は単語帳。


 昼は小テスト。


 放課後は自習室。


 青春のすべてを参考書と模試結果に捧げる覚悟を持った者たちが集う、清く正しい受験戦争の前線基地。


 つまりここは、青春の浮ついたあれこれよりも、赤点回避と模試判定と内申点が正義のはずの場所だった。


 ――はず、だったのだが。


 この学園に入学してからというもの、俺はその信念を揺るがす数々の事件を目撃することになった。


 いや。


「……律」


 正確に言えば、揺るがされたのではない。


 むしろ、俺の胸の奥底にある、他人には少し言いづらい信念が、日に日に強くなっていったのだ。


 青春のときめきもまた、一つの勉強である。


 教科書に印刷された文字だけでは知ることのできない、人間関係の構造。


 参考書の解答欄には絶対に載っていない、感情の選択肢。


 そして、模範解答を用意した瞬間に間違えることがある、人生という科目。


 その授業はいつだって、予想外の場所で、しかし驚くほど予定調和な形で始まる。


 体育館。


 科学室。


 美術室。


 そして、ここ――図書室。


 背の高い書架と書架の間。誰かが一冊の本を抜き取った瞬間にできる、細い隙間。


 その隙間越しに目が合って、なぜか二人同時に顔を赤くする。


 高い棚の本に手を伸ばす女子が、あと数センチ足りずに困っている。そこへ偶然通りかかった男子が、無言で本を取ってやる。


「あ、ありがとう……」


 そう言った女子の声が、図書室の静けさに少しだけ溶ける。


 勉強に疲れて机に伏せた誰かに、缶コーヒーを差し出す。


「無理するなよ」


「……うん。ありがと」


 その瞬間、恋愛偏差値だけは全国模試でも測れない何かが発生する。


 図書室とは、そういう場所だ。


 本を読む場所でありながら、本に書かれていない感情ばかりが行間からこぼれ落ちる場所。


 そして俺は今、その行間のひとつを、脚立の上から観察していた。


 書架の前に立つ一人の少女。


 彼女はここ数日、同じ本を抜き取り、開きもせず、また戻すという不可解な行動を繰り返している。


 指先は落ち着かない。


 視線は本の背表紙ではなく、カウンターの方へ何度も流れる。


 貸出カードを触る仕草が、妙に多い。


 名前は――水野栞。


 図書委員の女子だ。


 そして彼女の視線の先にいるのは、同じく図書委員の朝倉航。


 静かな図書室に、ページをめくる音だけが落ちていく。


 水野はまた、本を抜き取った。


 けれど、読まない。


 ただ、背表紙の隙間からカウンターを見る。


 その横顔が、少し赤い。


 なるほど。


 これは、そういうことか。


 恋愛という現象は、本人たちが隠しているつもりのときほど、行動に出る。


 視線の滞在時間。


 指先の迷い。


 話しかける直前に一度だけ深く吸う息。


 本人にとっては些細な癖でも、観察対象として見るなら十分すぎる情報だ。


 つまり水野栞は――


「律っ!」


 背後から、声が飛んできた。


 いや、飛んできたというより、刺さった。


 しかも鼓膜にではない。背骨に。


「うわっ!?」


 同時に、脚立が大きく揺れた。


 反射的に棚へ手を伸ばしたが、運命というものはいつだって人間の反射神経に厳しい。


 俺の足は一段踏み外し、視界がぐるりと回転し、


 ごん、という鈍い音がした。


 俺の頭と床が、非常に不本意な再会を果たした音だった。


「いっ……!」


 図書室中の視線が集まる。


 静寂が、音を立てて割れた気がした。


 俺は頭を押さえながら上体を起こす。


 白瀬叶。


 星ノ宮学園に入学して一か月足らずで、すでに学年中のほとんどが名前を知っている少女。


 明るく、誰にでも柔らかく、けれど妙なところで強引な、俺にとっては少々厄介な人物。


 そして今、俺を脚立から落とした張本人である。


 彼女は図書室の静けさに合わせて声を落としながら、俺の隣に立った。


「やっと反応した」


「急に脚立を掴むな。危ないだろ」


「急じゃないよ。椎橋先生がもう三回も呼んでたんだけど? 」


「椎橋先生が?」


「うん。で、私が四回目」


 カウンターの向こうで、司書の椎橋先生が困ったように微笑んでいた。


「雨宮くん、上の棚の整理、無理しなくていいからね」


「あ、はい。すみません」


 俺は立ち上がりながら、落ちた本を拾った。


