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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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11/26

「百合の会の三人組」

夜会の翌々日、ローエンクラム公爵邸に、白い百合の花束が届いた。


カードには、銀の文字でこう書かれていた。


『ローエンクラム公爵夫人 様

ご懇意を賜りたく、ささやかな茶会を催したく存じます。

ヘルバーン伯爵邸 大広間にて。

マチルド・ヘルバーン

ローザリア・カミンスキ

エヴァンジェリン・ヴァイト』


カイは、それを書斎のジルベストに届けた。

ジルベストは、カードを読んで、しばらく沈黙した。


「百合の会か」


「左様で」


「断る理由がない以上、行かせるしかない、か」


「公爵様は、ご一緒に?」


「茶会は、夫人だけで赴くものだ。

だが、馬車と護衛は、最良のものを付けてくれ」


カイは深く礼をし、退出した。

書斎にひとり残ったジルベストは、カードを机の上に置き、長く眺めていた。


「百合の会」は、社交界の中堅貴族の令嬢たちで構成される派閥だった。

表向きは慈善活動と読書会の集まり。

裏では、気に入らない令嬢を社交界から追放するための情報網。

その中心にいるのが、カードに名を連ねた三人だった。


──ヴィクトリアの「次の手」だ。


ジルベストは、そう判断した。

だが、断る理由は、まだなかった。


---


エルナは、その日の午後、ヘルバーン伯爵邸の大広間に通された。


部屋は、中央に大きな円卓が一つだけ。

壁紙は淡い藤色。茶器はすべて、揃いの白磁で、薄い百合の絵が描かれている。

窓は厚い緞帳どんちょうで覆われ、室内は燭台の灯だけで照らされていた。

昼間の茶会としては、不自然なほど暗かった。


円卓の三辺に、すでに三人の令嬢が腰掛けていた。


正面には、マチルド・ヘルバーン伯爵令嬢。

二十二歳。豊かな金髪、薄水色の瞳、表情は柔らかいが、視線が値踏みする商人のものだった。

スキルは【幻覚】A級。


右には、ローザリア・カミンスキ侯爵令嬢。

二十四歳。漆黒の髪を高く結い上げ、冷たい灰色の瞳。

社交界では「記憶の貴婦人」と呼ばれている。

スキルは【記憶改竄(かいざん)】S級。


左には、エヴァンジェリン・ヴァイト子爵令嬢。

十九歳。三人の中で最も若く、最も毒のある口を持つ。

スキルは【言葉の毒】B級。


「ようこそ、ローエンクラム公爵夫人」


マチルドが、椅子を勧めた。

椅子は、エルナの分だけ、円卓の真ん中に向かい合うように、ひとつだけ離して置かれていた。

三人が、一人を取り囲む配置だった。


エルナは、それに気づいたが、何も言わずに腰掛けた。


「お招き、ありがとうございます」


「ご機嫌いかが」


「お陰さまで」


茶が運ばれてきた。

給仕の侍女が出ていくと、扉が静かに閉められた。

四人だけが、室内に残された。


また、あの夜会の中庭のときのように、何かが起きるのかもしれない。

エルナは、そう思いながら、茶器にそっと手を伸ばした。だが今度は、魔法をぶつけられるのではなく、三人がかりで、じわじわと試されるのだと、すぐに分かった。


「公爵夫人」


最初に切り出したのは、マチルドだった。


「先夜の王宮夜会、お見事でしたわ。

ご結婚から半月で、既に社交界の話題の中心。──さすが、ヴァイス侯爵令嬢」


「……」


「私たちは、社交界に長くおりますの。

あなたの『お噂』は、五年前から、よく存じ上げております」


マチルドの声には、針が含まれていた。

五年前から、エルナの名で「悪辣な令嬢」を演じていたのは、妹のイリスだった。

それを知らない社交界は、本物のエルナと、妹の演じた「エルナ」を、同一視していた。


エルナは、茶器を、静かに口に運んだ。


「……」


「お返事は、ないのですか」


「お話を、伺っているだけです」


エルナの声は、柔らかく、しかし崩れなかった。


マチルドは、わずかに、目を細めた。


「では、こちらから、お話を進めさせていただきましょう」


マチルドは、片手の指を、軽く茶器の上で動かした。


その瞬間、室内の燭台の灯が、一斉に揺らいだ。

壁の藤色の紙が、波打って見えた。

天井から、無数の白い百合が、ゆっくりと下りてきた。

百合の花弁の一枚一枚が、輪郭を持ち、エルナの周囲に降り注ぐ──


はずだった。


エルナの目には、何も映らなかった。


燭台の灯は、揺らがなかった。

壁紙は、藤色のまま、静止していた。

天井からは、何も下りてこなかった。


「……」


マチルドの指が、茶器の上で、止まった。

彼女の薄水色の瞳は、ゆっくりと見開かれた。


「いま、何か、ご覧になりましたか」


「いいえ。何も」


「……そうですか」


