表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/26

「ジルベストの過去」

茶会から戻ったエルナを、ジルベストは玄関ホールで迎えた。


カイから、すでに馬車の御者の様子の報告は受けていた。

御者は「奥様は、平静でいらっしゃいました」と告げていた。

だが、それでも、彼は自分の目で確かめずにはいられなかった。


「お帰りなさい」


「ただいま、戻りました」


エルナは、いつもと同じ低い声で答えた。

表情にも、衣服にも、乱れはなかった。


ジルベストは、革手袋越しに、彼女の肩を、軽く支えた。


「お疲れではありませんか」


「いえ。──むしろ、不思議な感覚で」


「不思議な、感覚」


「皆様が、何か、攻撃をなさろうとしているようでした。

ですが、私には、何ひとつ、届きませんでした」


エルナは、玄関ホールの大理石の床を、しばらく見ていた。

それから、視線を上げて、ジルベストを見た。


「公爵様。

私の体は、何か、おかしいのでしょうか」


ジルベストは、答えに、詰まった。


──伝えるべきだ。

──だが、まだ、早い。


「お風呂を、お使いください。

夕食の前に、馬車で、少しお出かけしませんか。

お話ししたいことが、あります」


「お出かけ……」


「ええ。──私の昔の話を、聞いていただきたいのです」


エルナは頷いた。

余計な問いを返さなかった。


ジルベストは、それに、わずかに、感謝した。


---


その夜、馬車は、王都の郊外に向かった。


雪は降り止んでいたが、街道の脇には、まだ白い積もりが残っていた。

窓の外を、街灯がゆっくりと流れていく。

御者には、特定の場所に向かうようにとは指示していなかった。

ただ、王都の外周を、ゆっくり回るように、と告げただけだった。


ジルベストは、馬車の中で、向かい合うエルナを見た。


エルナは、銀のドレスから、淡い灰の室内服に着替えていた。

膝には、毛布。手元には、湯たんぽ。

エルナは、行儀よく座り、彼の話を待っていた。


「奥様」


「はい」


「私の【スキル】の話を、いたします」


エルナは、わずかに、頷いた。


「私のスキルは、【魅惑】です。SS級。常時発動。

声を聞いた者、視線を合わせた者、近くにいる者を、惚れさせます。

意志に関わらず、距離・性別・年齢を問わず、効きます。

私は、それを、自分で止められません」


「……」


「だから、革手袋は、外しません。

声には、できる限り、抑揚を込めません。

人と、必要以上に、近づきません」


馬車の窓に、街灯がひとつ、流れた。

ジルベストの横顔が、一瞬だけ、淡い光に照らされた。

握る指が、わずかに、動いた。


「五年前」


ジルベストは、深く、息を吸った。


「私には、騎士団時代の戦友が、ひとり、おりました。

クレメンス・フォーレ。私と同じ歳の、副官でした。

酒を共に飲み、手柄を分け、互いの背を任せた、唯一の友人でした」


エルナは、黙って、聞いていた。


「ですが、ある頃から、彼の目が、私を、見なくなりました。

声を聞くたび、頬が染まり、指先が、私の傷痕を探すようになった。

本人が、誰よりも、それに、苦しんでいました。

自分の心では、ないと、分かっていたから」


ジルベストの声は、抑揚を殺していた。

だが、その抑え方そのものが、彼の感情の濃さを、逆に伝えていた。


「彼は、配置転換を、願い出ました。

私は、止めませんでした。

それでも、彼の内側から、【魅惑】の色は、消えていかなかったといいます」


馬車の窓に、もうひとつ、街灯が流れた。

ジルベストは、革手袋の下で、拳を握り込んだ。


「五年前の、雪の朝。

クレメンスは、自ら、命を絶ちました。

遺書には、俺の心ではない、最後に自分を取り戻したい──それだけ、記されていました」


エルナは、何も言わなかった。

ただ、自分の手元の湯たんぽを、ゆっくりと、握り直した。


「クレメンスの後にも、私は、三人の婚約者を、不幸にしました。

最初の令嬢は、廃人になりました。

二人目は、自害しました。

三人目は──私が婚約を解消する直前に、別の男に殺されました」


ジルベストは、窓の外を、しばらく見つめた。


「だから、私は、誰にも、触れずに、生きてきました。

革手袋を、外しません。

声には、抑揚を、込めません。

人に、必要以上に、近づきません」


馬車の中は、静かだった。

車輪が雪を踏む音だけが、薄く響いていた。


「貴女には、私の声が、届いてしまう。

だから、私は、貴女に、声を、届かせてしまう。

それが、貴女を、傷つけているのではないかと、私は、毎晩、考えています」


エルナは、ジルベストの瞳を、静かに、見返した。


ジルベストの氷青の瞳は、揺れていた。

それは、初めて、彼女が見る、彼の「人としての顔」だった。


エルナは、しばらく、答えなかった。

言葉を、選んでいた。

そして、最も短い言葉を、ようやく、口にした。


「届いて、構いません」


ジルベストは、息を、止めた。


「貴女、何を、おっしゃっているのか、分かっていらっしゃいますか」


「分かっていないかも、しれません」


エルナは、わずかに、頷いた。


「ですが、屋根裏で、誰の言葉も、私には届かなかった年月の方が、ずっと、長うございました。

今、誰かの声が、私に届いているのなら。

それは、私にとって、たぶん、悪くないこと、なのです」


馬車の中で、ジルベストの革手袋の下の拳が、震えた。


それは、力を入れた震えではなかった。

力が、抜けた震えだった。

六年間、ずっと自分を縛ってきた何かが、ほんの一瞬、緩んだときの、震えだった。


ジルベストは、視線を、自分の膝に落とした。

革手袋の指で、もう一方の手の甲に、軽く触れた。

そこには、誰も、何年も、触れていなかった。


「……奥様」


「はい」


「ありがとう、ございます」


エルナは、首を横に振った。


「お礼を、おっしゃるのは、私の方です。

今夜、私に、貴方様の声を、聞かせてください」


馬車は、街道の終わりで、ゆっくり折り返した。

帰路の窓の向こうで、王都の灯が、雪の上に淡く浮いていた。


エルナは、湯たんぽを膝の上で、しっかりと抱えた。

膝の毛布の下で、彼女の足は、屋根裏でずっと冷えていた爪先まで、ほんのわずかに、温かかった。


ジルベストは、馬車の中で、革手袋を、まだ外さなかった。


だが、その手袋の下で、初めて、誰かに「届いて構わない」と言われた手は、もう、以前とは、別の手だった。


帰路の馬車は、王都の方角に、静かに進んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