「律こそ、何をそんなに真剣に見てたの?」


「俺が誰を見ていようと、君には関係ないだろ」


 叶は俺の視線を追って、本棚の向こうを見る。


 そこには、水野栞の後ろ姿があった。


「へえ。あの子、そんなに気になるんだ?」


「気になる、というか」


「好きなの?」


「違う」


「即答だね。逆に怪しい」


「逆にの意味が分からない」


 叶はにこにこと笑いながら、俺の前にしゃがみこんだ。


「ふうん」


 叶の声が一段明るくなった。


 明るくなったはずなのに、なぜか逃げ道が狭まった気がした。


「照れてるなら、私が代わりに話をつないであげてもいいよ? 直接恋の橋渡しをするのは、私の専門とはちょっと違うけど。律くんのためなら特別に」


「だから違うって言ってるだろ」


「そっか。まあ、そうだよね」


 叶はわざとらしく頷いた。


「うちの星ノ宮学園で恋愛レベルが低いことで有名で、生粋の陰キャラである君が、そんな恋愛みたいなことを考えるはずないよね。期待もしてなかったけど」


「今、なかなか失礼な単語が三つくらい入っていたんだけど」


「失礼なのは、隠れて女の子をじっと観察している方じゃないかな?」


「それで? 君はどうして俺にそこまで興味を持つんだ」


 叶はあっさり言った。


「君のそういうところ、けっこう好きなんだよね。私のパートナーにぴったり」


「……パートナー?」


「うん。誰かを慎重に観察して、言葉の裏にあるものを見ようとするところ」


「それだけ聞くと、いい感じにまとめてるけど」


「それと、恋愛に興味がなさそうなところ」


「今の評価、急に下がらなかったか?」


「万が一にも依頼者に恋しちゃったら困るでしょ? だから、私は律みたいな変態が欲しいの」


「変態って言うな」


「じゃあ、観察特化型恋愛非参戦生物」


「余計ひどい」


 その時、近くの机を整理していた司書の椎橋先生が、おずおずとこちらへ近づいてきた。


「あの……大丈夫? すごい音がしたけれど」


 俺が立ち上がろうとすると、叶がすっと笑顔を作った。


「大丈夫です。神聖なる星ノ宮学園の図書室で、不審な変態を一名、平和的に制圧しただけです」


「変態じゃない」


「平和的でもなかったけどね」


「自覚があるなら訂正しろ」


 椎橋先生は困ったように笑い、床に散らばった本を見た。


「二人とも、もしよければ本の整理を手伝ってくれる?」


「はい、もちろんです」


 叶が即答する。


 俺も立ち上がり、落ちた本を拾い始めた。


 作業をしながらも、俺の意識は自然と水野栞へ向いていた。


 栞は貸出カウンターの端で、古びた貸出カードを指先でなぞっている。


 視線は紙面に落ちているのに、意識は別の場所へ向いているようだった。


 朝倉航。


 同じ図書委員。


 落ち着いた雰囲気で、本の話をしている時だけ少し表情が緩む男子。


 普通に考えれば、水野栞は朝倉航に好意を抱いている。


 けれど、俺には少し引っかかっていた。


 あれは、単に「好きな人に告白したい」だけの目ではない。


 もっと別のものが混ざっている。


 壊したくないもの。


 言った瞬間に失われるかもしれないもの。


 それでも、言わなかったら後悔するかもしれないもの。


「……やっぱり、少し違う」


 思わず口に出していた。


 次の瞬間、耳元で声がした。


「何が?」


「うわっ!」


 俺はまた本を落としかけた。


 隣にいたはずの叶が、いつの間にか至近距離にいる。


「驚きすぎじゃない?」


「驚かせすぎなんだよ」


「ごめんごめん。でも、律くんが面白いこと言いそうだったから」


「面白いことじゃない」


「じゃあ、続きをどうぞ。『やっぱり、少し違う』って?」


 叶は本を胸に抱え、楽しそうに俺を見上げている。


 俺は一度、カウンターの方へ視線を向けた。


 水野栞は朝倉航と話している。


 でも、その表情は、ただ好きな相手を前にして緊張しているというだけではない。


 不安。


 遠慮。


 期待。


 そして、何かを確かめたいのに、確かめるのが怖いという迷い。


「……たぶん、単純な片想いじゃない」


「へえ」


「朝倉のことが気になるのは間違いない。でも、告白したい人間の動きというより、告白する理由と告白しない理由を同時に探しているように見える」


 叶の目が、少しだけ真面目になった。


「どうしてそう思うの?」


