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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「友人クラウスの仮説」

挿絵(By みてみん)


---


その日の午後、宮廷魔導院から、ひとりの男が公爵邸を訪れた。


クラウス・ヘルガード。

三十二歳。長身痩躯、銀縁の眼鏡、いつも着古した灰色のローブを羽織っている。

鑑定の儀の魔導具開発を担う研究者で、ジルベストの数少ない学生時代からの友人だった。


「呼びつけてすまない、クラウス」


応接間で出迎えたジルベストの声は、いつもより一段、低かった。


「いや、構わない。

むしろ、お前の方から呼ぶなんて、何年ぶりかと驚いたよ」


クラウスは皮肉でも嫌味でもなく、ただ事実として言った。

彼はジルベストの【魅惑】が効かない数少ない男のひとりだった。

正確には、効くには効いているが、長年の研究で「自身の魔力経路を塞ぐ符」を肌に貼って暮らしている。

ジルベストとはそうやって付き合ってきた。


「今日は、奥方を紹介するつもりはないんだろう」


「ある。だが、まず、お前と話したい」


「ほう。──それは、面白い順序だな」


クラウスは応接間の椅子に腰を下ろし、ローブの袖から小さなノートを取り出した。

彼は、何かを話すときに、必ず手元に書くものを置く癖がある。


ジルベストは、机の上に古い文献を一冊、置いた。

書架の最奥から、今朝、自ら取り出してきたものだった。

表紙には、銀の箔押しで、こう書かれている。


『鑑定の儀におけるスキル不発現症例集』


クラウスは、表紙を一瞥して、軽く眉を上げた。


「お前、こんなものまで持っていたのか」


「魔導院の蔵書から、五年前に複写を一冊、頼んでおいた」


「ふむ。──で、何を聞きたい」


ジルベストは、少し沈黙してから、口を開いた。


「鑑定の儀で『無反応』と判じられた者は、本当に、F級なのか」


クラウスは、ノートのページをめくる手を止めた。

眼鏡の奥の灰色の瞳が、ジルベストを見た。


「……それは、奥方の話か」


「答えてくれ」


クラウスは、ジルベストの問いには答えず、しばらく文献を眺めた。

それから、低く言った。


「教会は、そう公称している。だが、研究者の中では、別の見解がある」


「別の見解とは」


ジルベストは、椅子の肘掛けに、わずかに身を乗り出した。


「鑑定盤というのは、被験者の魔力経路を読み取って、流れている『色』をスキル名と照合する装置だ。

だが、これには前提がある。──被験者が、魔力経路を持っていることだ」


「それを持たない者がいる、と」


「正確には、持っていても、鑑定盤の魔力すら通さない、という体質の者だ」


クラウスは、ノートに何かを書き始めた。

線の図を引き、その横に魔法陣のような小さな記号を添えた。

ジルベストは、その手元を、瞬きも惜しむように見ていた。


「魔力というのは、外から流し込めば、人間の経路を通る。

鑑定盤も、そうやって、外から軽い魔力を流し込み、被験者の経路を経由させて、戻ってくる『色』を読む。

だが、ごく稀に──通らない、人間がいる」


「通らない、というのは」


喉が、少し渇いていた。ジルベストは、それに気づかないふりをした。


「拒絶ではない。素通り、だ」


クラウスは、ノートの線の上に、矢印を描いた。

矢印は、人体の図の中を貫通していた。


「魔力は、その人間の中に入らない。

肌をすり抜け、骨をすり抜け、血をすり抜け、反対側に抜けていく。

つまり、その人間にとって、外部から放たれた魔力は、存在しないも同然になる」


ジルベストは、息を詰めて聞いていた。

心臓の音が、やけに大きく耳の奥で鳴っていた。


「鑑定盤がそういう人間を測ると、何も読めない。

当然、スキル名も読み取れない。

だから、教会は便宜上、それを『F級・スキルなし』と判定する。

無反応=無能、という公式記録になる」


「──それは、無能ではないのか」


声が、思ったより掠れた。


「無能じゃない。むしろ、その逆だ」


