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第7話 最後に一冊、一緒に選んでほしい

 第7話 最後に一冊、一緒に選んでほしい


 そして翌日。


 金曜日。


 図書委員の最後の交代日が来た。


 本来なら、水野栞と朝倉航が図書室で顔を合わせるはずの日。


 正確には、朝倉くんが図書委員を辞める前に、二人が同じ時間に図書室へ立てる最後の日。


 少なくとも今の形で二人が同じカウンターに並ぶ、最後の日。


 たち恋愛工作室にとっても、ひとつの期限だった。


 貸出カードには返却期限がある。


 返却期限というものは、案外はっきりしている。


 貸出カードに押された日付。


 カウンター横の小さな札。


 期限を過ぎれば延滞扱い。


 本なら、それで済む。


 だが、人の気持ちはそうはいかない。


 いつまでに言わなければならないのか。


 いつを過ぎたら、もう手遅れなのか。


 どこまで黙っていたら、相手を傷つけるのか。


 そんなものは、どの貸出カードにも書いていない。


 だから人は、勝手に期限を決める。


 今日まで。


 この瞬間まで。


 相手がいなくなる前まで。


 自分の心が耐えられなくなる前まで。


 そして、その期限を自分で決めたくせに、間に合わなかった時、ひどく傷つく。


 図書委員の当番にも交代期限がある。

 そして、恋にも――たぶん、言葉にしないままでは失われてしまう期限がある。


 そんな、いかにも文学的で面倒くさいことを考えながら登校した俺は、放課後になる前にその期限が崩れたことを知った。


 昼休み、白瀬叶が俺の席までやって来た。


 いつもの笑顔ではなかった。


「水野さん、今日、休みだって」


「欠席?」


「椎橋先生に、体調が悪いって連絡があったみたい」


「……体調不良か」


 体調が悪い。


 その言葉を、そのまま受け取ることもできた。


 ここ数日、水野さんは明らかに疲れていた。

 張りつめていた糸が切れたように、学校を休んでもおかしくない。


 けれど、俺は胸の奥がざわつくのを止められなかった。


 昨日、公園で見つけた水野さんの背中。


 こちらの言葉を拒むように下がった足。


 そして最後に言った、あの言葉。


 ――今日は、誰にも会いたくないんです。


「うん。そう連絡があったみたい」


「そうか。今日、最後の当番日なんだよね」


「うん」


「朝倉くんは?」


「来ている。朝から何度かスマホを見ていた」


「水野さんから連絡は?」


「おそらく来ていない」


「そっか」


「まだ知らない顔だった」


「たぶん椎橋先生から聞くな」


 叶は少しだけ声を落とした。


「律くん」


「何だ」


「放課後、水野さんの家に行こうと思う」


 叶が言った。


「行ってどうする」


「家にいるか確認する」


「いなければ?」


「探す」


「朝倉にも言うのか」


「うん。たぶん、言わないとだめ」


「連絡は?」


「してない」


「どうして」


「昨日から、メッセージ送ろうとして……何て送ればいいか分からなくて」


「『大丈夫?』でいいじゃん」


「分かってる。だから余計に、何て言えばいいか分からなくなった」


「……そっか」


「それでいいのか?」


 そんなことを言っている場合ではないのに、少しだけ笑いそうになった。


 叶も同じだったのか、ほんのわずかに口元を緩める。


「よくないかもしれない。でも、私たちが水野さんの選択を奪うのはもっとよくない」


 けれど、すぐに表情を戻した。


「今日は、間に合わせないと」


「うん」


「水野さんが、自分ひとりで全部終わらせちゃう前に」


「分かってる」


「じゃあ、放課後」


「放課後」


 当たり前だ。


 クラスメイトが一人休んだだけで、世界は止まらない。


 授業は進む。

 小テストはある。

 購買の焼きそばパンは売り切れる。

 午後の眠気は平等に訪れる。


 けれど俺にとって、その空席は一日中、黒板よりも目立っていた。


 そして放課後。


 図書室の返却カウンターの前に、朝倉航が立っていた。


 ただし、作業はほとんど進んでいないようだった。

 返却本の分類も、予約本の確認も、中途半端に止まっている。


 朝倉くんは、何度もスマホを確認していた。


