「百合の会の三人組」
夜会の翌々日、ローエンクラム公爵邸に、白い百合の花束が届いた。
カードには、銀の文字でこう書かれていた。
『ローエンクラム公爵夫人 様
ご懇意を賜りたく、ささやかな茶会を催したく存じます。
ヘルバーン伯爵邸 大広間にて。
マチルド・ヘルバーン
ローザリア・カミンスキ
エヴァンジェリン・ヴァイト』
カイは、それを書斎のジルベストに届けた。
ジルベストは、カードを読んで、しばらく沈黙した。
「百合の会か」
「左様で」
「断る理由がない以上、行かせるしかない、か」
「公爵様は、ご一緒に?」
「茶会は、夫人だけで赴くものだ。
だが、馬車と護衛は、最良のものを付けてくれ」
カイは深く礼をし、退出した。
書斎にひとり残ったジルベストは、カードを机の上に置き、長く眺めていた。
「百合の会」は、社交界の中堅貴族の令嬢たちで構成される派閥だった。
表向きは慈善活動と読書会の集まり。
裏では、気に入らない令嬢を社交界から追放するための情報網。
その中心にいるのが、カードに名を連ねた三人だった。
──ヴィクトリアの「次の手」だ。
ジルベストは、そう判断した。
だが、断る理由は、まだなかった。
---
エルナは、その日の午後、ヘルバーン伯爵邸の大広間に通された。
部屋は、中央に大きな円卓が一つだけ。
壁紙は淡い藤色。茶器はすべて、揃いの白磁で、薄い百合の絵が描かれている。
窓は厚い緞帳で覆われ、室内は燭台の灯だけで照らされていた。
昼間の茶会としては、不自然なほど暗かった。
円卓の三辺に、すでに三人の令嬢が腰掛けていた。
正面には、マチルド・ヘルバーン伯爵令嬢。
二十二歳。豊かな金髪、薄水色の瞳、表情は柔らかいが、視線が値踏みする商人のものだった。
スキルは【幻覚】A級。
右には、ローザリア・カミンスキ侯爵令嬢。
二十四歳。漆黒の髪を高く結い上げ、冷たい灰色の瞳。
社交界では「記憶の貴婦人」と呼ばれている。
スキルは【記憶改竄】S級。
左には、エヴァンジェリン・ヴァイト子爵令嬢。
十九歳。三人の中で最も若く、最も毒のある口を持つ。
スキルは【言葉の毒】B級。
「ようこそ、ローエンクラム公爵夫人」
マチルドが、椅子を勧めた。
椅子は、エルナの分だけ、円卓の真ん中に向かい合うように、ひとつだけ離して置かれていた。
三人が、一人を取り囲む配置だった。
エルナは、それに気づいたが、何も言わずに腰掛けた。
「お招き、ありがとうございます」
「ご機嫌いかが」
「お陰さまで」
茶が運ばれてきた。
給仕の侍女が出ていくと、扉が静かに閉められた。
四人だけが、室内に残された。
また、あの夜会の中庭のときのように、何かが起きるのかもしれない。
エルナは、そう思いながら、茶器にそっと手を伸ばした。だが今度は、魔法をぶつけられるのではなく、三人がかりで、じわじわと試されるのだと、すぐに分かった。
「公爵夫人」
最初に切り出したのは、マチルドだった。
「先夜の王宮夜会、お見事でしたわ。
ご結婚から半月で、既に社交界の話題の中心。──さすが、ヴァイス侯爵令嬢」
「……」
「私たちは、社交界に長くおりますの。
あなたの『お噂』は、五年前から、よく存じ上げております」
マチルドの声には、針が含まれていた。
五年前から、エルナの名で「悪辣な令嬢」を演じていたのは、妹のイリスだった。
それを知らない社交界は、本物のエルナと、妹の演じた「エルナ」を、同一視していた。
エルナは、茶器を、静かに口に運んだ。
「……」
「お返事は、ないのですか」
「お話を、伺っているだけです」
エルナの声は、柔らかく、しかし崩れなかった。
マチルドは、わずかに、目を細めた。
「では、こちらから、お話を進めさせていただきましょう」
マチルドは、片手の指を、軽く茶器の上で動かした。
その瞬間、室内の燭台の灯が、一斉に揺らいだ。
壁の藤色の紙が、波打って見えた。
天井から、無数の白い百合が、ゆっくりと下りてきた。
百合の花弁の一枚一枚が、輪郭を持ち、エルナの周囲に降り注ぐ──
はずだった。
エルナの目には、何も映らなかった。
燭台の灯は、揺らがなかった。
壁紙は、藤色のまま、静止していた。
天井からは、何も下りてこなかった。
「……」
マチルドの指が、茶器の上で、止まった。
彼女の薄水色の瞳は、ゆっくりと見開かれた。
「いま、何か、ご覧になりましたか」
「いいえ。何も」
「……そうですか」
マチルドは、指を引っ込めた。
彼女は、隣のローザリアに、目配せをした。
ローザリアは、無言で頷き、自分の指を、テーブルの下で、軽く動かした。
