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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「幼馴染の宣戦布告」

王宮の大広間は、エルナが想像していたものより、はるかに巨大だった。


天井からは三十を超える水晶のシャンデリアが下がり、磨き上げられた寄木よせぎの床に光を落としている。

大広間の壁際には、楽団が控え、すでに低い音色で曲を奏で始めていた。

集まった貴族たちは、軽く百を超えていた。


エルナは、ジルベストの腕に手を添えたまま、入口から中へと歩んだ。


入った瞬間、大広間のざわめきが、わずかに静まった。

すべての視線が、ふたりに向けられた。


──「死神公爵」と「悪辣令嬢」が、揃って現れた。


それは、社交界にとって、年に一度あるかないかの「事件」だった。


ジルベストは、いつものように抑えた表情で、王家への挨拶の列に向かった。

エルナは、彼の隣で、教えられた通りに頭を下げた。

王太子レオハルトは、こちらをまっすぐに見ようとせず、だが目礼だけは正確に返した。


挨拶を済ませると、ジルベストはエルナに低く言った。


「少し、外に風を、お送りしましょう」


「はい」


王宮の中庭は、雪の名残で薄く凍っていた。

ジルベストはエルナを、冬薔薇の植え込みの脇のベンチに案内した。

そこで彼女が一息つくのを待った。


「奥様」


ふたりが座るより先に、声が、後ろから飛んできた。


声には、覚悟があった。

震えと怒りと、それを抑えようとする貴族の作法とが、同じ濃さで重なっていた。


ジルベストが、わずかに体を強張らせた。


「ヴィクトリア」


喘くような彼の声に、エルナは振り返った。


中庭の薔薇のアーチの下に、ひとりの女性が立っていた。

赤い髪を結い上げ、深紅の夜会ドレス、肩のショールを片手で握りしめている。

年齢は二十四、五。美しい女性だった。


ヴィクトリア・フォン・アスカニア公爵令嬢。

ジルベストの幼馴染。

社交界では「いずれ公爵様の隣に立つ女性」として、長く認知されていた。


ヴィクトリアは、エルナを見た。

一拍、目を細めた。

そして、優雅な礼をした。


「初めまして、ローエンクラム公爵夫人」


「初めまして、アスカニア公爵令嬢」


エルナは、教えられた通りに、頭を下げた。

だが、相手の声の温度は、外気よりも冷たかった。


ヴィクトリアは、エルナの全身を、上から下まで眺めた。

銀のドレス、痩せた肩、結い上げた髪。

そして、視線が、襟元で止まった。

襟元から、わずかに覗く、首筋の古い傷の端で。


その瞬間、ヴィクトリアの瞳が、わずかに、揺らいだ。


──傷?