 その表情は、昨日まで水野さんがしていたものに似ている。


 言いたいことがある。

 でも届かない。

 相手がどこにいるのか分からない。


 それはたぶん、かなり苦しい。


 ただ、その手には一冊の本があった。


 古本屋で買った、あの本だ。


「水野さん、今日は来ないんだよな」


 朝倉くんがぽつりと言った。


「体調不良らしい」


「……そっか」


 朝倉くんは本の表紙を見下ろした。


 昨日までなら、その沈黙を俺は分析していただろう。


 視線の角度。

 指の力。

 言葉を飲み込んだ間。


 けれど今は、分析より先に分かることがあった。


 朝倉くんは、渡したかったのだ。


 今日。


 最後の図書委員の交代日に。


 水野さんに、その本を。


「朝倉くん」


 叶が声をかけると、朝倉くんは顔を上げた。


「白瀬……水野から、何か連絡あったか?」


「まだ。朝倉くんは?」


「ない。メッセージも既読にならない」


 朝倉くんは唇を噛む。



「昨日、ちゃんと話せなかった。俺がもっと早く言ってれば、こんなことにはならなかったのかもしれない」


「それを、今から言うんだよ」


 叶はそう言った。


 朝倉くんは少しだけ目を伏せる。


「朝倉」


 俺が声をかけると、朝倉くんは顔を上げた。


「少し付き合え」


「どこに?」


「水野さんの家」


 朝倉くんの表情が変わる。


「……見舞いってことか?」


「そういう名目だ」


 朝倉くんは黙った。


 それから、小さく頷いた。


「分かった」


 叶がすぐに言った。


「行こう」


「え、今から?」


 すずが声を上げる。


「もちろん。水野さんが家にいるなら、それでいい。家にいないなら……」


 すずがその場にしゃがみ込む。


「また?」


「榎本、立て」


「鬼ごっこ二回戦は無理。昨日の律を見て、私たちは人類の限界を学んだはずだよ」


 叶が手を合わせた。


「すず、お願い」


「……叶にそう言われると断りにくい」


「ありがとう」


「ただし、今日もし走ることになったら」


「なったら?」


「私に期待するな」


「そこを事前申告するんだ」


「昨日の反省を活かしている」


「かっこよく言っても体力不足だからね」


「黙れ」


 叶はそんな俺たちを見て、少しだけ笑った。


 その笑いが出たことで、張りつめていた空気がほんの少し緩む。


 だが、その笑みはすぐに消える。


「朝倉くん」


 叶が振り返る。


「一緒に来てくれる?」


 朝倉は一瞬だけ迷った。


 それから、うなずいた。


「行く」


 その返事は短かった。


 俺たちは椎橋先生に事情をぼかして伝え、図書室を出た。


 校舎を出る頃には、空は少し曇り始めていた。


 春でも夏でもない、季節の境目のような光。


 明るいはずなのに、どこか薄い。


 代わりに、何度もスマホを確認している。


 水野さんへの電話は、つながらない。


 メッセージにも既読はつかない。


 俺はそれを見るたび、胸の奥が重くなった。


 昨日、俺は水野さんを見つけた。


 真実を持っていった。


 けれど、届かなかった。


 今日も同じことになったら。


 そう考えると、足が自然と速くなる。


 そんな調子で、俺たちは水野さんの家へ向かった。


 水野さんの家は、学校から少し離れた住宅街にあった。


 水野さんの家に着いたのは、日が傾き始めた頃だった。


 叶が呼び鈴を押すと、出てきたのは水野さんの母親らしき人だった。


 叶はできるだけ自然に、同じ学校の者で、図書委員の用事があって来たことを説明した。 


 もちろん、恋愛工作室のことは言わない。


 同じ図書室で一緒だったので心配になった、という形に留める。


 母親は少し困ったように言った。


「水野さん、少し前に出かけましたよ。家にずっといると気分が沈むから、風に当たってくるって」


「どちらへ行ったか分かりますか?」


「さあ……近くだと思うんですけど」


 その瞬間、全員が固まった。


またか。


そう思った瞬間、すずがその場にへたり込んだ。


「やっぱり、鬼ごっこ第二ラウンド……?」


「不吉なことを言うな」


「律だって昨日、途中で座り込んでたじゃん」


「最後はほぼ地面と同化してたし」


「してない」


「アスファルトに敬語で話しかけてたよ」