「本を借りなかったから」


「それだけ?」


「それだけじゃない。彼女は本を見てるようで、貸出カードを見ていた。朝倉航の名前が並んでいるかどうかを確認していた。でも借りない。朝倉が見ているかもしれないから」


「見られたくない?」


「見られたくないし、見てほしい。たぶん、その両方だ」


 叶はしばらく黙った。


「やっぱり律くん、相棒向きだね」


「何の相棒だ」


「あとで教える」


「今教えろ」


「今は本を戻す時間です。椎橋先生に怒られます」


「君が俺を落としたせいで始まった作業だろ」


「律くん、言い訳が成績優秀すぎて逆に不自然」


「褒めてるのか?」


「ううん。気持ち悪いって言ってる」


「語彙を選べ」


 叶は満足そうに笑った。


 俺は深く息を吐き、黙って本を棚に戻す。


 こういうタイプには、反論するほど餌を与えるだけだ。


 返却本の整理が終わる頃には、図書室に残る生徒もまばらになっていた。


 俺が鞄を持ち、出口へ向かおうとしたところで、叶がさっと前に立ちはだかった。


「今、暇?」


「暇じゃない」


「やっぱりそう言うと思った」


「分かっているなら聞くな」


「用があるの。少しだけ時間をちょうだい」


「だから、暇じゃないと言ったんだけど」


「君の今日の予定は把握済みだよ。部活なし。委員会なし。補習なし。つまり暇」


「どうして知ってる」


「誰から聞いたと思う?」


 叶が視線だけを横へ向ける。


 図書室の新聞閲覧コーナー。


 そこに、一人の女子生徒が座っていた。


 新聞を逆さまに持ったまま。


「……すず」


 俺が名前を呼ぶと、彼女は新聞をぴくりと震わせた。


「どこまでついてきて監視してるんだ、この変態」


「変態じゃないし!」


 新聞を下ろしたのは、榎本すず。


 新聞部所属。


 小柄で、動きが速く、噂の匂いを嗅ぎつける能力に関しては学園内でも上位に入る。


 本人はそれを取材力と呼んでいる。


「それに、監視じゃなくて取材だから」


「本人に許可を取らない取材は、ほぼ監視だ」


「細かいなあ。そういうところだよ、律がラブコメ主人公になれない理由は」


「なりたいと言った覚えはない」


 叶が楽しそうに目を細めた。


「この学校、変態が別の変態を変態呼ばわりするのが流行ってるの?」


「叶がそれを言うのか」


「叶がそれを言うの?」


 俺とすずの声が重なった。


 一瞬だけ仲間意識が芽生えたが、すずはすぐ俺を指差した。


「でも律はやっぱり変態だと思う」


「裏切りが早い」


「女の子をじっと見てたし」


「一回だろ」


「一回じゃないでしょ」


 叶がにこにこしながら追い打ちをかける。


「律くんはね、他人に恋愛感情を持ってないくせに、恋愛中の人間をじっと見ていられる、貴重なタイプの変態なんだよ」


「変態じゃない」


「とにかく、来て」


「拒否権は?」


「あるよ。今月号の学校新聞で『図書室の本棚越しに女子を見つめる謎の優等生』という特集の主役になりたいなら」


 すずがにやりと笑う。


「写真もあるよ。横顔だけだけど、なかなか雰囲気出てた」


「消せ」


「本人が素直についてくるなら、未掲載にしてあげる」


「脅迫だろ、それは」


「取材交渉だよ」


 叶がぽん、と俺の肩を叩いた。


「大丈夫。悪いようにはしないから」


「その台詞、悪いことをする人間が一番よく使うやつだ」


「雨宮くん、疑り深いね」


「君が疑わせてるんだ」


「でも、すずは記事を書きたがってるんだけど。」


「それ、脅迫じゃん。」


「交渉って言ってよ。」


 俺は結局、二人に挟まれる形で図書室を出ることになった。


 向かった先は、旧校舎だった。


 旧校舎は、本校舎の奥にある渡り廊下を抜けた先にあった。


 今はほとんど使われていない。


 壁は少し黄ばんでいて、床板は歩くたびにきしむ。窓ガラスには細かい傷があり、夕方の光が斜めに差し込むと、廊下全体が古い写真の中みたいに見えた。


「なあ」


 俺は前を歩く叶に声をかけた。


「なに?」


「こんな人気のない旧校舎に男子を連れ込んで、いったい何をするつもりだ」


 叶は振り返り、俺の肩をぽんと叩いた。


「ただ古い廊下を歩いてるだけだけど?」


「直前の文脈を全部消して話すのをやめろ。さっきの椎葉先生の反応を思い出せ」


「やっぱり変態だ。 変な想像してる」


