表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/26

「公爵夫人の初舞台」

婚姻から半月が経った頃、王宮から一通の招待状が届いた。


『冬の終わりの夜会、ローエンクラム公爵夫妻のご出席を賜りたく』


封蝋には、王家の銀の獅子。

それをカイが書斎のジルベストに届けたと、エルナはマリエッタから聞いた。


「奥様、お衣装の仕立てが必要でございます」


マリエッタは、申し訳なさそうに目を伏せて言った。


「公爵様が、王都一の仕立屋に、即日来るようにと指示されました」


「即日……」


「夜会まで、十日しかございませんから」


エルナは、自分の手元を見た。

公爵邸に来てから、彼女の指の爪は、少しだけ、健康な色を取り戻していた。

首の傷も、襟の上に薄く隠れる程度には、回復していた。


それでも、王宮の夜会という言葉は、彼女にとって、別世界の言葉だった。


──私は、夜会というものに、出たことがない。


物心ついてから、エルナは社交界の場に一度も連れて行かれていなかった。

妹のイリスが、エルナの名で出席していたからだった。


──だから、私の名は、社交界に「ある」。

──だが、私の顔は、社交界に「ない」。


仕立屋の男は、その日のうちに公爵邸に現れた。

痩せた中年の男で、銀縁の眼鏡をかけ、巻尺を首に下げ、布見本を山ほど抱えていた。

彼はエルナの前に立つと、深く礼をし、それから巻尺を取り出した。


「奥様、失礼いたします」


巻尺が、エルナの肩、胸、腰、腕の長さを、丁寧に測っていく。

仕立屋の手は、職人の手だった。エルナの体に触れることなく、布の上から距離を測る。

そのことが、彼女には、ありがたかった。


「公爵様からは、銀でお願いしたい、と」


「銀、ですか」


「ええ。お似合いになると、申されました」


エルナは、少し、驚いた。

ジルベストは、まだ、彼女と長い会話をしたことがなかった。

契約以来、毎日、朝の挨拶で「ご機嫌いかがですか」という形式の言葉を交わすだけだった。

そのジルベストが、彼女のドレスの色を、自分で選んでいた。


「銀は、私の髪と、似た色になりますね」


「ええ。それが、お似合いになります、と」


仕立屋は、布見本の中から、淡い銀の絹を選んで広げた。

冬の月のような、わずかに青みを帯びた銀。

窓の光に、それは静かに輝いた。


エルナは、その光を、しばらく見ていた。


──きれい、だと、思ってもいいのだろうか。


そう思うこと自体に、彼女はまだ慣れていなかった。

屋根裏では、きれいなものは、いつも誰かのものだった。自分のものではなかった。


「奥様、いかがでしょうか」


「……お任せ、いたします」


「かしこまりました。十日で、お仕立て申し上げます」


仕立屋は、深く礼をして退出した。

彼の足音が遠ざかると、マリエッタが、エルナの隣に小さく寄り添った。


「奥様、お似合いになりますわ。本当に」


「……ありがとう、マリエッタ」


「初めての夜会で、不安もおありでしょう。でも、公爵様が、隣にいらっしゃいます」


──公爵様が、隣に。


その言葉が、エルナの胸の奥に、わずかな波紋を立てた。


なぜなのか、彼女には、わからなかった。


---


夜会の前夜、エルナは、公爵邸の図書室で、社交界の手引書を読んでいた。


挨拶の作法、舞踏の手順、貴族の家系図、王家の主要メンバーの顔ぶれ。

六年間、屋根裏で過ごしてきたエルナにとって、すべてが知らない世界だった。


「奥様」


カイの声が、図書室の入口から聞こえた。

エルナは顔を上げた。


「公爵様が、明日のお打ち合わせを、と」


「はい。すぐに、参ります」


書斎に行くと、ジルベストは、机の前で何かの書類を眺めていた。