そう疑問に思った彼女自身を、彼女は次の瞬間に振り払った。

「悪辣令嬢」が、傷を持っているはずがない、と。

それは、彼女が信じてきた前提を、揺るがすものだった。

だから、振り払う必要があった。


「ジルベスト様」


ヴィクトリアは、エルナから視線を外し、ジルベストに向き直った。


「お話が、ございます。──奥様抜きで、よろしいですか」


「ヴィクトリア。それは、無作法だ」


ジルベストの声は、いつもより一段、抑えられていた。

彼の声に、抑えなければならない何かがあると、エルナは初めて感じた。


「私は、奥様にも、ご一緒に聞いていただきたいのです」


ヴィクトリアの声は、震えていた。

だが、退かなかった。


「ジルベスト様にふさわしいのは、私です」


その言葉は、中庭の凍った空気の中に、はっきりと落ちた。


「あなたは、それをご存じのはず。

私は、あなたが社交界に出る前から、隣にいました。

あなたの三人の婚約者が、不幸になっていく間も、私はずっと、待っていた」


「ヴィクトリア──」


「黙って、聞いてください」


ヴィクトリアの肩が震えた。

ショールを握る指に力が入った。


「あなたは、それでも、私を選ばなかった。

無関係な令嬢を三人、不幸にしてまで、私を避け続けた。

それでも、私は、待ったの。

待つことが、私の愛だと信じていたから」


ヴィクトリアの瞳が、濡れた。

指が、ショールの端を、強く握り込んだ。

爪が、布に、白い痕を作った。


「それなのに──」


ヴィクトリアは、エルナを指差した。


「あなたのような『無能令嬢』に、ジルベスト様は、何を見出したのですか。

こんな、噂ばかりの、どこの夜会にも出てこなかった、ろくに礼儀も知らない女に。

あなたが、ジルベスト様の隣にいるなど、あってはならないこと」


「ヴィクトリア、止めなさい」


「止めません」


ヴィクトリアは、ショールを地面に落とした。


そして、両手の掌を、互いに合わせた。


合わせた掌の間に、淡い赤の光が、ぽっと灯った。

光は、すぐに弾けそうな、不安定な、しかし強い熱を持っていた。


ジルベストの顔色が、変わった。


「ヴィクトリア、よせ。

社交界の中庭で、攻撃魔法を使うのは──」


「【炎雷】」


ヴィクトリアの声は、澄んでいた。


掌の間の光が、稲妻のかたちに延びた。

そしてそれは、エルナに向けて放たれた。


ジルベストが、エルナを庇おうと、瞬時に前に出た。

だが、間に合わなかった。


稲妻は、エルナの肩に──


届いた。


それだけだった。


熱も、痛みも、光の残像すら、肌に残らなかった。

稲妻は、彼女の背後の生垣で、ようやく音を立てて弾けた。


生垣の枝が、焦げる匂いがした。

枯れ葉が、わずかに、舞った。


中庭は、しんとした。


エルナは、自分の肩を見た。


ドレスの銀の絹は、何も焼けていなかった。


──通った。

──私を、通った。


ヴィクトリアは、両手を掲げたまま、凍りついていた。


「……なぜ」


ヴィクトリアの唇が、震えていた。


「【炎雷】が……効かない、はずが、ない……」


ヴィクトリアの掌から、光が、すべて散った。

彼女は、何かを失ったように、両手を下ろし、ベンチの脇の植え込みに、よろめいて寄りかかった。


ジルベストは、エルナの肩を、革手袋越しに、軽く触れて確かめた。


「お怪我は」


「……ありません」


「本当に」


「はい。──通った、感じが、しました」


ジルベストは、エルナの瞳を、長く見た。

それから、ヴィクトリアの方に、視線を移した。


ヴィクトリアは、植え込みに寄りかかったまま、自分の掌を見つめていた。

そして、ふと、顔を上げた。

彼女の瞳は、いつもの「ジルベストを慕う瞳」とは、わずかに違って見えた。


何かが、彼女の中で、揺らぎ始めていた。


「──私は、何を、しようとしたの」


ヴィクトリアの呟きは、自分自身に向けたものだった。


「ジルベスト様……私は、なぜ、奥様に、攻撃を……」


ジルベストは、答えなかった。

答えるべき言葉を、持っていなかった。


「失礼、いたします」


ヴィクトリアは、それだけを言って、震える足で中庭を去った。

ショールは、地面に落ちたままだった。彼女はそれを拾わなかった。


中庭には、ジルベストとエルナだけが、残された。


雪は降り出していた。

ベンチの背に、小さな雪が積もり始めていた。


ジルベストは、革手袋越しに、エルナの肩に、もう一度、軽く触れた。


「……奥様」


「はい」


「お屋敷に、お戻りいただいて、よろしいですか」


「公爵様は」


「私も、戻ります。今夜の夜会は、これまでで、十分です」


エルナは、頷いた。


馬車に乗り込んでから、ジルベストは、しばらく口を開かなかった。

窓の外で、雪は静かに降り続けていた。


エルナは、自分の肩に、もう一度、手を当てた。


そこには、何も、起きていなかった。


──私は、人ではないのかもしれない。


窓の外の雪が、ひとひら、ガラスに張り付いて、溶けずに残った。


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