「ジルベストの過去」
茶会から戻ったエルナを、ジルベストは玄関ホールで迎えた。
カイから、すでに馬車の御者の様子の報告は受けていた。
御者は「奥様は、平静でいらっしゃいました」と告げていた。
だが、それでも、彼は自分の目で確かめずにはいられなかった。
「お帰りなさい」
「ただいま、戻りました」
エルナは、いつもと同じ低い声で答えた。
表情にも、衣服にも、乱れはなかった。
ジルベストは、革手袋越しに、彼女の肩を、軽く支えた。
「お疲れではありませんか」
「いえ。──むしろ、不思議な感覚で」
「不思議な、感覚」
「皆様が、何か、攻撃をなさろうとしているようでした。
ですが、私には、何ひとつ、届きませんでした」
エルナは、玄関ホールの大理石の床を、しばらく見ていた。
それから、視線を上げて、ジルベストを見た。
「公爵様。
私の体は、何か、おかしいのでしょうか」
ジルベストは、答えに、詰まった。
──伝えるべきだ。
──だが、まだ、早い。
「お風呂を、お使いください。
夕食の前に、馬車で、少しお出かけしませんか。
お話ししたいことが、あります」
「お出かけ……」
「ええ。──私の昔の話を、聞いていただきたいのです」
エルナは頷いた。
余計な問いを返さなかった。
ジルベストは、それに、わずかに、感謝した。
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その夜、馬車は、王都の郊外に向かった。
雪は降り止んでいたが、街道の脇には、まだ白い積もりが残っていた。
窓の外を、街灯がゆっくりと流れていく。
御者には、特定の場所に向かうようにとは指示していなかった。
ただ、王都の外周を、ゆっくり回るように、と告げただけだった。
ジルベストは、馬車の中で、向かい合うエルナを見た。
エルナは、銀のドレスから、淡い灰の室内服に着替えていた。
膝には、毛布。手元には、湯たんぽ。
エルナは、行儀よく座り、彼の話を待っていた。
「奥様」
「はい」
「私の【スキル】の話を、いたします」
エルナは、わずかに、頷いた。
「私のスキルは、【魅惑】です。SS級。常時発動。
声を聞いた者、視線を合わせた者、近くにいる者を、惚れさせます。
意志に関わらず、距離・性別・年齢を問わず、効きます。
私は、それを、自分で止められません」
「……」
「だから、革手袋は、外しません。
声には、できる限り、抑揚を込めません。
人と、必要以上に、近づきません」
馬車の窓に、街灯がひとつ、流れた。
ジルベストの横顔が、一瞬だけ、淡い光に照らされた。
握る指が、わずかに、動いた。
「五年前」
ジルベストは、深く、息を吸った。
「私には、騎士団時代の戦友が、ひとり、おりました。
クレメンス・フォーレ。私と同じ歳の、副官でした。
酒を共に飲み、手柄を分け、互いの背を任せた、唯一の友人でした」
エルナは、黙って、聞いていた。
「ですが、ある頃から、彼の目が、私を、見なくなりました。
声を聞くたび、頬が染まり、指先が、私の傷痕を探すようになった。
本人が、誰よりも、それに、苦しんでいました。
自分の心では、ないと、分かっていたから」
ジルベストの声は、抑揚を殺していた。
だが、その抑え方そのものが、彼の感情の濃さを、逆に伝えていた。
「彼は、配置転換を、願い出ました。
私は、止めませんでした。
それでも、彼の内側から、【魅惑】の色は、消えていかなかったといいます」
馬車の窓に、もうひとつ、街灯が流れた。
ジルベストは、革手袋の下で、拳を握り込んだ。
「五年前の、雪の朝。
クレメンスは、自ら、命を絶ちました。
遺書には、俺の心ではない、最後に自分を取り戻したい──それだけ、記されていました」
エルナは、何も言わなかった。
ただ、自分の手元の湯たんぽを、ゆっくりと、握り直した。
「クレメンスの後にも、私は、三人の婚約者を、不幸にしました。
最初の令嬢は、廃人になりました。
二人目は、自害しました。
三人目は──私が婚約を解消する直前に、別の男に殺されました」
ジルベストは、窓の外を、しばらく見つめた。
「だから、私は、誰にも、触れずに、生きてきました。
革手袋を、外しません。
声には、抑揚を、込めません。
人に、必要以上に、近づきません」
馬車の中は、静かだった。
車輪が雪を踏む音だけが、薄く響いていた。
「貴女には、私の声が、届いてしまう。
だから、私は、貴女に、声を、届かせてしまう。
それが、貴女を、傷つけているのではないかと、私は、毎晩、考えています」
エルナは、ジルベストの瞳を、静かに、見返した。
ジルベストの氷青の瞳は、揺れていた。
それは、初めて、彼女が見る、彼の「人としての顔」だった。
エルナは、しばらく、答えなかった。
言葉を、選んでいた。
そして、最も短い言葉を、ようやく、口にした。
「届いて、構いません」
ジルベストは、息を、止めた。
「貴女、何を、おっしゃっているのか、分かっていらっしゃいますか」
「分かっていないかも、しれません」
エルナは、わずかに、頷いた。
「ですが、屋根裏で、誰の言葉も、私には届かなかった年月の方が、ずっと、長うございました。
今、誰かの声が、私に届いているのなら。
それは、私にとって、たぶん、悪くないこと、なのです」
馬車の中で、ジルベストの革手袋の下の拳が、震えた。
それは、力を入れた震えではなかった。
力が、抜けた震えだった。
六年間、ずっと自分を縛ってきた何かが、ほんの一瞬、緩んだときの、震えだった。
ジルベストは、視線を、自分の膝に落とした。
革手袋の指で、もう一方の手の甲に、軽く触れた。
そこには、誰も、何年も、触れていなかった。
「……奥様」
「はい」
「ありがとう、ございます」
エルナは、首を横に振った。
「お礼を、おっしゃるのは、私の方です。
今夜、私に、貴方様の声を、聞かせてください」
馬車は、街道の終わりで、ゆっくり折り返した。
帰路の窓の向こうで、王都の灯が、雪の上に淡く浮いていた。
エルナは、湯たんぽを膝の上で、しっかりと抱えた。
膝の毛布の下で、彼女の足は、屋根裏でずっと冷えていた爪先まで、ほんのわずかに、温かかった。
ジルベストは、馬車の中で、革手袋を、まだ外さなかった。
だが、その手袋の下で、初めて、誰かに「届いて構わない」と言われた手は、もう、以前とは、別の手だった。
帰路の馬車は、王都の方角に、静かに進んでいった。




