「公爵邸の生活」
ローエンクラム公爵邸での三日間は、奇妙な静寂のうちに過ぎた。
エルナに与えられた部屋は、東棟の二階の、庭を見下ろす一室だった。
天井は屋根裏の三倍の高さがあり、壁には淡い青の織物が張られていた。
寝台は天蓋つき、机にも椅子にも、誰かが先に試したような艶があった。
家具は、新しいわけではない。それでも、隅々まで、念入りに磨かれている。
気づいた瞬間、喉の奥が、小さく詰まった。
誰かが、「彼女が来る」と分かってから、丁寧に手入れをしたのが見て取れた。
それが誰の指示によるものか、彼女はまだ知らなかった。
侍女のマリエッタは二十代後半の落ち着いた女で、エルナの世話を任されていた。
「奥様、お湯加減はいかがでしょうか」
朝の湯浴みのとき、マリエッタはそう問うた。
湯は熱すぎず、ぬるすぎず、淡い薔薇水の香りがした。
エルナは「ちょうど、よろしいです」とだけ答えた。
それで、マリエッタは小さく頷いた。
だが、彼女の指は、絞った布を絞り直すとき、わずかに震えていた。
エルナは、そのとき、初めて気づいた──マリエッタは、まだ、私を「奥様」と呼ぶことに慣れていない。
慣れてもらうまで、待てばいい。
エルナは口に出さず、湯から手を上げた。
夕食は、別棟の小さな食堂で取った。
公爵は、現れなかった。
「公爵様は、お忙しいのです」
カイがそう告げた。
エルナはわずかに頷いた。
そういう契約だ、と理解していた。
夕食は、白身の魚と、温めた野菜と、薄いワイン。
屋根裏で食べていたパンの硬さに比べたら、夢のような柔らかさだった。
だがエルナは、半分以上を残した。
胃が、急に多くを受け付けないことを、自分でも知っていた。
「奥様、お口に合いませんでしたか」
「いいえ。とても、美味しいです」
「では、なぜ……」
「胃が、まだ、慣れていないのです」
マリエッタは、それを聞いて目を伏せた。
何かを察したような顔だった。
だが、何も問わなかった。
公爵邸の使用人たちには、ひとつ共通点があった。
エルナは、それに二日目の昼、気づいた。
廊下ですれ違う若い使用人は、道を譲る一瞬だけ、視線を書斎の方角へ逃がした。
階段を磨く女中も、手を止めては、同じ方角を振り返った。
そこには、誰もいないのに。
──皆、同じ方を見ている。
公爵邸の使用人は、主人を恐れてはいない。それでも、恐れに似た何かを、誰もが飼っていた。
エルナには、覚えのある光景だった。
父も、出入りの商人も、教師さえも、笑顔のまま、妹イリスの方へ、ゆっくりと流されていった。
物心ついた頃から見てきた、【魅了】の形。
公爵の【スキル】も、同じなのだろうか。
そう思った瞬間、胸の奥に、細い冷たさが一本、走った。
それなら、私も、いずれ。
不思議と、動揺はなかった。
知っている形の地獄が、また来るだけのことだ。屋根裏より深いかどうかは、分からない。
それでも、あそこより深い場所は、もうないと、エルナは決めていた。
その夜、机の前で、母の指輪を灯にかざした。
水色の石は、屋根裏でも、ここでも、同じ光を返した。
それだけが、まだ、彼女自身のものだった。
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二日目の夜、廊下で執事のカイとすれ違った。
彼は深く礼をして、エルナの足を止めた。
「奥様、お困りのことはございませんか」
「いいえ。よくしていただいています」
「マリエッタは、いかがでしょう。気の利かないところがあれば、お申し付けください」
「とても、丁寧に、してくれています」
カイは少し沈黙した。
それから、低く付け加えた。
「ご無理は、なさらないでください。
公爵様は、奥様に、慣れていただく時間が必要だと、お考えです」
「……はい」
「公爵様ご自身も、慣れる時間が、必要なのです」
その一言の意味を、エルナはすぐにはつかみかねた。
カイは、それ以上を言わずに、廊下の奥に去った。
部屋に戻り、寝台に腰掛けたとき、その言葉だけが、耳の奥に残っていた。
公爵様ご自身も、慣れる時間が必要。
選び抜かれた言葉だった。余計なものを含まず、それでいて、何かを匂わせていた。
公爵は、誰かが屋敷に来ることに、慣れていない──そう聞こえた。
エルナは、燭台の灯を吹き消した。
横になると、肩の傷の痛みは、もうずいぶん薄くなっていた。公爵邸に来てから、痛みは毎日、少しずつ引いていた。
天井の闇を見上げる。
主人は人を寄せつけず、執事は見えない線の内側を歩き、侍女は震える指で湯を絞る。
誰もが、誰かに引きずられているようでいて、その誰かは、姿を見せない。
エルナ自身は、まだ、その力に引かれていなかった。
雪は、夜の間に、また少し降った。
窓の外で、薄い氷の膜が、月明かりを返していた。