クラウスは、ノートをもう一度めくり、最後のページに、太い字で書きつけた。


『魔力無干渉』


「伝承では、こう呼ばれている。

歴代の記録で、確認されているのは、ほんの数名だけだ。

最後の事例は、二百年前、初代王妃の侍女のひとりが、それだったと伝わっている。

その侍女は、王妃を狙う暗殺魔法を、すべて素通りさせて、結果的に王妃の命を救った」


ジルベストは、ゆっくりと、革手袋の指を、机の縁に置いた。


「歴代でも、数名」


「ああ。歴代千年で、五人か、六人。教会は、これを『SSS級』として、極秘扱いにしている。

表向きには、『そんな体質は存在しない』ということになっている」


「……なぜ、極秘なのだ」


クラウスは、初めて、低く笑った。声に、皮肉が滲んでいた。


「考えてもみろ、ジルベスト。

鑑定盤の『無反応』が『無能』ではなく『SSS級』だと公開されたら、教会の鑑定の儀は、根本から信用を失う。

彼らは、何百年も、何人もの『無干渉持ち』を、F級として握りつぶしてきたかもしれない。

それが明るみに出れば、教会は終わる」


ジルベストは、長く息を吐いた。


「クラウス」


「ああ」


「もし、私の屋敷に、その『無干渉』の人間がいるとしたら」


「彼女、なんだろう、奥方は」


ジルベストは、答えなかった。

だが、答えは、すでに沈黙の中にあった。


「いくつか、確かめさせてほしい。

直接、彼女を測るのではなく、間接的にだ。──彼女の周囲の人間の、変化を、聞かせてくれ」


「魅惑から覚めている、と、執事から報告がある」


「彼女と直接話した使用人から、順番に、か」


「ああ」


「典型的だな」


クラウスは、ノートに新しく一行を書き加えた。


『魔力無干渉=魔力に基づくあらゆる効果を素通りさせる

結果、近接する人間が魔力的影響から解放される現象あり』


ペン先が止まった。

クラウスはノートから顔を上げ、ジルベストを見た。


「ジルベスト。

お前の【魅惑】も、彼女に対しては、効かないな?」


ジルベストは、頷いた。


クラウスは、しばらく沈黙した。

それから、眼鏡の縁を指で押し上げて、低く言った。


「……お前、ようやく見つけたんだな」


ジルベストは、それには答えなかった。

ただ、椅子の背に、深く体を預けた。


「クラウス、ひとつ、頼みがある」


「ああ」


「彼女には、まだ、伝えないでくれ」


「──なぜ」


「彼女は、十八歳まで、自分が無能だと教えられて生きてきた。

家族からは虐待され、社交界では妹に名を奪われ、噂を被ってきた」


ジルベストは、視線を窓に向けた。

庭の遠く、雪の上を、何かの鳥が一羽、横切っていた。


「自分が伝説級のスキル持ちだと、急に知らされたら、彼女は、また、何かを期待されることになる。

教会も、彼女を狙うかもしれない。

彼女が、自分自身を取り戻すまでの時間を、私は、確保したいんだ」


クラウスは、ジルベストの横顔を、しばらく見ていた。

それから、ノートを閉じた。


「……お前、変わったな」


「そうか」


「いや。──変わったというより、戻ったのかもしれない」


クラウスは小さく笑い、立ち上がった。


「分かった。私からは、伝えない。

だが、お前から伝える日を、できるだけ、早くしておけよ。

真実は、隠している間にも、走り出す」


「……ああ」


応接間を出るとき、クラウスは廊下の途中で、一度だけ立ち止まった。

東棟の方角に、淡い銀のドレスの後ろ姿が、ほんの一瞬、見えていた。

庭に出ようとしているらしい、エルナの姿だった。


クラウスは、その後ろ姿を、長く、見つめた。

それから、何も言わずに、玄関の方へと去った。


書斎にひとり残ったジルベストは、文献の表紙を、ゆっくりと閉じた。

銀の箔押しの『不発現症例集』の文字が、燭台の灯にかすかに光った。


──まだ、伝えない。

──だが、いつかは、伝える。


それまで、彼は、彼女の隣に、居続けるつもりだった。


革手袋を外さずに、ではあったが。


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