「息をしていただけだ」


「息って、あんなに謝罪っぽくなるんだね」


 叶が横から言った。


「誰も君に全力疾走を期待してない」


「それはそれで失礼」


「何だ、その微妙な限界は」


叶がすずの腕を引っ張る。


「お願い、すず。水野さんが行きそうな場所、少しでも思いつく?」


「待ってて、今考えているところ」


叶が振り返った。


「二人とも、行くよ」


「はい」


俺とすずの声が重なった。


なぜか叶にそう言われると、反射的に従ってしまう。


叶はそう言って、地図アプリを開いた。


俺たちは分担して探すことにした。


朝倉くんは水野の家から学校へ向かう道。


叶は図書室と旧校舎周辺。


すずは商店街。


俺は、昨日水野を見つけた公園から、その先の通学路。


そして、美緒には市立図書館周辺を確認してもらう。


昨日と同じだ。


いや、昨日より悪い。


昨日は少なくとも、水野さんがどこかにいるという予感があった。


今日は、それすら曖昧だった。


走る。


昨日も走った。


そして今日も走る。


俺の体は、明らかにこの展開に抗議していた。


心臓がうるさい。


肺が不満を叫んでいる。


なのに、どうして俺は走っているのだろう。


答えは簡単だった。


ここで走らなければ、たぶん後悔するからだ。


恋愛工作室の鉄則は、依頼者だけに向けられた言葉ではないのかもしれない。


後悔しない選択をすること。


それは、関わってしまった側にも課せられる。


まったく。


ラブコメの主人公は、好きな相手を追いかけて走るものだと相場が決まっている。


だが俺は、依頼者を探して二日連続で街を走っている。


ジャンルの方向性が、かなりおかしい。


公園にはいなかった。


商店街にもいないと、すずから連絡が来た。


学校にもいないと、叶が言った。


市立図書館にもいないと、美緒がメッセージを送ってきた。


思いつく場所を、片っ端から探した。


なら、どこか。


俺は、通学路を外れて河川敷へ向かった。


星ノ宮学園の近くを流れる川は、放課後の時間帯になると、部活帰りの生徒や散歩中の人がちらほら通る。


だが、広い空の下では、誰もが少しずつ遠い。


一人でいるには、ちょうどいい場所だ。


河川敷に着いた頃には、俺は汗だくで、呼吸もかなり怪しくなっていた。


夕陽が川面に反射し、土手の草が風に揺れている。


自転車で通り過ぎる人。


犬の散歩をしている老人。


遠くでボールを投げる小学生。


そんな何でもない風景の端に、彼女はいた。


水野栞。


堤防沿いのベンチの近くに立ち、川を見ている。


制服の上に薄いカーディガンを羽織っていて、髪が風に揺れていた。


昨日の公園で見た時より、少しだけ小さく見えた。


俺は息を切らしながら叫んだ。


「水野!」


水野さんがびくりと肩を揺らし、振り返る。


「雨宮くん……?」


俺は膝に手をつき、息を整えようとした。


水野さんの顔に、困惑と警戒が浮かぶ。


まったく整わなかった。


「はあ……はあ……やっと……見つけた……」


そして、俺を見るなり、明らかに顔をこわばらせた。


「……また、ですか」


その足が、半歩後ろへ下がった。


まずい。


昨日と同じだ。


「どうして、何度も来るんですか」


「待ってくれ」


俺は両手を上げた。


「逃げるな。頼むから、今日は逃げないでくれ」


「昨日、逃げないでと言って失敗した」


「でも、逃げるなら、自分が何から逃げるのかだけは知っておいた方がいい」


「何から……」


「朝倉の答えから逃げてるのか。自分が誤解したことから逃げてるのか。好きという言葉を出すことから逃げてるのか。それとも」


「朝倉くんを、ちゃんと知らなかった自分から、逃げてるのか」


 水野はすぐに答えなかった。


 川の音は小さい。


 風が草を揺らす。


 俺は待った。


「私は、もう依頼を取り下げました」


水野は静かに言った。


「恋愛工作室に、これ以上お願いすることはありません」


「朝倉が君を探してる」


水野の手が震えた。


その反応だけで、まだ終わっていないことが分かる。


「今日、最後の交代日だろ。知ってるんだよな」


 水野さんの肩が、わずかに動いた。

 けれどすぐに、彼女は視線を伏せる。


「……もちろん、知っています」


「なら、どうして休んだ」


「体調が悪かったからです」


