「屋根裏の令嬢に来た縁談」
---
屋根裏の梁から、また塵が落ちてきた。
エルナ・ヴァイスは膝に置いた継母のドレスから顔を上げ、指で塵を払った。針はすでに半時間も同じ箇所を縫い続けている。
冬の午後の光は天窓から斜めに射し、糸の銀色だけを照らしていた。
「エルナ」
階段を踏み鳴らす音が、小さな部屋を揺らした。
継母シルヴィアの足音は、いつも怒りより先に屋根裏に届く。
エルナはドレスを置き、立ち上がった。痩せた肩から、夜着のような綿の上着がずり落ちる。
首筋の古い傷を、襟で隠した。隠すのが、もう習慣になっていた。
ドアが乱暴に開かれた。
「嬉しいお知らせがあるのよ、お姉さま」
その呼び方には、いつも刺があった。社交界に一度も出たことのないエルナに、いずれこの呼び名も居場所も、妹のものになるのだと笑っているような響きだった。
シルヴィアの声は、笑うときほど低くなる。今は、ひどく低かった。
彼女は片手に一通の封書を持っている。封蝋は深い紺色で、見たことのない紋章が押されていた。
「嫁入り先が決まったわ」
エルナは黙って封書を見た。差し出される手の指輪が、燭台の灯を弾いて眩しい。
母の宝石箱にあった品のひとつだ。良いものはすべてイリスのものになった。シルヴィアはイリスの装身具を勝手に身につけることがある。
「ローエンクラム公爵」
シルヴィアはその名を、わざと甘く転がした。
「『死神公爵』という呼び名のほうが通っているかしら。婚約者を三人立て続けに不幸にした、あの方よ。──あの男なら、お前のような無能でも引き取ってくれるそうよ」
エルナは封書を受け取った。
紙は重い。封蝋の紺は、夜空を切り取って閉じ込めたような色だった。
「光栄なことね、お姉さま。十八歳になっても婚約のひとつもなかった、F級判定の出来損ないが、公爵家に嫁ぐのよ」
シルヴィアは笑った。声は柔らかく、目の奥は冷たい。
「もちろん、嫁入り道具なんて持たせない。お父様もそうおっしゃっているわ。お前の代わりにイリスの春物のドレスをもう一着買うことに決まったの」
「……はい」
「妹に感謝なさい。お前が出ていくから、イリスの社交費が浮くんですもの」
「はい」
「それだけ?」
「はい、お継母さま」
シルヴィアは舌打ちをした。
何か期待していたらしい。すがる声、命乞い、せめて泣き顔。だがエルナはどれも差し出さない。
屋根裏に閉じ込められた六年で、彼女が学んだのはひとつだけだった。
──奪われるものは、最初から差し出さない。
「明日の朝、迎えが来るそうよ。お父様は見送りに出ない。私もよ。せいぜい一人で、馬車に乗ることね」
シルヴィアはドアを乱暴に閉めて出ていった。
階段を下りる足音が遠ざかる。最後の一段を踏むときの、わずかな笑い声まで、エルナは聞き取った。
ひとり、屋根裏に戻った。
天窓の光は移り、もうドレスの布地までは届かない。
エルナは封書をゆっくりと開いた。
短い文面だった。
『公爵家への婚姻を承知されたい。条件は当家にて協議する。
ジルベスト・ローエンクラム』
それだけ。
愛情も、礼儀も、嫌悪すらない。事務的に切り出された一行。
むしろ、それがエルナには救いに見えた。
期待されていない。
それなら、裏切ることもない。
封書を閉じ、夜着の襟元に滑り込ませた。
そのとき、内ポケットから硬いものが指に当たる。
──母の指輪。
今のところ、シルヴィアにもイリスにも見つかっていない。
銀の細い輪に、小さな水色の石。母が亡くなる三日前、エルナの掌に握らせたものだ。
『これだけは、守りなさい』
母の最後の言葉だった。
エルナは指輪を取り出し、燭台の灯にかざした。
水色の石は、静かに光を返した。ただ、それだけだった。
指先に伝わる硬さと冷たさだけが、今はまだ確かにここに在る、と教えてくれた。
「……お母さま」
声に出すと、屋根裏の冷気がそれを吸い込んだ。
明日、この家を出る。
公爵邸が地獄でも構わない。
屋根裏より深い地獄など、エルナはもう信じられなかった。
指輪を握り直し、内ポケットの奥に隠した。
そして、もう一度ドレスの繕い物に針を通す。
夕餉の片付けが終わるまで、屋根裏の一日はまだ終わらない。
シルヴィアが寝室に下がるまで、気を抜くことはできなかった。
天窓の外で、雪が舞い始めた。
明日の旅路──いや、まだ終わっていない今夜を、覆い尽くすほどの、白い予感だった。
エルナは指輪を握った手に、そっと力を込めた。
──どんな地獄が待っていても、もう、後ろは振り返らない。
それだけを、静かに、心に決めた。




