「嫁入りの朝」
夜明け前、屋根裏はまだ闇の底にあった。板の隙間を抜けてくる風が、頬を薄く刺す。
エルナは目を覚ますと、壁際のたらいで顔を洗った。井戸の水は、肌を切るほど冷たい。痩せた体に、寒さがそのまま骨まで届く。それでも手を止めなかった。
今日は嫁入りの日。最後にひとつ、しておきたいことがあった。
階段を下りると、台所の脇の廊下に、見慣れぬドレスが一着、無造作に投げ置かれていた。
「お姉さまへ」
イリスの侍女がそう告げて、にこりともせずに去った。
ドレスは妹のお下がりだった。深い赤。胸元と裾に二度繕った跡があり、移り香がまだ甘くまとわりついていた。イリスがどこかの夜会で着て、あとは衣装部屋に押し込んでいたものだろう。
エルナは黙って袖を通した。
丈は合わず、肩で布が浮いた。鏡の前で帯を結び直しても、映る姿は誰のものでもなかった。
──妹のもの、でもなく。
──私のもの、でも、もちろんなく。
腰の位置に縫いつけた内ポケットを確かめ、母の指輪をそこに移す。布越しに指で何度もなぞり、確かに在ることを確かめた。
それだけが、嫁入り道具のすべてだった。
玄関ホールに出ると、屋敷の使用人たちが遠巻きに立っていた。
誰もエルナを見なかった。皆、視線の先を二階の階段に向けている。
階段の上に、イリス・ヴァイスがいた。
純白の朝のローブに、銀の髪を流して。
十五歳の妹は、見送りに来たというより、舞台の上から客席を眺めるように立っていた。
「お姉さま」
声には、優しさの形をした何かが乗っていた。
使用人たちは一斉に頬を緩めた。妹の声を聞いただけで。妹の声は人を撫でる。撫でて、そのまま所有する。エルナの胸の奥で、薄い痛みが疼いた。
「お幸せに」
「ありがとう、イリス」
エルナは短く返した。
妹は満足そうに微笑んで、もうこちらを見なかった。微笑みの裏で何を企てているか、エルナは想像するのをとうにやめている。妹の頭の中は、エルナの届く場所にはない。
父ヴァロル・ヴァイス侯爵は、最後まで姿を見せなかった。
継母シルヴィアは、玄関ホールの隅に立ち、エルナを冷たく見送った。
「公爵の機嫌を損ねたら、戻ってくる場所はないと思いなさい」
「はい、お継母さま」
「もし離縁されたら、修道院に送られる前に処刑されるかもしれないわよ。
お前のような者を引き取ってくれた公爵が、機嫌を損ねたら何をするか、わからないものね」
エルナは答えなかった。
言葉のすべてが、もう自分に届かない場所で響いていた。
外に出ると、薄い朝の光が雪原を照らしていた。
昨夜から降った雪が、屋敷の前庭を白く埋めている。そこに、見慣れない黒塗りの馬車が一台停まっていた。
ローエンクラム公爵家の紋章。深い紺の地に、銀の三日月と落ちた羽根。
御者は黒の制服、目深にかぶった帽子から覗く顎は、固く結ばれていた。
「ローエンクラム家のエルナ・ヴァイス様でいらっしゃいますね」
御者は短く礼をし、扉を開けた。
中は意外なほど整っていた。革張りの座席、毛布、湯たんぽ。旅の客への用意というより、病人への配慮にも近い丁寧さだった。
エルナは一瞬、足を止めた。それから、乗り込んだ。
扉が閉まる。
窓の外でシルヴィアが何かを言った。聞き取れなかった。
イリスは見えなかった。もう自分の部屋に戻ったのだろう。父は、二階のどこかの窓から見ているのかもしれない。だが、エルナにはわかなかった。
馬車が動き出した。
──門が、閉まった。
エルナは振り返らなかった。振り返っても、屋敷はもう自分のものではなかった。たぶん、最初からそうだった。
馬車が街道に出ると、雪は一段と深くなった。車輪は重い音を立てて雪を踏み、御者は少しずつ速度を上げていく。
膝の毛布をかけ直したとき、エルナは内ポケットの指輪に触れた。布越しの硬さが、彼女の手を温めるはずもないのに、なぜか温かく感じた。
そして、ふと気づく。
──お母さまの墓に、最後の挨拶ができなかった。
家を出るとき、誰もそれを許さなかった。墓は屋敷の裏の丘にある。夏の終わりに、こっそり一度だけ行ったきりだ。
エルナは窓の外を見た。雪が降り続いていた。丘の方角を探そうとしたが、もうどちらが屋敷だったのかも、わからなかった。
「……ごめんなさい、お母さま」
声は馬車の揺れに紛れて、誰の耳にも届かなかった。内ポケットの指輪だけが、それを聞いていた。
雪の街道を、馬車は王都へ向かって進んでいく。窓の外を、白い野が延々と流れていった。