「本当に?」


「……」


 言葉が切れる。

 夕方の川の音だけが間に入った。


野の声は細かった。


「でも、それが何なんですか」


「何なんですかって」


「私は、もう行かないって決めたんです」


「朝倉くんに会って、普通に笑って、本の話をして、最後に何事もなかったみたいに別れるなんて、できません」


水野は首を横に振った。


「私は、ちゃんと諦めようとしてるんです。だから、これ以上……」


「諦められてないだろ」


俺の言葉に、水野の表情が強張った。


「それは雨宮くんたちが勝手に」


「そうだ。勝手に心配してる」


「わたし、依頼は取り下げたはずです。恋愛工作室のみなさんに、もう助けてもらう理由はありません」


「理由ならある」


俺は言った。


「誤解なんだ。全部」


水野さんの目が俺に向いた。


「誤解?」


「ああ。市立図書館で見た女の子は、朝倉の彼女じゃない」


「……」


「朝倉の妹だ」


水野さんの唇が、わずかに開いた。


だが、すぐに閉じる。


「だから、何ですか」


その返事に、俺は一瞬言葉を失った。


水野さんは笑った。


とても静かな笑いだった。


「それを聞いて、私が安心すればいいんですか」


「違う。そういう意味じゃ――」


「じゃあ、どういう意味ですか」


水野さんが一歩、俺から離れる。


「彼女じゃなかった。だから告白していい。そういう話ですか」


「違う」


「なら、彼女だったら告白してはいけなくて、彼女じゃなかったら告白していいんですか」


「だから、違うと言っている」


「私も、違うと思います」


水野さんは川のほうへ視線を向けた。


「もう、そこじゃないんです」


風が吹く。


川面が、夕方の光を細かく砕いていた。


「私が勝手に疑ったことが、なくなるわけじゃありません」


水野さんは言う。


「追いかけたことも。見たものだけで決めようとしたことも。朝倉くんに何も聞かなかったことも」


 その時。


 背後から足音がした。


 水野さんの視線が俺の後ろへ動く。


 朝倉航だ。


彼は少し離れた場所に立っていた。


息を切らし、制服の袖を握りしめている。


「水野」


 朝倉くんの声が、風に混じって届いた。


 水野さんの体が固まる。


「朝倉くん……」


「ごめん。探した」


朝倉くんは数歩近づく。


「どうして、ここが」


普段、図書室で静かに本を扱っている彼からは想像できないくらい、肩で息をしている。


すずもかなり限界らしく、階段の途中で手すりにもたれた。


「もう……私……本当に……記事を書く体力しか残ってない……」


「書くな」


俺と叶が同時に言った。


すずは荒い息のまま、親指を立てる。


「息ぴったり……相棒感、出てる……」


「みんなで探した」


 朝倉くんは水野さんの数歩手前で足を止めた。


 無理に近づかない。


 ただ、鞄を抱く指に力が入っている。


 水野さんも逃げなかった。


「水野」


「朝倉くん」


 朝倉くんは、いつもの図書室の声より少し低い声で言った。


「話してもいいか」


 水野さんはすぐには答えなかった。


 風が、川沿いの草を揺らす。


 彼女は小さく頷いた。


「……はい」


二人の間に、短い沈黙が落ちる。


川の音。


遠くの自転車のベル。


すずの小さな息切れ。


その全部が、妙に現実的だった。


朝倉くんは口を開いた。


「ごめん」


最初の言葉は、それだった。


水野さんは目を伏せる。


「謝るのは、私のほうです」


「いや、俺が先に言う」


朝倉くんは鞄の肩紐を握った。


「今日、話すつもりだった」


 朝倉くんは言った。


「図書委員のこと」


 水野さんは視線を落とす。


「……はい」


「俺、図書委員を辞めるかもしれない」


 言葉にした瞬間、水野さんの肩がわずかに揺れた。


 分かっていたはずのこと。


それでも、本人の口から聞くと違う。


 朝倉くんもそれを分かっているように、少しだけ言葉に詰まった。


「……知ってます」


「でも、理由をちゃんと言ってなかった」


朝倉くんは言葉を探すように、一度視線を川へ向けた。


「家のことが増えたんだ。親が忙しくて、家事を手伝うことも増えた。美緒の受験のこともある。参考書を選んだり、迎えに行ったり、放課後を前みたいに自由には使えなくなった」


