「屋根裏の傷」 ※残酷集中シーン①
馬車が揺れて肩の傷に触れるたびに、鈍い痛みが走った。
エルナは姿勢を変え、深く座面に身を預けた。昨夜の傷は、まだ固まりきっていない。布の下で、血とかさぶたがドレスに張り付き、動くたびに薄く剥がれる感触があった。
痛みよりも、その湿った感触の方が耐えがたかった。
雪の街道は静かだった。御者の声もなく、聞こえるのは馬の鼻息だけだった。車内には誰もいない。エルナは目を閉じ、昨夜のことを思い出した。
思い出すまいと、何度も自分に言い聞かせた。だが、記憶のほうが先に動いた。
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昨夜、夕食の片付けを終えてから、シルヴィアに呼び出された。
呼び出された場所は、亡き正妻──エルナの母の私室だった。
母が病で亡くなったのは五年前。エルナが「無能」の烙印を押されて屋根裏に移されてから、まだ一年ほどしか経っていない頃だった。
今はシルヴィアが「使っていない物置」として鍵を持っている部屋。エルナはこの六年、足を踏み入れたことがなかった。
扉を開けると、棚の埃の匂いに混じって、母の香水の名残がかすかに漂っていた。
もう、ほとんど消えている。それでも、エルナの胸を一瞬で六年前に引き戻すには十分だった。
「お入りなさい」
シルヴィアは部屋の中央の机に座っていた。
机の上には、母の宝石箱が広げられている。中は、すでに半分以上が空だった。残っているのは、価値の低い装飾品ばかり。良いものは、すべてイリスのものになっている。
「明日、嫁入りでしょう」
「はい」
「公爵家に持ち込むものは、すべて確認してから送り出します。
お前が母から奪ったものを、そのまま持っていかれては困りますからね」
エルナは黙っていた。「奪った」という言葉は、もう刺さらなくなっていた。
「内ポケットを見せなさい」
体が一瞬、固まった。
シルヴィアは見ていなかった。だが、勘づいていた。おそらくは、ずっと前から。
「早く」
エルナは、震える指で夜着の襟元から指輪を取り出した。
銀の細い輪。水色の小石。母の唯一の遺品。燭台の灯に、それは静かに光った。
「やっぱりね」
シルヴィアは指輪を取り上げ、机の上に置いた。
小さな金属音が、部屋に響いた。
「これは本来、家督継承者のものよ。お前のような無能が持っていていいものではないわ」
「お母さまは、私に──」
「お黙りなさい」
平手が頬を打った。
音は乾いていた。痛みより先に、燭台の炎が揺れた。
「お前の母は、お前に何も遺していません。すべては、当主であるお父様の財産です。
お父様は、これをイリスに譲るとお決めになりました。今日、ここで、私の手から、イリスに」
エルナは、頬を押さえなかった。押さえれば、シルヴィアが満足する。六年で学んだ、もうひとつのこと。
「明日の朝、これはイリスに渡ります。お前が触れることは二度とありません。よろしいわね」
「……はい」
「泣かないの?」
「泣きません」
「そう。可愛げのない子」
シルヴィアは、ふと暖炉の脇に立てかけてあった火掻き棒を手に取った。
炉の火はもう小さく、棒の先は冷えていた。
「ひとつ、覚えておきなさい。お前は明日、出ていく。
だけど、私はお前が嫁入り先で何を喋るか、確かめる手段を持っているの」
衣擦れの音。エルナが息を吸うより早く、棒は肩に落ちていた。
視界が白く割れた。膝から力が抜け、床に沈む。喉が動いても、声にはならなかった。出す前に、息のほうが止まっていた。
次の一撃は、加減されていた。痛みは骨まで届かず、皮の下で鈍く止まる。シルヴィアの目が、エルナがどこまで耐えるかを測っているのがわかった。
「公爵に、ここでのことを話したら。
イリスが、お前の名で何を言ってきたか、口にしたら。
お前の名で何が動いてきたか、知ろうとしたら」
言葉が終わると同時に、棒がもう一度動いた。肩より下、鎖骨の縁を捉える。骨の際が鈍く鳴り、体は横倒しに崩れた。息を吸おうとして、うまく吸えなかった。
「お前は、もう一度ここに連れ戻されるのよ。
今度は、屋根裏ではなく地下に」
部屋の燭台が、少しだけ揺れた。
シルヴィアは火掻き棒を炉の脇に戻した。何事もなかったように。
「下がりなさい。そして、明日は綺麗な顔で家を出るのよ。あざは、襟で隠して」
エルナは立ち上がった。
立ち上がったとき、初めて口の中に血の味が広がっていることに気づいた。部屋を出るとき、机の上の指輪を、視界の端で確かめた。燭台の灯に、まだ静かに光っていた。
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その夜、屋根裏に戻ってからの記憶は、断片的だった。
肩の血を、井戸水で湿らせた布で押さえた。
夜着が血を吸って、ごわついた。眠れなかった。だが、起きていることもできなかった。
午前三時頃、エルナは屋根裏を出た。
足音を殺し、母の私室に戻った。
シルヴィアの寝室は屋敷の反対側。彼女は深酒で眠るとき、何も気づかない。
机の上に、指輪はまだ置いてあった。
エルナはそれを取った。
取り戻したのではない。元に戻した、と彼女は思った。
母が私に握らせた、最後のもの。
それは私のもの。
屋根裏に戻り、夜着の内ポケットの最も奥に縫いつけた。
針は震える指で何度も曲がったが、最後には縫い終えた。
夜明け前、井戸で顔を洗った。
それが、昨夜のすべてだった。
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馬車の揺れで、目が開いた。
エルナは、内ポケットに手を当てた。
布越しの硬さ。冷たくも、温かくもない。ただ、在る。
肩の傷は、まだ痛んでいた。だが、もう泣くほどの痛みではなかった。
──誰にも、もう奪わせない。
声には出さなかった。それでも、馬車の中で、初めて彼女の内側に生まれた言葉だった。
窓の外を、雪の街道が王都へと流れていく。




