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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「契約書」

書斎は、深い緑の絨毯じゅうたんと、暗い色の書架で囲まれていた。


天井から下がる小さなシャンデリアは、この時間でも灯されている。

窓には厚い紺のカーテンがかかり、外の雪明かりはまったく入ってこない。

そのせいか、書斎全体が夜のように静かだった。


エルナはカイに案内され、革張りの椅子に腰を下ろした。

椅子は彼女の体には少し大きく、座ったとき、足が床にわずかに浮いた。

彼女はすぐに足を引き寄せ、つま先を絨毯に着けた。

癖だった。誰かに見られたとき、不格好な姿勢でいないように、と。


カイが温かい茶を差し出した。


「公爵様は、すぐに参られます」


「ありがとうございます」


カイは礼をし、扉のそばに静かに退いた。

彼の所作は、訓練された執事のものだったが、ひとつだけ普通と違っていた。

どんなときも、主の方角に必要以上の歩を進めない。

まるで、見えない線を踏まない人のように。


エルナはそれを、漠然と感じていた。

だが、なぜそうしているかは、まだ知らなかった。


茶を一口含むと、舌に温かさが広がった。

香りが立った。屋根裏で飲んでいた、薄い薬草の煮汁とはまったく違う。

彼女は思わず、もう一口飲んだ。


そのときに気づいた。

最後に、本当に温かい飲み物を口にしたのは、いつだっただろう。


──思い出せなかった。


扉が開く音がした。


ジルベストが入ってきた。

さきほどよりも一段、足音が抑えられていた。

カイが扉を閉め、外に下がる気配がする。書斎には、二人だけが残った。


ジルベストは、エルナの正面の椅子には座らず、机を挟んだ向こう側の椅子に腰を下ろした。

彼の革手袋は、入ってきたときと同じ、外されていない。

机の上には、すでに黒い革表紙の書類が一束、用意されていた。


「率直に申し上げます」


ジルベストは、抑えた声で切り出した。


「これは、政略結婚ではありません。

私は、貴女のヴァイス侯爵家との縁を必要としていません。

当家の名誉のためにも、貴女の家の名誉のためにも、これを結ぶつもりはない」


エルナは、少しだけ顔を上げた。

意外な切り出し方だった。だが、続きを待った。


「では、何のために」


「契約結婚です。期限は一年。条件は四項目です」


ジルベストは、書類の表紙を開いた。

中の紙は、すでに字が書き込まれている。

彼の文字は、几帳面で、無駄がなかった。


「一、互いに恋愛感情を持たない。

二、寝室を別にする。

三、一年後、円満に離縁する。離縁にあたって、当方は貴女に持参金相応の金額を渡す。

四、互いの過去を詮索せんさくしない」


エルナは静かに聞いていた。


「貴女が一年、ローエンクラム公爵夫人として社交界に在籍してくだされば、それで十分です。

私は、貴女を寄宿させ、衣食を保証し、外出の自由を認めます。

ただし、屋敷の外で公爵家の名を使う際には、一定の慎重さを求めます」


「……はい」


「以上が、当方の条件です」


エルナは、書類を見つめた。


短い四項目だった。

そこにあるのは、四つの箇条書きだけだった。淡々とした、事務の匂いのする合意。


それは、彼女がここに来る前に最も恐れていたものとは、まったく違っていた。

殴られる契約でも、慰み者になる契約でも、奴隷になる契約でもない。


「……お伺いしてもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「公爵様は、なぜ、私のような者を、お選びになったのですか」


ジルベストは、机の上で指を組んだ。

革手袋の指が、ゆっくりと組まれた。


「答える必要が、ありますか」


「いいえ。──ただ、知っておきたいだけです」


ジルベストは、少し沈黙した。

それから、低く言った。


「貴女の評判は、社交界で広く知られています。

噂の良し悪しは別として、私はそれを利用させていただきたかった。

評判の良くない者同士の結婚であれば、社交界はそれ以上、騒がない。

私は、結婚しろという王家と親族からの圧力を、一年だけ、避けたかった」


「……それだけですか」


「ええ」


一拍、間があった。

ジルベストの視線が、契約書の四項目の上を、意味もなく往復した。


エルナは、わずかに頭を傾けた。


「公爵様」


「はい」


「貴方様は、私の評判を、本当にご存じですか」


社交界に一歩も出たことのない自分に、なぜあれほど尾ひれのついた評判が広まっているのか。エルナ自身にも、その答えは分からなかった。


ジルベストは、返答に詰まった。


──知っている。

──だが、貴女がその評判の人間ではない、ということも、たった今、知った。


そう答えるべきだったが、彼は、別の言葉を選んだ。


「ええ。聞き及んでいます」


「私も、貴方様の評判を、聞き及んでいます」


エルナは、机の上の書類に視線を落とした。


「公爵様には、『死神』という呼び名がついていらっしゃるそうですね」


「ええ」


「お互い様、と思っております」


ジルベストは、ゆっくりと、息を吸い込んだ。


淡々とした、対等な声だった。ジルベストが身構えていたどの反応とも、違っていた。


──お互い様。


その言葉が、書斎の絨毯にゆっくりと落ちた。


エルナは、署名の欄に視線を移した。


「ペンを、お借りしてもよろしいですか」


「もう、決められましたか」


「はい」


ジルベストは、机の脇から羽根ペンを取って差し出した。

受け取るとき、彼女の指がペンを強く握った。

痩せた指。爪の根に、まだ薄く血の痕。


それを見て、ジルベストは──書類のペンを、一瞬、引きかけた。


「公爵様?」


「いえ」


「では、書きます」


エルナは、静かに署名した。

『エルナ・ヴァイス』

銀の髪を一筋、肩から落としながら。


ペンは、書類の裏に、小さく一滴インクを落とした。


ジルベストは、自分の名を書いた。

『ジルベスト・ローエンクラム』

彼の字は、最初に書類を書いたときよりも、わずかに、震えていた。


二つの署名が、並んだ。


書斎の時計が、低く一度、鳴った。


「契約は、成立です」


「はい」


「お部屋に案内させます。本日はお疲れでしょう。

──夕食は、別棟にお運びさせます」


「ありがとうございます」


エルナは立ち上がった。

立ち上がるときに、肩がわずかに引きつった。

彼女は気づかれないように、ドレスの襟を引いて隠した。


ジルベストは、その動きを、すべて見ていた。


書斎を出るエルナの背を、彼は黙って見送った。

扉が閉まると、彼は机に肘をつき、額に手をやった。

革手袋の冷たさが、額に少しだけ伝わった。


──私は、何を、迎え入れたのだろうか。


声には出さなかった。

だが、書類の上の、ふたつの署名が、それに答えるはずもなかった。


書斎の時計が、二度目を打った。

雪の夜は、まだ始まったばかりだった。


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挿絵(By みてみん)

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