「……そう、だったんですね」


朝倉くんはまた水野さんへ向き直る。


「言わなきゃいけなかった。でも、言えなかった」


「どうしてですか」


水野さんの声がかすれた。


朝倉くんは苦しそうに笑った。


その言葉に、水野さんの表情が大きく揺れた。


朝倉くんは続ける。


 風が吹いた。


 川面が揺れる。


「図書委員を辞めるって言ったら、水野はきっと、大丈夫ですって言うと思った。無理しないでくださいって言うと思った」


「……」


「でも、それで終わる気がした。放課後に本を選ぶ時間も、貸出カードを見て話す時間も、返却本を二人で片付ける時間も。全部、ちゃんと終わる気がした」


 水野さんは何も言わない。


 だが、目だけが大きく揺れていた。


 朝倉くんは苦く笑う。


「格好悪いだろ。言わなきゃいけないことを、終わらせたくなくて言わなかった」


 水野さんはゆっくり首を振った。


そして、小さく笑った。


泣きそうな笑顔ではなく、驚いたような笑顔だった。


「同じです」


「同じ?」


朝倉くんが顔を上げる。


「私も、聞いたら終わる気がしていました」


朝倉くんは目を見開いた。


水野さんは少しだけ視線を落とす。


「朝倉くんが図書委員を辞めるかもしれないって聞いて、図書室に来る日が減って、貸出カードの名前も途切れて」


「うん」


「わたし、怖くなりました」


「水野」


「それで、市立図書館まで、勝手に追いかけました」


朝倉くんは何か言おうとした。


水野さんは首を横に振った。


「ごめんなさい。先に謝らせてください」


朝倉くんは口を閉じた。


水野さんは続けた。


「市立図書館で」


 水野さんが言った。


「見ました。朝倉くんと、女の子が一緒にいるところを」


 朝倉くんが息を呑む。


「美緒は――」


「分かっています」


 水野さんは小さく首を振った。


「その人が、妹さんだって、今は分かりました。でも、そのときは分からなくて」


「……ああ」


 水野さんの声は震えている。


 それでも、逃げずに続けている。


「朝倉くんには、もう本を選ぶ相手がいるんだと思いました」


 朝倉くんは何か言おうとした。


 だが、水野さんは先に頭を下げた。


「勝手に追いかけました。ごめんなさい」


「水野」


「最初は、誰かに取られる前に言わなきゃって思っていました」


 片方は言えなかった。


 片方は聞けなかった。


 どちらも、終わりを言葉にするのが怖かった。


 同じ本を読んでいるつもりで、別々のページを押さえたまま、互いに声をかけられずにいた。


「でも、もしあの人が恋人なら、私が好きだと言うのは、誰かから朝倉くんを奪うことになるんじゃないかって思いました」


「……」


「それで、諦めようとしました。でも、違ったとしても、私は勝手に疑って、勝手に追いかけて、見えたものだけで決めようとしていました」


 水野さんは顔を上げた。


 泣きそうな顔だった。


 けれど、涙よりも先に言葉を選んでいる顔だった。


「私、朝倉くんを見ているつもりでした。でも、本当は、図書室にいる朝倉くんしか見ていませんでした」


 朝倉くんは黙って聞いている。


「本の話をしてくれる朝倉くん。貸出カードを見て笑ってくれる朝倉くん。返却本を一緒に片付けてくれる朝倉くん」


 水野さんは少しだけ笑った。


「その朝倉くんだけを、私は好きだと思っていたのかもしれません」


「水野」


「でも、図書室の外にも朝倉くんがいて。家のことがあって、美緒さんがいて、忙しくて、それでも本を探していて」


 朝倉は鞄から一冊の本を取り出した。


「あのさ」


「はい」


「これ、水野に渡そうと思ってた」


 水野さんの息が止まるのが分かった。


「私に?」


「うん。前に水野がすすめてくれた作家の本。学校の図書室にはなかったから、市立図書館と古本屋で探してた」


 朝倉くんは鞄の中から一冊の文庫本を取り出した。


 少し古い版。

