表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/26

「正気に戻る人々」

三日目の朝、マリエッタ・ヴェルナーは、奇妙なことに気づいた。


公爵邸の朝は、彼女にとって、いつも同じ手順で始まる。

五時に起き、台所で湯を沸かし、奥様の朝食の支度を整える。

それから、東棟の二階に上がり、奥様の身支度を手伝う。


そこまでは、いつもと同じだった。


問題は、その後のことだった。


奥様の朝食を運び終え、マリエッタが廊下に出たとき、東棟の階段の上から、公爵様の足音が聞こえた。

重い、革靴の音。

ローエンクラム公爵が、朝の散策に向かう、いつもの足音。


マリエッタは、立ち止まった。


普段なら、足音を聞いた瞬間、彼女の胸の奥に、奇妙な疼きが走る。

公爵様が、自分の近くを通る。

それだけで、頬が熱くなり、視界がぼうっと霞み、息が浅くなる。

何年も、毎朝、そうだった。

それを、彼女は「公爵様の威厳」だと思い込んできた。


だが、今朝は、何も起きなかった。


足音は、いつも通り、近づいてきた。

公爵様が、廊下の奥に姿を現した。

黒の上着、革手袋、抑えた表情。

すれ違うとき、マリエッタは深く礼をした。

公爵様は、低く「ご苦労」と一言だけ告げ、廊下の先に消えた。


マリエッタは、礼の姿勢のまま、しばらく動けなかった。


──何も、感じなかった。


胸は、平静だった。

頬も、熱くなかった。

公爵様の声は、ただ、上司の声だった。


それは、彼女がこの屋敷に勤めて八年、初めての朝だった。


廊下の絨毯に視線を落としたまま、マリエッタは、ゆっくりと、考え始めた。


──私は、いつから、公爵様を、慕っていたのだろう。


最初は、確かに、敬意だった。

凜とした主人。物静かで、誠実で、使用人にも丁寧な公爵様。

それが、いつから「敬意」を超えたのか、思い出せなかった。


そして、思い出そうとしたときに、初めて気づいた。


──私は、公爵様が「言葉を発するたびに」、慕っていた。


声を聞くたびに、頬が熱くなった。

視線が合うたびに、体が固くなった。

公爵様が屋敷の中で歩く方向を、自分は廊下の隅から無意識に追っていた。

それが、毎日、毎週、毎年、続いていた。


そして、今朝、突然、それが、止んだ。


マリエッタの目に、急に、涙が込み上げた。

理由は、わからなかった。


廊下で、彼女はしゃがみ込んだ。

礼の姿勢のまま膝を折り、片手で口を覆って、声を殺して泣いた。


涙が止まらなかった。

何が悲しいのか、自分でも、はっきりしなかった。

ただ、長い間、自分のものではなかった何かが、急に体から抜けて、体が軽すぎて、涙が溢れた。


「マリエッタ?」


奥様の声が、後ろから聞こえた。


エルナが、東棟の自室の扉を開けて、廊下に出てきていた。

朝食を済ませて、外の様子を見ようとしたところだったらしい。


マリエッタは、慌てて立ち上がろうとした。

エルナがそれを止め、彼女の脇に膝をついた。


「どこか、痛むのですか」


「……いえ、奥様……」


「それなら、しばらく、ここに座っていなさい。誰にも、咎められません」


エルナは、マリエッタの背に手を添えた。

痩せた手は、思ったよりも温かかった。


マリエッタは、しばらく泣いた。

エルナは、何も問わずに、ただ背を撫でていた。


落ち着いてから、マリエッタは小さな声で言った。


「奥様、私……」


「はい」


「私、今までずっと、公爵様のことを……」


エルナは、わずかに、頷いた。

その先は、聞かずとも分かるような頷きだった。


「でも、今朝、急に、何も感じなくなって」


マリエッタは、震える指で、自分の胸を押さえた。


「八年です。私は、八年間、ずっと、公爵様を……

それが、奥様がいらしてから、三日で、消えました」


エルナは、しばらく黙っていた。

それから、マリエッタの背に添えていた手に、少しだけ、力を込めた。


「……奥様」


「思い出せたなら」

エルナは、そこで一度、言葉を切った。

「それは、悪いことでは、ないと思います」


マリエッタは、頷いた。

頷いてから、また少しだけ、泣いた。


エルナは、彼女がもう一度立ち上がれるまで、廊下の絨毯の上に、共にしゃがんでいた。


---


廊下の一本奥の柱の影で、執事カイは、それを聞いていた。


カイは、二人が立ち上がって去ったあと、長く廊下に立ち尽くした。

それから、書斎へと向かった。


ノックをし、入室を許され、机の前に立った。


「公爵様」


「カイ。何だ」


「侍女のマリエッタが、今朝、御身への魅惑みわくから覚めました」


ジルベストは、書類から、ゆっくりと顔を上げた。


「……そうか」


「奥様のかたわらにいた者から、順に、覚めていっております」


ジルベストは、机の上で、革手袋の指を組んだ。

組んだ指が、しばらく動かなかった。


「カイ」


「はい」


「他には、誰が」


「庭師のテオ、馬丁のロルフ、台所のグレタ。

昨日までと、明らかに違います」


「全員、奥様と直接、言葉を交わした者か」


「はい。例外なく」


ジルベストは、長く息を吐いた。


それは、安堵あんどの息だったかもしれない。

あるいは、別の何かの息だったかもしれない。

カイには、判別がつかなかった。


「奥様には、まだ、伝えるな」


「かしこまりました」


「彼女自身が、最も、混乱する。今は、ゆっくり、慣れていただきたい」


「はい」


カイは、深く礼をして、書斎を退出した。


書斎に一人残ったジルベストは、机の上の書類から目を上げ、窓の方を見た。


雪は、もう降っていなかった。

東棟の方角の空が、ほんのわずかに、明るくなっていた。


彼女は、本物だ。


魅惑みわくが効かない、というだけではなかった。

彼女が屋敷を歩くだけで、八年間誰にも解けなかった魅惑みわくが、解けていく。

単なる「無効」ではない。彼女の存在そのものが、屋敷の歪み《ひずみ》を、一日ずつ、まっすぐに戻していた。


契約は、形式上、成立していていた。

冷たく扱う計画は、もう、跡形もなかった。最初の計画と、今、机の前に座っている自分との間に、深い溝が、ひとつ、刻まれ始めていた。


書斎の机の上で、契約書のふたつの署名は、変わらず並んでいた。


エルナの字は、震えていなかった。

ジルベストの字は、わずかに、震えていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