ローザリアの【記憶改竄】は、相手の中で「過去にあった出来事」を改変する。
彼女は今、エルナの中に、「自分は社交界で侍女を鞭打った」という記憶を、注入しようとしていた。
エルナの中に、何も生まれなかった。
侍女も、鞭も、覚えのない光景だった。
記憶は、記憶になる前に、消えていた。
ローザリアの指が、震えた。
彼女は、もう一度、試した。
今度は強めに。
──それでも、何も。
ローザリアの灰色の瞳に、初めて、戸惑いが滲んだ。
「ねえ、お姉様方」
エヴァンジェリンが、痺れを切らしたように、口を開いた。
「もう、まどろっこしいわ。
直接、お話ししましょうよ」
エヴァンジェリンは、エルナを、まっすぐに睨んだ。
「公爵夫人。
あなたのような、屋敷から出てきもしなかった『噂だけ』の令嬢が、あの公爵様の隣に座るなんて、社交界の汚点ですわ」
エヴァンジェリンの声に、わずかに、毒の魔力が乗った。
エルナは、茶を、もう一口、含んだ。
エヴァンジェリンの目が、一瞬、泳いだ。
狙いを定めた矢が、そこに立っていない誰かを射たような、小さな空白が、彼女の表情をよぎった。
彼女は、なぜそう感じたのか、自分でも分からないまま、続けた。
「あなたなど、家から一歩も出たことのない、無能の極み。
公爵様も、何故あなたを娶ったのか、社交界中が首を傾げておりますわ。
きっと、お情けです。憐れんで、引き取ってくださったのでしょう」
エルナは、茶器を、静かに、皿に戻した。
小さな音が、室内に響いた。
「ご招待、ありがとうございました」
「は?」
「茶は、とても美味しかったです。
百合の絵柄も、品が良くて、見惚れておりました」
エルナは、立ち上がった。
立ち上がっただけで、三人の令嬢の視線が、上がった。
「皆様のお茶会は、私には、お話の内容が難しゅうございました。
慣れぬ場ですので、本日はこれにて、失礼させていただきます」
エルナは、深く、礼をした。
その礼は、屋根裏で六年、誰にも教えられずに、独学で覚えた礼だった。
社交界の作法から、わずかにずれていた。
だが、その「ずれ」は、なぜか、室内の三人の令嬢を、強く動揺させた。
──この令嬢は、私たちの場の作法を、知らない。
──知らない令嬢に、私たちの「魔力の作法」が、効かない。
マチルドが、立ち上がろうとした。
ローザリアが、それを目で制した。
エヴァンジェリンは、何かを言いかけて、口をつぐんだ。
エルナは、扉に向かった。
「お待ちなさい!」
エヴァンジェリンが、立ち上がった。
「あなた、何を、何を、しているの!
私たちの魔力が、効かない!
あなた、人ではないの? 化け物なの?」
エルナは、扉の前で、振り返った。
そして、わずかに、頭を下げた。
「私が、何であるかは、私自身も、まだ存じません。
ですが、皆様にご迷惑を、おかけしないようにいたします」
扉が、静かに閉まった。
廊下に出て、エルナは、しばらく、扉に背を向けて立っていた。
胸は、不思議なほど、平静だった。
屋根裏で、シルヴィアの罵倒を浴びていた頃の方が、ずっと、心は痛んでいた。
今日の三人の令嬢の言葉は、何ひとつ、彼女に届いていなかった。
──攻撃が、効かない側に立つというのは、こんな感じなのか。
それは、生まれて初めて、彼女が知る、奇妙な凪だった。
迎えの馬車に乗り込んだとき、御者は、彼女の顔を一目見て、深く礼をした。
何も問わなかった。
公爵邸への帰路は、凍った道を、静かに進んだ。
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茶会の部屋に残された三人の令嬢は、長く、口を開けなかった。
最初に沈黙を破ったのは、ローザリアだった。
「あの令嬢は、何者なの」
「分かりません」
マチルドが、首を横に振った。
「私の【幻覚】は、見えなかったのではない。
そもそも、彼女に届かなかった」
「私の【記憶改竄】も、あの子の中に、根を張らなかったわ」
ローザリアの灰色の瞳が、燭台の灯を映していた。
「あれは、抵抗ではないの。
あの令嬢は、魔力を、初めから、受け付けない」
エヴァンジェリンは、震える指で、自分の唇を押さえた。
「……私の【言葉の毒】も、たぶん、同じ。
言葉を、返したつもりだった。
でも、あの目には、何も刺さっていなかった」
「……『無能』、なのに?」
三人の視線が、絡まった。
そこから、ようやく、ひとつの仮説が、形を取り始めた。
だが、それを口にするには、彼女たちの「これまでの社交界」を、根本から組み立て直す必要があった。
雪が、邸の外で、また、降り始めていた。