 紙の色はわずかに黄ばんでいるが、表紙は丁寧に拭かれている。

 水野さんが以前、朝倉くんにすすめていた作家の本。


 学校の図書室には置いていなかった一冊。


 市立図書館で、美緒が朝倉くんの胸元へ押しつけていた本。

 古本屋で、朝倉くんが迷いながら探していた本。


 すべての手がかりが、ここで一冊の本になる。


「これ」


 朝倉くんは少し視線をそらした。


「あの時の本……」


「美緒が、こっちの版のほうが表紙がいいとか、文字が読みやすいとか、やたら口を出してきて」


「水野さん」


 俺は言った。


「全部が間違いだったわけじゃない」


 水野さんがこちらを見る。


「君が見た通り、朝倉には図書室の外の生活がある。家の用事もある。君が知らない顔もある。それは本当だ」


 水野さんは黙った。


「でも、君が決めつけていた部分もある」


「知らないから諦めるんじゃなくて」


 朝倉は言った。


「知らないまま好きって言い切るんでもなくて……少しずつ、知れたらいいなって思った」


「だから、今は……少しずつ知れたらいいなって思う」


 水野さんは、静かに見ていた。


「最後に、一冊、一緒に選んでほしいです」


 風が、二人の間を通った。


 水野さんはすぐには答えなかった。

 朝倉の言葉が軽いお願いではないと、分かっている顔だった。


「最後って、どういう意味ですか」


「図書委員としては、だよ」


「返事を急がせるつもりはない。そういう意味で渡したかったわけじゃない。ただ……次に話すきっかけが欲しかった」


「次に、ですか」


「水野と、その本の話をしたかった」


 水野さんはゆっくり手を伸ばし、本を受け取った。


 彼女の指先が、表紙をそっとなぞる。


 まるで、言葉を読む前に、本の温度を確かめるみたいだった。


「じゃあ」


 水野さんは言った。


「この本の次を、一緒に選びたいです」


 朝倉くんは目を見開いた。


「次?」


「はい」


「……最後じゃなくていいなら」


 水野さんが顔を上げる。


 朝倉くんは、少し照れたように視線を川へ逃がした。


「学校の図書室には、来られない日が増える。でも、市立図書館なら、たぶん行ける。美緒の参考書選びもあるし、返却もしなきゃいけないし」


 朝倉くんは咳払いをした。


「だから……」


「市立図書館」


「次の本、そこで選んでもいい?」


 水野さんはゆっくり頷いた。


「はい」


 朝倉は少し考え、それから付け足した。


「それで、今日」


「今日?」


「借りた本の返却期限が今日までなんだ。もし体調が本当に悪くないなら、今から一緒に返しに行かないか」


 水野さんはきょとんとした。

 その顔を見て、朝倉は慌てる。


「いや、無理ならいい。今日は休んだんだし、家に帰った方が」


「行きます」


 水野さんの返事は、思ったより早かった。


 朝倉が目を瞬く。


「いいのか」


「はい」


 水野さんは小さく笑った。


「最後の交代日は休んでしまいましたけど、最後の返却くらいは、一緒にしたいです」


 朝倉は何かを言いかけて、やめた。

 そして、短く言う。


「じゃあ、行こう」


その返事は、告白の返事ではなかった。


付き合う約束でもなかった。


でも、今の二人にはたぶん、それより必要な言葉だった。


「でも」


「ん?」


水野さんは本を抱え直した。


「美緒さんに、ちゃんと謝りたいです」


朝倉くんは少し驚いた顔をした。


それから、笑った。


「たぶん美緒は気にしてない」


「それでも」


「うん。じゃあ、今度会った時に」


二人は市立図書館へ向かって歩き出した。


 彼は手を差し出しかけた。

 でも途中で止めた。

 水野さんもそれに気づいたのか、少しだけ笑った。


「手は、まだ大丈夫です」


「まだって何だよ」


「本を持っていますから」


「理由が現実的だな」


「本を落としたら困ります」


