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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「死神公爵との初対面」

挿絵(By みてみん)


---


ローエンクラム公爵邸の玄関ホールは、王都でも珍しいほど静かだった。


天井は高く、白大理石の床は曇りひとつなく磨かれている。

だが、ここに集う人間は誰もいない。

公爵家の使用人たちは、必要なときに必要な場所に現れ、用が済めば滑るように退く。

それは礼儀ではなく、距離だった。


ジルベスト・ローエンクラム公爵は、玄関ホールの中央に立っていた。


二十六歳。長身。黒の上着に、革手袋。

氷青の瞳は、扉の方向に固定されていたが、何かを見ているわけではなかった。

ただ、自分に課された仕事の手順を、頭の中で反芻はんすうしていた。


──冷たく出迎える。

──握手はしない。声はできるだけ抑える。

──契約書を差し出し、署名させて、その日のうちに別の棟に住まわせる。


それで、すべて終わるはずだった。


「悪辣令嬢エルナ・ヴァイス」。

社交界では誰もが知っている噂の女。

五年前、幼さの残る姿で初めて夜会に紛れ込んで以来、年々図々しく振る舞うようになり、今では毒舌をふるい、男たちを弄び、使用人を鞭打つと恐れられる侯爵令嬢。

父は溺愛し、妹は怯え、社交界では誰一人として彼女の婚約者になりたがらない。


ジルベストにとって、それは好都合だった。


自分のスキル【魅惑】が常時発動している以上、誠実な令嬢をとるれば、必ずその令嬢を不幸にする。

すでに三人の婚約者を不幸にした。

一人は廃人になった。一人は自害した。もう一人は、婚約を解消した直後に、別の男に殺された。

戦友のクレメンスも、婚約者ではない。だが、思い出すたびに、革手袋の下で爪が掌に食い込む。

五年前のクレメンスを思い出すのは、もう、自分への罰の一部だった。


だから、悪女がよかった。

冷たく扱っても罪悪感のない相手。

こちらが無関心であれば、相手も無関心でいてくれる相手。

互いの評判で、社交界の「結婚しろ」という声を一年だけ封じる、それだけの相手。


加えて、もうひとつの理由がある。


──「ヴァイス侯爵家の長女は、鑑定の儀で、魔力そのものに『無反応』だった」という噂。


二年前、使用人の伝手から、その話を耳にした。

教会の記録ではF級として片付けられているが、噂の出どころをたどると、鑑定盤の魔力にすら反応しなかった、という一点に行き着いた。

表舞台で「長女エルナ」と名乗り夜会に出ている令嬢とは、明らかに様子が違う。

ジルベストは長く考え、そして決めた。


魔力そのものが効かない人間が、もし本当に存在するのなら。

誰かを不幸にせずに済む契約結婚の相手は、その者だけだ。


「公爵様」


執事カイの声が、玄関ホールの遠い隅から届いた。


「奥様の馬車が、到着なさいました」


ジルベストは小さく頷いた。

胸の奥で、何かがわずかに引き締まる。緊張ではない。何かを確かめる前の、職人の手の構えに近かった。


扉が、ゆっくりと開いた。


外の光が、白大理石の床に落ちた。

雪を踏んだ足音が、ひとつ。

御者が「奥様」と告げる声が、低く控えめに響いた。


そして、彼女が、入ってきた。


ジルベストは、一瞬、息を止めた。


噂の「悪辣令嬢」が、そこにいるはずだった。

派手な化粧、香水、毒のある瞳、男たちを値踏みする視線。


だが、扉の向こうから現れたのは、痩せた女だった。


身に纏うのは、明らかに丈の合わない深い赤のドレス。

襟元から、首筋の古い傷が、隠しきれずに覗いている。

化粧はほとんどなく、銀の髪は乱れ、青い瞳は──ただ、まっすぐだった。


ホールの中央でジルベストと視線が合った瞬間、彼女は小さく頭を下げた。


「初めまして。エルナ・ヴァイスでございます」


声は静かだった。

長く言葉を発していなかった者が、一語ずつ、置くように選んで話す、そんな声だった。


ジルベストは、自分の計画が、最初の一行から崩れる音を聞いた。


──これは、悪女ではない。


そう察するのに、十秒もかからなかった。


肩の傷の隠し方。視線の位置。挨拶の角度。

全てが、暴力に慣れた者の所作だった。

それも、加える側ではない。受ける側の、所作。


ジルベストは、長く息を吸った。

そして、いつものように、抑揚を殺した声で言葉を返した。


「ジルベスト・ローエンクラムです。よく、おいでくださいました」


声に、わずかに【魅惑】を乗せた。


意図したわけではない。

ただ、長年の習慣だった。声を発するとき、自動的にそれが滲む。だから、抑える。それでも完全には消えない。


エルナの瞳に、変化を待った。


──惚れる兆し。

──呼吸の乱れ。

──頬の血の上り。

──視線の揺らぎ。


何も、起きなかった。


エルナの青い瞳は、ジルベストを真っ直ぐに見ていた。

畏れも、媚も、惚けもなく。

ただ、彼を「ひとりの男」として、見ていた。


ジルベストは、革手袋の下で、指を強く握り込んだ。


──効いていない。

──完全に、効いていない。


胸の奥で、何かが落ちた。

それが何なのか、彼自身にも、まだわからなかった。


「お疲れでしょう。書斎で、契約の話をいたします。応接室ではなく、書斎で。

──構いませんか」


「はい」


「カイ、奥様を書斎へ」


執事のカイは、深く礼をして、エルナを案内し始めた。

エルナはジルベストにもう一度頭を下げ、廊下の奥へと歩いていく。

肩の動きが、わずかにぎこちない。傷を庇っている。

ジルベストはそれを、見逃さなかった。


二人の足音が遠ざかると、ジルベストはホールに一人残った。

天井の高さが、急に重く感じられた。


「……効かない、か」


声は、誰にも届かないように小さかった。


魅惑の届かない人間が、本当に、いた。


何年も探していた相手だった。何年も、誰にも触れずにいた手が、初めて触れていい相手かもしれなかった。

それなら、胸が震えてもよかった。


だが、震えたのは、喉の奥だけだった。重いものが、そこに一つ、生まれていた。


──彼女を、悪女として迎える計画は、失敗した。


冷たく扱う口実が、もうない。

あの肩の傷を見て、あの「初めまして」の声を聞いて、冷遇できる男は、ジルベストではなかった。


ホールの白い床に、自分の革手袋の影が落ちていた。

影は、いつもより重く見えた。


ジルベストは、長く息を吐いた。

そして、書斎へと歩き出した。


その足取りは、いつもより、半歩だけ、遅かった。

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