「公爵夫人の初舞台」
婚姻から半月が経った頃、王宮から一通の招待状が届いた。
『冬の終わりの夜会、ローエンクラム公爵夫妻のご出席を賜りたく』
封蝋には、王家の銀の獅子。
それをカイが書斎のジルベストに届けたと、エルナはマリエッタから聞いた。
「奥様、お衣装の仕立てが必要でございます」
マリエッタは、申し訳なさそうに目を伏せて言った。
「公爵様が、王都一の仕立屋に、即日来るようにと指示されました」
「即日……」
「夜会まで、十日しかございませんから」
エルナは、自分の手元を見た。
公爵邸に来てから、彼女の指の爪は、少しだけ、健康な色を取り戻していた。
首の傷も、襟の上に薄く隠れる程度には、回復していた。
それでも、王宮の夜会という言葉は、彼女にとって、別世界の言葉だった。
──私は、夜会というものに、出たことがない。
物心ついてから、エルナは社交界の場に一度も連れて行かれていなかった。
妹のイリスが、エルナの名で出席していたからだった。
──だから、私の名は、社交界に「ある」。
──だが、私の顔は、社交界に「ない」。
仕立屋の男は、その日のうちに公爵邸に現れた。
痩せた中年の男で、銀縁の眼鏡をかけ、巻尺を首に下げ、布見本を山ほど抱えていた。
彼はエルナの前に立つと、深く礼をし、それから巻尺を取り出した。
「奥様、失礼いたします」
巻尺が、エルナの肩、胸、腰、腕の長さを、丁寧に測っていく。
仕立屋の手は、職人の手だった。エルナの体に触れることなく、布の上から距離を測る。
そのことが、彼女には、ありがたかった。
「公爵様からは、銀でお願いしたい、と」
「銀、ですか」
「ええ。お似合いになると、申されました」
エルナは、少し、驚いた。
ジルベストは、まだ、彼女と長い会話をしたことがなかった。
契約以来、毎日、朝の挨拶で「ご機嫌いかがですか」という形式の言葉を交わすだけだった。
そのジルベストが、彼女のドレスの色を、自分で選んでいた。
「銀は、私の髪と、似た色になりますね」
「ええ。それが、お似合いになります、と」
仕立屋は、布見本の中から、淡い銀の絹を選んで広げた。
冬の月のような、わずかに青みを帯びた銀。
窓の光に、それは静かに輝いた。
エルナは、その光を、しばらく見ていた。
──きれい、だと、思ってもいいのだろうか。
そう思うこと自体に、彼女はまだ慣れていなかった。
屋根裏では、きれいなものは、いつも誰かのものだった。自分のものではなかった。
「奥様、いかがでしょうか」
「……お任せ、いたします」
「かしこまりました。十日で、お仕立て申し上げます」
仕立屋は、深く礼をして退出した。
彼の足音が遠ざかると、マリエッタが、エルナの隣に小さく寄り添った。
「奥様、お似合いになりますわ。本当に」
「……ありがとう、マリエッタ」
「初めての夜会で、不安もおありでしょう。でも、公爵様が、隣にいらっしゃいます」
──公爵様が、隣に。
その言葉が、エルナの胸の奥に、わずかな波紋を立てた。
なぜなのか、彼女には、わからなかった。
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夜会の前夜、エルナは、公爵邸の図書室で、社交界の手引書を読んでいた。
挨拶の作法、舞踏の手順、貴族の家系図、王家の主要メンバーの顔ぶれ。
六年間、屋根裏で過ごしてきたエルナにとって、すべてが知らない世界だった。
「奥様」
カイの声が、図書室の入口から聞こえた。
エルナは顔を上げた。
「公爵様が、明日のお打ち合わせを、と」
「はい。すぐに、参ります」
書斎に行くと、ジルベストは、机の前で何かの書類を眺めていた。