「今のは一般的な警戒心だ」


「自覚ないタイプの変態って怖いよね」


「だからお前にだけは言われたくない」


 叶は笑いながら、旧校舎の一番奥にある扉の前で立ち止まった。


 扉には、手書きの札がかかっていた。


 ――恋愛工作室。


「ようこそ」


 叶が振り返る。


 夕方の光が、古い窓から斜めに差し込んでいた。


 窓から差し込む夕方の光が、積もった埃を金色に浮かび上がらせている。


 彼女の笑顔だけが、この埃っぽい場所で不自然なくらい明るい。


「恋愛工作室へ」


「……何だよ、この怪しすぎる名前は」


「怪しいなんて失礼だなあ。ちゃんと深い意味があるんだよ」


「俺には関係なさそうだから、どうでもいい」


「関係あるよ」


 叶は扉に手をかけた。


「何の関係もない他人のことを、図書室であれだけ気にしていた律くんには、特に」


 すずがすかさず頷く。


「入れば分かるから」


 叶が扉を開ける。


 中は、使われなくなった準備室を無理やり居場所にしたような空間だった。


 古い机が四つ、中央に寄せられている。


 壁際には使われなくなった棚。


 窓辺には小さなポストのような箱。


「お茶出すね。……あ、しまった。お菓子がない」


 叶が菓子箱を持ち上げ、すずを見た。


「すず。食べたら補充してって言ったよね?」


「だって今週のお小遣い、もう使っちゃったんだもん。来週入ったら買うつもりだったし」


「俺は雑談をしに来たんじゃない」


 ただ、黒板には、チョークで三つの文章が書かれていた。


 一、相手の気持ちは操作しない。


 二、嘘で恋を成立させない。


 三、成功とは、付き合うことではなく、依頼者が後悔しない選択をすること。


 俺は、その三つ目で目を止めた。


「依頼者が、後悔しない選択」


「うん」


 叶はうなずく。


「恋愛工作室は、告白を成功させる場所じゃない。本人が、自分の気持ちを自分の言葉にする手伝いをする場所」


 すずが横から口を挟む。


「まあ、名前だけ聞くと完全に怪しいんだけどね」


「すず、そこは黙って」


「おまえら、俺を呼んだ理由をそろそろ話せ」


「お茶、飲む?」


「本題を話せ」


「固いなあ。せっかく美少女二人と狭い部屋にいられる、律くんの学生生活――いや人生で一度あるかないかのラブコメイベントなのに」


「頼むからやめてくれ」


 叶は椅子に座り、机の上に一枚の紙を置いた。


 紙の端は少しよれていて、消しゴムの跡も多い。


 空気が少しだけ変わる。


「今日、水野栞さんから依頼を受けたの」


「……水野栞から?」


「うん」


 叶は紙を俺の方へ滑らせた。


 そこには、丁寧すぎる字でこう書かれていた。


『図書委員の朝倉航くんに、告白したいです。

 でも、本当に告白していいのか分かりません』


「……朝倉航か」


「うん。やっぱり分かってたんだ」


「カウンセリングなら先生に頼め」


「先生に言える恋なら、最初からここには来ないよ」


「それで、なぜ俺が? 俺は恋愛経験豊富な相談員には見えないと思うが」


「うん。そこがいい」


「どういう意味だ」


「依頼者に恋しなさそう」


「褒めてないだろ」


「あと、人の視線とか、間とか、言葉になってないところを読むのが得意」


「それも褒めているようで、かなり危険な評価だ」


「だって本当でしょ?」


 すずはノートパソコンを開き、いくつかの写真とメモを表示した。


 図書室の返却棚。


 貸出カード。


 水野栞の手元。


 朝倉航の視線。


「これ、すずが集めた資料」


「本人の許可は?」


「まだ」


「おい」


「大丈夫。記事にはしない。今のところは」


「今のところ、をつけるな」


 叶は俺の抗議を受け流し、相談票を指で押さえた。


「でも、律も感じたでしょ。これは単純に『告白したいから手伝ってください』という依頼じゃない」


 俺は答えなかった。


 答えなかったことで、答えたのと同じだったらしい。


 叶は少しだけ身を乗り出す。


「彼女の言葉の中に、まだ言えていない本音がある。私はそれを急がせたくない。でも、私だけだと見落とすかもしれない」


「だから俺を連れてきた?」


「うん。君は、私が見えないところを見るから」


「買いかぶりだ」


「そうかな。図書室で、もう見えてたくせに」


「……思っただけだ。断定はできない」


「それでいい」