「ああ、それは困る」


 二人は、並んで歩き出した。


 俺はその背中を見て、やっと息を吐いた。


「じゃあ」


その声は、昨日までのどの言葉よりも小さかった。


でも、たぶん一番強かった。


「お願いします」


その返事は、告白の返事ではなかった。


付き合う約束でもなかった。


でも、今の二人にはたぶん、それより必要な言葉だった。


隣で叶が小さく息を吐いた。


すずが横から顔を出す。


「じゃあ、記事タイトルは『図書委員、告白せずに大成功』かな」


「書くな」


叶が即答した。


「水野さん、嫌がると思う」


「知ってるよ」


「知ってるのに言ったのか」


「心の見出しだけ考えた」


「それもどうなんだ」


 すずは少しだけ笑う。


「『告白しなかった二人、最後じゃない一冊を選ぶ』」


俺は黙った。


 悔しいが、悪くない。


 そう思ってしまった。


「……未掲載にしておけ」


「もちろん」


 叶が目を細める。


「すず、すごく成長してる」


「なにその親戚みたいな言い方」


「偉い偉い」


「頭を撫でようとしないで。私は小学生じゃない」


「背は近いけど」


「叶、それは記事にするよ?」


「ごめんなさい」


 即座に謝る叶を見て、俺は少しだけ笑った。


 ようやく、いつもの空気が戻ってきた気がした。



      ◇



 市立図書館の閲覧席に、水野さんと朝倉くんが並んで座っている。


 距離は近すぎない。


 肩が触れ合うほどではない。

 恋人同士のように甘く見えるわけでもない。


 机の上には、二人で選んだ本が二冊置かれている。


 水野さんは朝倉くんから受け取った本を開き、最初のページをじっと見つめていた。


 朝倉くんは返却処理を終えたあと、少しだけ眠そうに欠伸を噛み殺している。


 美緒は少し離れた参考書コーナーで、英語の問題集を眺めながら唸っていた。


水野さんはその隣で、朝倉くんから受け取った本を大事そうに持っている。


距離は近い。


でも、寄りかかるほどではない。


二人は入口近くの検索端末で、次に読む本を探し始めた。


朝倉くんが画面を見て言う。


「この作家、シリーズ順がややこしいな」


水野さんが少し早口になる。


「それは刊行順と作中時系列が少し違うんです。最初に出た本から読むと伏線の回収が自然なんですけど、作中の時間順だと登場人物の変化が分かりやすくて」


朝倉くんは真面目に聞いていた。


「じゃあ、水野はどっちが好き?」


水野さんは一瞬、固まった。


それから小さく笑った。


「今は、刊行順です」


「理由は?」


「次に何を知るかを、一緒に迷えるから」


朝倉くんは少しだけ目を細めた。


「じゃあ、刊行順で」


水野が一冊を手に取る。


朝倉が首をかしげる。


水野が少し説明する。


朝倉が頷く。


今度は朝倉が別の本を抜き、水野に見せる。


水野は表紙を見て、少しだけ笑う。


机の上には、二人で選んだ本が二冊並んだ。


距離は、まだ少しぎこちない。


肩が触れるほど近いわけではない。


恋人同士の甘い空気でもない。


でも、それでいいのだろう。


今の二人に必要なのは、恋人という名前ではない。


次に話すための一冊。


次に会うための場所。


そして、相手を少しずつ知っていく時間だ。


「これで、本当に解決したんだよな」


 俺は閲覧席から少し離れた棚の陰で呟いた。


 叶が隣で頷く。


「うん。こっちはね」


「こっちは?」


「うん」


 叶は水野さんと朝倉くんを見て、柔らかく笑った。


「あっちは、これから始まるんだと思う」


叶が言った。


「大丈夫かどうかは、あの二人がこれから決めることだろ」


「うん。でも、今はそれでいいかも」


反論できなかった。


 すずが後ろから顔を出す。


「いいねえ。名言っぽい。記事にしたい」


「しないで」


「未掲載でも?」


「未掲載でも」


「じゃあ、心の中にだけ保存」