エルナが入ると、彼は書類を閉じ、机の脇に椅子を一つ、引いて勧めた。
「お疲れのところ、申し訳ない。明日のことを、少しだけ」
「いいえ。──むしろ、教えていただきたく」
ジルベストは、静かに頷いた。
それから、淡々と、夜会の段取りを伝えた。
「王宮の大広間で、王家の主だった方々への挨拶。
私の隣で、軽く頭を下げ、名乗っていただけれ十分です。
詳しい会話は、私が引き受けます」
「はい」
「もし、不快な相手に絡まれたときは、私の名を呼んでください。
すぐに、対応します」
「……はい」
「いくつかの貴族家から、貴女に対しては『噂のある令嬢』として、辛辣な視線が来るかもしれません。
ですが、それは私の方で、すべて受け止めます。
貴女が傷つく必要は、ありません」
エルナは、顔を上げた。
ジルベストの氷青の瞳は、机の上の燭台の灯を映して、いつもより少し、温かく見えた。
「……公爵様」
「はい」
「お一人で、すべてを、お引き受けに、ならなくても」
エルナは、自分の声に、少しだけ驚いた。
そんなふうに、誰かの仕事を分けてほしいと、自分が言うとは、思っていなかった。
ジルベストは、しばらく彼女を見ていた。
それから、わずかに、頭を下げた。
「……かしこまりました。
では、二人で、対応いたしましょう」
その夜、エルナは寝台に入る前、母の指輪を、燭台の灯にかざした。
水色の石は、いつもと同じ光を返した。
だが、エルナの心の方が、ほんの少し、いつもと違っていた。
明日、初めて、夜会というものに出る。
──公爵様が、隣に、いらっしゃる。
その事実だけが、寝台の闇の中で、不思議な温かさを持っていた。
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翌晨、銀のドレスが、寝室に届いた。
マリエッタが、震える指でそれをエルナに着せた。
胸元の傷は、首筋の傷を完全に隠すように、絶妙な高さに仕立てられていた。
仕立屋に、ジルベストが、その点だけ、特別に指示していたらしい。
エルナは、鏡の前に立った。
そこにいたのは、屋根裏の令嬢ではなかった。
かといって、社交界の悪辣令嬢でもなかった。
ただ、銀の髪を流した、痩せた、しかしまっすぐ立つ、ひとりの女性が、そこにいた。
「奥様」
マリエッタの声は、震えていた。
「お美しゅう、ございます」
エルナは、鏡の中の自分を見た。
褒められることに慣れていない彼女は、何と返すべきか、わからなかった。
「……ありがとう、マリエッタ」
それだけを、ようやく、口にした。
廊下で、足音がした。
ジルベストが、迎えに来ていた。
寝室の扉が開き、彼が入ってくる。
今宵の彼は、いつもの黒の上着ではなく、深い紺の夜会服だった。
銀の刺繍が袖口にだけ走り、エルナのドレスの銀と、わずかに対をなしていた。
ジルベストは、エルナを見た。
そして、一瞬、立ち止まった。
彼の喉が、小さく、動いた。
唇が、薄く開きかけ、そのまま、閉じた。
「──馬車の用意が、できております」
「はい」
「腕を、お貸しいただけますか」
ジルベストは、革手袋越しの腕を、エルナに差し出した。
エルナは、ためらいなく、その腕に手を添えた。
革手袋の感触は、思っていたより、温かかった。
エルナは、そこに自分の指を置いた瞬間、なぜか胸の奥で、言葉にならない何かが、浅く震えるのを感じた。
それを、彼女は「強張り」と読み違えた。
──公爵様の手は、革越しでも、こんなに張り詰めているのだろうか。
そう思っただけだった。
馬車に乗り込むとき、雪は降っていなかった。
だが、夜空は、いつもよりひときわ、銀色に凍えていた。
王宮の方角の灯が、まだ遠い丘の向こうに、淡く揺れていた。