 叶は笑った。


 さっきまでのからかう笑顔ではなかった。


 誰かの言えない言葉を、無理にこじ開けずに待つような笑顔。


「私たちに必要なのは、正解を決める人じゃないから」


「……俺が関わったからって、解決するとは限らない」


「うん」


「そもそも、俺は恋愛に詳しくない」


「知ってる」


「即答するな」


「でも、人を見るのは得意でしょ?」


 叶はまっすぐ俺を見る。


 その瞳には、妙な確信があった。


「断ったら?」


 叶は少し考え、にっこり笑った。


「その世界線は、私は知らないかな」


 すずが無言でノートパソコンを持ち上げた。


 表紙には、なぜか俺の名前が貼られている。


「……中身は?」


「雨宮律くん観察メモ、暫定版」


「消せ」


「協力してくれたら、未掲載にしてあげる」


「脅迫という言葉を知っているか?」


「新聞部では取材交渉って言うよ」


「言わない」


 窓の外でチャイムが鳴った。


 下校時刻を知らせる、どこか間の抜けた音。


 叶は立ち上がった。


「今日はここまで。明日、水野さんの話を聞く」


「俺はまだ協力すると言ってない」


「うん。だから明日、話を聞いてから決めて」


「話を聞いたら、断りにくくなるだろ」


「そうかも」


「認めるな」


「でも、断ってもいいよ」


 叶は扉のほうへ歩きながら、振り返った。


「ただし、断るなら、水野さんの言葉をちゃんと聞いたあとにして」


「……面倒な条件だな」


 旧校舎を出ると、廊下は夕方の色になっていた。


 窓の外では運動部の声が遠く響いている。


 叶は隣を歩き、すずは後ろでメモ帳をぱたぱた振っていた。


「律くん、明日来るよね」


「来ない可能性もある」


「何パーセント?」


「五十」


「嘘だね。七十五」


「勝手に上げるな」


 すずが言った。


「私は八十に一票」


「賭けにするな」


「じゃあ、外れた人がお菓子を買う」


「すず、それ自分で買う流れになるよ」


「しまった」


 叶とすずは部屋の鍵を閉めるために少し残り、俺はひと足先に校門へ向かった。


 そして正門の近くで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


 水野栞だった。


 彼女は校門の外へ出るでもなく、帰るでもなく、鞄の紐を握ったまま立ち止まっている。


 迷っている。


 いや、待っているのかもしれない。


 俺は少し迷ってから声をかけた。


「水野」


 彼女の肩が小さく跳ねた。


 振り向いた顔は、図書室で見る時よりもずっと不安そうだった。


「あ、雨宮くん……」


「帰らないのか」


「うん。少し……考えごと」


 そう言って、水野は鞄から一冊の文庫本を取り出した。


 図書室で何度も抜き差ししていた、あの本だった。


「それ、借りたのか」


 水野は首を横に振った。


「借りられなかったの。貸出カード、ずっと見てたのに」


「ずっと?」


「うん」


 水野は本を胸元に抱えた。


「この本、朝倉くんが最初にすすめてくれた本なの。でも、私……まだ読めてなくて」


「どうして」


 問いかけると、水野は困ったように笑った。


「読んじゃったら、話す理由がひとつ減る気がして」


 風が吹いた。


「……明日」


 俺は言った。


「恋愛工作室に来るんだろ」


 水野は驚いたように目を見開いた。


「白瀬さんから聞いたの?」


「聞いた」


「そっか」


 水野は視線を落とした。


 しばらく沈黙があった。


 そして彼女は、慎重な声で言った。


「変、かな。告白したいって書いたのに、告白していいのか分からないなんて」


 俺は、すぐには答えられなかった。


「別に変じゃない」


 俺は少しだけ考えてから続けた。


「分からないから、相談するんだろ」


 水野は俺を見た。


 その目はまだ揺れていた。


「水野」


「はい」


「明日、叶にちゃんと話した方がいい」


 俺は自分でも驚くほど自然にそう言っていた。


 水野は目を丸くした。


 それから、少しだけうつむいて、小さく頷く。


「……はい」


 夕方の校門に、風が通り抜けた。


 彼女の手の中で、貸出カードがかすかに揺れる。


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