「それも少し嫌だな」


 俺はため息をついた。


「そろそろ行くぞ。これ以上見ていると、本当にただの不審者だ」


「今さら?」


叶がくすっと笑う。


「じゃあ、そろそろ行こうか」


「もういいのか?」


俺が聞くと、叶は頷いた。


「ここから先は、二人の時間」


「ようやく恋愛工作室らしいことを言ったな」


「いつも言ってるよ?」


「怪しい部屋の室長にしては、たまにまともなことを言う」


「たまに?」


叶がにこりと笑う。


目は笑っていない。


「律くん、今のはあとで反省会ね」


「反省会という名の説教か?」


「榎本」


「はいはい。撤収撤収」


 すずは軽く手を振って歩き出す。


 叶も俺の隣を歩きながら言った。


「じゃあ、恋愛工作室に戻ろっか」


「なぜだ」


「新しい依頼が来てるかもしれないでしょ?」


「来ていないことを祈る」


「でも、来てたら見るよね?」


「……見るだけだ」


「それ、もう何回目?」


「数えてない」


「私は数えてるよ」


「やめろ」


すずが後ろでにやにやしている。


「やっぱり記事タイトルは『恋愛工作室、最初の依頼を終える。そして相棒誕生へ』かな」


「だから記事にするな」


「未掲載でも?」


「だめだ」


「じゃあ心の中で」


「それもやめろ」


 叶は楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、俺はまたため息をつく。


 だが、足は止まらなかった。


 市立図書館を出ると、夕方の街に柔らかい光が落ちていた。


 振り返ると、窓の向こうに水野さんと朝倉くんの姿がまだ見える。


 二人は同じ本を覗き込み、何か短く言葉を交わしていた。


 恋人ではない。


 告白もしていない。


 でも、終わってもいない。


 それでいいのだと思った。


 少なくとも、今は。


旧校舎へ向かう道で、叶が隣に並んだ。


「律くん」


「何だ」


「これからもよろしくね」


その言い方が、妙に改まっていた。


俺は横目で叶を見る。


彼女はいつものように笑っている。


けれど、その笑顔には少しだけ、安心が混じっていた。


「相棒」


すずが後ろで口笛を吹く真似をする。


「おー」


「茶化すな」


「茶化してないよ。祝福」


「なお悪い」


叶は俺を見たまま、返事を待っている。


俺は空を見上げた。


旧校舎の方角に、夕暮れの色が残っている。


恋愛工作室。


相手の気持ちは操作しない。


嘘で恋を成立させない。


成功とは、付き合うことではなく、依頼者が後悔しない選択をすること。


きれいごとだと思っていた。


今でも、きれいごとだと思う。


ただし、きれいごとを現実にするために走り回る人間がいるなら、それは少しだけ信じてもいいのかもしれない。


「……よろしく」


俺は言った。


「相棒」


叶の目が、ぱっと明るくなった。


「うん!」


すずがすぐに言う。


「今の録音したかった!」


「するな!」


「してないってば!」


「本当だろうな」


「してないよ。たぶん」


「たぶんを外せ」


叶の笑い声が、夕方の通学路に響いた。


俺はため息をつきながらも、その音を嫌だとは思わなかった。


こうして、恋愛工作室の最初の依頼は終わった。


告白はなかった。


恋人にもならなかった。


けれど、水野栞と朝倉航は、最後の一冊ではなく、次の一冊を選ぶことにした。


恋愛工作室は、恋を叶える場所ではない。


好きという気持ちを、自分の言葉にする場所である。


その言葉の意味を、俺はこの日、ようやく少しだけ理解した。


そして旧校舎のポストは、今日もまた、次の誰かの言葉を待っている。


 そしてたぶん、俺も。


 その扉を開けることを、もう嫌だとは思っていなかった。

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