マチルドは、指を引っ込めた。

彼女は、隣のローザリアに、目配せをした。


ローザリアは、無言で頷き、自分の指を、テーブルの下で、軽く動かした。


ローザリアの【記憶改竄(かいざん)】は、相手の中で「過去にあった出来事」を改変する。

彼女は今、エルナの中に、「自分は社交界で侍女を鞭打った」という記憶を、注入しようとしていた。


エルナの中に、何も生まれなかった。


侍女も、鞭も、覚えのない光景だった。

記憶は、記憶になる前に、消えていた。


ローザリアの指が、震えた。

彼女は、もう一度、試した。

今度は強めに。


──それでも、何も。


ローザリアの灰色の瞳に、初めて、戸惑いが滲んだ。


「ねえ、お姉様方」


エヴァンジェリンが、痺れを切らしたように、口を開いた。


「もう、まどろっこしいわ。

直接、お話ししましょうよ」


エヴァンジェリンは、エルナを、まっすぐに睨んだ。


「公爵夫人。

あなたのような、屋敷から出てきもしなかった『噂だけ』の令嬢が、あの公爵様の隣に座るなんて、社交界の汚点ですわ」


エヴァンジェリンの声に、わずかに、毒の魔力が乗った。


エルナは、茶を、もう一口、含んだ。


エヴァンジェリンの目が、一瞬、泳いだ。

狙いを定めた矢が、そこに立っていない誰かを射たような、小さな空白が、彼女の表情をよぎった。


彼女は、なぜそう感じたのか、自分でも分からないまま、続けた。


「あなたなど、家から一歩も出たことのない、無能の極み。

公爵様も、何故あなたを娶ったのか、社交界中が首を傾げておりますわ。

きっと、お情けです。憐れんで、引き取ってくださったのでしょう」


エルナは、茶器を、静かに、皿に戻した。

小さな音が、室内に響いた。


「ご招待、ありがとうございました」


「は?」


「茶は、とても美味しかったです。

百合の絵柄も、品が良くて、見惚れておりました」


エルナは、立ち上がった。


立ち上がっただけで、三人の令嬢の視線が、上がった。


「皆様のお茶会は、私には、お話の内容が難しゅうございました。

慣れぬ場ですので、本日はこれにて、失礼させていただきます」


エルナは、深く、礼をした。


その礼は、屋根裏で六年、誰にも教えられずに、独学で覚えた礼だった。

社交界の作法から、わずかにずれていた。

だが、その「ずれ」は、なぜか、室内の三人の令嬢を、強く動揺させた。


──この令嬢は、私たちの場の作法を、知らない。

──知らない令嬢に、私たちの「魔力の作法」が、効かない。


マチルドが、立ち上がろうとした。

ローザリアが、それを目で制した。

エヴァンジェリンは、何かを言いかけて、口をつぐんだ。


エルナは、扉に向かった。


「お待ちなさい!」


エヴァンジェリンが、立ち上がった。


「あなた、何を、何を、しているの!

私たちの魔力が、効かない!

あなた、人ではないの? 化け物なの?」


エルナは、扉の前で、振り返った。


そして、わずかに、頭を下げた。


「私が、何であるかは、私自身も、まだ存じません。

ですが、皆様にご迷惑を、おかけしないようにいたします」


扉が、静かに閉まった。


廊下に出て、エルナは、しばらく、扉に背を向けて立っていた。


胸は、不思議なほど、平静だった。


屋根裏で、シルヴィアの罵倒を浴びていた頃の方が、ずっと、心は痛んでいた。

今日の三人の令嬢の言葉は、何ひとつ、彼女に届いていなかった。


──攻撃が、効かない側に立つというのは、こんな感じなのか。


それは、生まれて初めて、彼女が知る、奇妙な凪だった。


迎えの馬車に乗り込んだとき、御者は、彼女の顔を一目見て、深く礼をした。

何も問わなかった。

公爵邸への帰路は、凍った道を、静かに進んだ。


---


茶会の部屋に残された三人の令嬢は、長く、口を開けなかった。


最初に沈黙を破ったのは、ローザリアだった。


「あの令嬢は、何者なの」


「分かりません」


マチルドが、首を横に振った。


「私の【幻覚】は、見えなかったのではない。

そもそも、彼女に届かなかった」


「私の【記憶改竄(かいざん)】も、あの子の中に、根を張らなかったわ」


ローザリアの灰色の瞳が、燭台の灯を映していた。


「あれは、抵抗ではないの。

あの令嬢は、魔力を、初めから、受け付けない」


エヴァンジェリンは、震える指で、自分の唇を押さえた。


「……私の【言葉の毒】も、たぶん、同じ。

言葉を、返したつもりだった。

でも、あの目には、何も刺さっていなかった」


「……『無能』、なのに?」


三人の視線が、絡まった。


そこから、ようやく、ひとつの仮説が、形を取り始めた。

だが、それを口にするには、彼女たちの「これまでの社交界」を、根本から組み立て直す必要があった。


雪が、邸の外で、また、降り始めていた。

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