エルナが入ると、彼は書類を閉じ、机の脇に椅子を一つ、引いて勧めた。


「お疲れのところ、申し訳ない。明日のことを、少しだけ」


「いいえ。──むしろ、教えていただきたく」


ジルベストは、静かに頷いた。

それから、淡々と、夜会の段取りを伝えた。


「王宮の大広間で、王家の主だった方々への挨拶。

私の隣で、軽く頭を下げ、名乗っていただけれ十分です。

詳しい会話は、私が引き受けます」


「はい」


「もし、不快な相手に絡まれたときは、私の名を呼んでください。

すぐに、対応します」


「……はい」


「いくつかの貴族家から、貴女に対しては『噂のある令嬢』として、辛辣しんらつな視線が来るかもしれません。

ですが、それは私の方で、すべて受け止めます。

貴女が傷つく必要は、ありません」


エルナは、顔を上げた。


ジルベストの氷青の瞳は、机の上の燭台の灯を映して、いつもより少し、温かく見えた。


「……公爵様」


「はい」


「お一人で、すべてを、お引き受けに、ならなくても」


エルナは、自分の声に、少しだけ驚いた。

そんなふうに、誰かの仕事を分けてほしいと、自分が言うとは、思っていなかった。


ジルベストは、しばらく彼女を見ていた。

それから、わずかに、頭を下げた。


「……かしこまりました。

では、二人で、対応いたしましょう」


その夜、エルナは寝台に入る前、母の指輪を、燭台の灯にかざした。

水色の石は、いつもと同じ光を返した。

だが、エルナの心の方が、ほんの少し、いつもと違っていた。


明日、初めて、夜会というものに出る。


──公爵様が、隣に、いらっしゃる。


その事実だけが、寝台の闇の中で、不思議な温かさを持っていた。


---


翌晨、銀のドレスが、寝室に届いた。


マリエッタが、震える指でそれをエルナに着せた。

胸元の傷は、首筋の傷を完全に隠すように、絶妙な高さに仕立てられていた。

仕立屋に、ジルベストが、その点だけ、特別に指示していたらしい。


エルナは、鏡の前に立った。


そこにいたのは、屋根裏の令嬢ではなかった。

かといって、社交界の悪辣あくらつ令嬢でもなかった。


ただ、銀の髪を流した、痩せた、しかしまっすぐ立つ、ひとりの女性が、そこにいた。


「奥様」


マリエッタの声は、震えていた。


「お美しゅう、ございます」


エルナは、鏡の中の自分を見た。

褒められることに慣れていない彼女は、何と返すべきか、わからなかった。


「……ありがとう、マリエッタ」


それだけを、ようやく、口にした。


廊下で、足音がした。

ジルベストが、迎えに来ていた。


寝室の扉が開き、彼が入ってくる。

今宵の彼は、いつもの黒の上着ではなく、深い紺の夜会服だった。

銀の刺繍ししゅうが袖口にだけ走り、エルナのドレスの銀と、わずかに対をなしていた。


ジルベストは、エルナを見た。


そして、一瞬、立ち止まった。


彼の喉が、小さく、動いた。

唇が、薄く開きかけ、そのまま、閉じた。


「──馬車の用意が、できております」


「はい」


「腕を、お貸しいただけますか」


ジルベストは、革手袋越しの腕を、エルナに差し出した。


エルナは、ためらいなく、その腕に手を添えた。


革手袋の感触は、思っていたより、温かかった。

エルナは、そこに自分の指を置いた瞬間、なぜか胸の奥で、言葉にならない何かが、浅く震えるのを感じた。


それを、彼女は「強張り」と読み違えた。


──公爵様の手は、革越しでも、こんなに張り詰めているのだろうか。


そう思っただけだった。


馬車に乗り込むとき、雪は降っていなかった。

だが、夜空は、いつもよりひときわ、銀色に凍えていた。


王宮の方角の灯が、まだ遠い丘の向こうに、淡く揺れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