「正気に戻る人々」
三日目の朝、マリエッタ・ヴェルナーは、奇妙なことに気づいた。
公爵邸の朝は、彼女にとって、いつも同じ手順で始まる。
五時に起き、台所で湯を沸かし、奥様の朝食の支度を整える。
それから、東棟の二階に上がり、奥様の身支度を手伝う。
そこまでは、いつもと同じだった。
問題は、その後のことだった。
奥様の朝食を運び終え、マリエッタが廊下に出たとき、東棟の階段の上から、公爵様の足音が聞こえた。
重い、革靴の音。
ローエンクラム公爵が、朝の散策に向かう、いつもの足音。
マリエッタは、立ち止まった。
普段なら、足音を聞いた瞬間、彼女の胸の奥に、奇妙な疼きが走る。
公爵様が、自分の近くを通る。
それだけで、頬が熱くなり、視界がぼうっと霞み、息が浅くなる。
何年も、毎朝、そうだった。
それを、彼女は「公爵様の威厳」だと思い込んできた。
だが、今朝は、何も起きなかった。
足音は、いつも通り、近づいてきた。
公爵様が、廊下の奥に姿を現した。
黒の上着、革手袋、抑えた表情。
すれ違うとき、マリエッタは深く礼をした。
公爵様は、低く「ご苦労」と一言だけ告げ、廊下の先に消えた。
マリエッタは、礼の姿勢のまま、しばらく動けなかった。
──何も、感じなかった。
胸は、平静だった。
頬も、熱くなかった。
公爵様の声は、ただ、上司の声だった。
それは、彼女がこの屋敷に勤めて八年、初めての朝だった。
廊下の絨毯に視線を落としたまま、マリエッタは、ゆっくりと、考え始めた。
──私は、いつから、公爵様を、慕っていたのだろう。
最初は、確かに、敬意だった。
凜とした主人。物静かで、誠実で、使用人にも丁寧な公爵様。
それが、いつから「敬意」を超えたのか、思い出せなかった。
そして、思い出そうとしたときに、初めて気づいた。
──私は、公爵様が「言葉を発するたびに」、慕っていた。
声を聞くたびに、頬が熱くなった。
視線が合うたびに、体が固くなった。
公爵様が屋敷の中で歩く方向を、自分は廊下の隅から無意識に追っていた。
それが、毎日、毎週、毎年、続いていた。
そして、今朝、突然、それが、止んだ。
マリエッタの目に、急に、涙が込み上げた。
理由は、わからなかった。
廊下で、彼女はしゃがみ込んだ。
礼の姿勢のまま膝を折り、片手で口を覆って、声を殺して泣いた。
涙が止まらなかった。
何が悲しいのか、自分でも、はっきりしなかった。
ただ、長い間、自分のものではなかった何かが、急に体から抜けて、体が軽すぎて、涙が溢れた。
「マリエッタ?」
奥様の声が、後ろから聞こえた。
エルナが、東棟の自室の扉を開けて、廊下に出てきていた。
朝食を済ませて、外の様子を見ようとしたところだったらしい。
マリエッタは、慌てて立ち上がろうとした。
エルナがそれを止め、彼女の脇に膝をついた。
「どこか、痛むのですか」
「……いえ、奥様……」
「それなら、しばらく、ここに座っていなさい。誰にも、咎められません」
エルナは、マリエッタの背に手を添えた。
痩せた手は、思ったよりも温かかった。
マリエッタは、しばらく泣いた。
エルナは、何も問わずに、ただ背を撫でていた。
落ち着いてから、マリエッタは小さな声で言った。
「奥様、私……」
「はい」
「私、今までずっと、公爵様のことを……」
エルナは、わずかに、頷いた。
その先は、聞かずとも分かるような頷きだった。
「でも、今朝、急に、何も感じなくなって」
マリエッタは、震える指で、自分の胸を押さえた。
「八年です。私は、八年間、ずっと、公爵様を……
それが、奥様がいらしてから、三日で、消えました」
エルナは、しばらく黙っていた。
それから、マリエッタの背に添えていた手に、少しだけ、力を込めた。
「……奥様」
「思い出せたなら」
エルナは、そこで一度、言葉を切った。
「それは、悪いことでは、ないと思います」
マリエッタは、頷いた。
頷いてから、また少しだけ、泣いた。
エルナは、彼女がもう一度立ち上がれるまで、廊下の絨毯の上に、共にしゃがんでいた。
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廊下の一本奥の柱の影で、執事カイは、それを聞いていた。
カイは、二人が立ち上がって去ったあと、長く廊下に立ち尽くした。
それから、書斎へと向かった。
ノックをし、入室を許され、机の前に立った。
「公爵様」
「カイ。何だ」
「侍女のマリエッタが、今朝、御身への魅惑から覚めました」
ジルベストは、書類から、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうか」
「奥様の傍にいた者から、順に、覚めていっております」
ジルベストは、机の上で、革手袋の指を組んだ。
組んだ指が、しばらく動かなかった。
「カイ」
「はい」
「他には、誰が」
「庭師のテオ、馬丁のロルフ、台所のグレタ。
昨日までと、明らかに違います」
「全員、奥様と直接、言葉を交わした者か」
「はい。例外なく」
ジルベストは、長く息を吐いた。
それは、安堵の息だったかもしれない。
あるいは、別の何かの息だったかもしれない。
カイには、判別がつかなかった。
「奥様には、まだ、伝えるな」
「かしこまりました」
「彼女自身が、最も、混乱する。今は、ゆっくり、慣れていただきたい」
「はい」
カイは、深く礼をして、書斎を退出した。
書斎に一人残ったジルベストは、机の上の書類から目を上げ、窓の方を見た。
雪は、もう降っていなかった。
東棟の方角の空が、ほんのわずかに、明るくなっていた。
彼女は、本物だ。
魅惑が効かない、というだけではなかった。
彼女が屋敷を歩くだけで、八年間誰にも解けなかった魅惑が、解けていく。
単なる「無効」ではない。彼女の存在そのものが、屋敷の歪み《ひずみ》を、一日ずつ、まっすぐに戻していた。
契約は、形式上、成立していていた。
冷たく扱う計画は、もう、跡形もなかった。最初の計画と、今、机の前に座っている自分との間に、深い溝が、ひとつ、刻まれ始めていた。
書斎の机の上で、契約書のふたつの署名は、変わらず並んでいた。
エルナの字は、震えていなかった。
ジルベストの字は、わずかに、震えていた。




