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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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13/26

「社交界の『姉エルナ』」

その夜会は、ベルゼル子爵家の主催で開かれた。


王都の中ほど、白亜の館の大広間。

百を少し超える程度の招待客で、王宮夜会よりは小規模だが、社交界の中堅層が一堂に会する、年に一度の重要な集まりだった。


エルナとジルベストは、二度目の夜会だった。

彼女のドレスは、前回と異なり、淡い灰色の絹に、襟元だけ銀の刺繍が入っていた。

ジルベストは、いつもの黒の上着、革手袋。

そして、いつもより一段、エルナの肩に近く立っていた。


「お疲れになられたら、私の腕に、何度でも、お頼りください」


「はい」


馬車の中で、彼はそう繰り返していた。


エルナは、彼の所作の変化に、薄く気づいていた。

クレメンスの話を聞いた夜から、ジルベストは、彼女に対して、距離の取り方を、少しだけ、変えていた。

冷たくなったわけではない。むしろ、一段、温かくなっていた。

だがエルナはそれを、まだ「気を遣ってくださっているのだろう」と、自分に言い聞かせていた。


──公爵様は、優しい方なのだ。

──きっと、それも、お役目の一部、なのだろう。


そう、思うことにした。

それ以上を、考えるのは、まだ怖かった。


---


大広間に入ると、楽団がワルツを奏でていた。


何組かの貴族が、すでに踊っている。

人々は壁際で、シャンパンと果実水を片手に、軽い会話を交わしていた。


エルナとジルベストが入場すると、いくつかの視線が、こちらに集まった。

だが、王宮夜会の時のような、ざわめきはなかった。

ヴィクトリアの【炎雷】の話は、社交界の上位にだけ、密かに伝わっていた。

中堅層の貴族たちは、その夜の出来事を、まだ知らなかった。


「公爵様」


ベルゼル子爵が、まず挨拶に来た。

エルナも、教えられた通りに頭を下げた。

ジルベストが穏やかに会話を引き受け、エルナは隣で、笑みを薄く保っていた。


会話の半ばで、大広間の入口から、低いざわめきが起きた。


「あら、ヴァイス侯爵令嬢、お見えですわ」


エルナは、その声の主の方を、思わず見た。


入口から入ってきたのは、銀の髪を結い上げた、十五歳の少女だった。

純白に近い、淡い空色のドレス。胸元には、母の指輪と対だった、母の銀のブローチ。

朗らかな笑みで、左右に礼を振り撒きながら、ホールの中を進んでいる。


──イリス。


エルナの体が、わずかに、強張った。


ジルベストは、それを敏感に感じ取り、エルナの腰に、革手袋越しの手を、軽く添えた。


「奥様、ご無理なら、退場の口実を、私が」


「いえ。──お会いしてみたいです」


「分かりました」


エルナは、自分でも、なぜそう答えたのか、分からなかった。

だが、口から出た言葉だった。


イリスは、何人かの貴族と挨拶を交わしながら、ゆっくりと、こちらに近づいてきた。

彼女の視線は、最初、エルナを認識していなかった。

ジルベストの姿を見て、わずかに視線を上げ、それから、その隣の女性に、視線を移した。


そして、止まった。


イリスの瞳が、わずかに、見開かれた。


──姉、お姉さま。


エルナには、その口の動きが、見えた気がした。


だが、イリスは、すぐに、表情を取り直した。

朗らかな笑みは、崩れなかった。

むしろ、より深く、より柔らかくなった。


「あら、ローエンクラム公爵様」


イリスは、優雅に礼をした。

それから、エルナに、視線を移した。


「ローエンクラム公爵夫人、初めまして。

私、ヴァイス侯爵家の長女、エルナ・ヴァイスでございます」


大広間の空気が、わずかに、止まった。


エルナの背後で、ベルゼル子爵が、軽く咳払いをした。

近くにいた貴族の一人が、自分のシャンパンの杯を、止めた。

だが、皆、すぐに表情を取り戻した。


──知っている顔の、知っている令嬢が、知っている名を、名乗っている。

──不自然なことは、何もない。


そう、彼らの脳が、瞬時に処理した。

それが、イリスの【魅了】の働きだった。


エルナは、目の前の妹を、見ていた。


イリスは、エルナの「姉エルナ」の顔を、知らないはずだった。

六年間、エルナは家から出ていない。

夜会には、いつもイリスが「エルナ」として出ていた。

社交界に「本物のエルナ」を見たことがある人間は、ほんのわずかしかいない。


だから、イリスの賭けは、こうだった。


──私が「エルナ」と名乗れば、社交界はそれを信じる。

──姉が「いえ、私がエルナです」と言っても、誰も信じない。

──姉は、社交界では、最初から「いない」ことになっている。


エルナは、自分の指で、ドレスの袖の端を、わずかに握った。

そして、その握った指の下で、自分の心臓の鼓動が、思っていたより、ずっと、平静なのを感じた。


──怒り、ではない。

──悲しみ、でもない。

──ただ、これは、五年間ずっと、続いてきたことだ。


その認識が、彼女に、奇妙な落ち着きを与えていた。


「……ご丁寧に、ありがとうございます」


エルナは、頭を下げた。

深さは、相手の家格に対する、必要十分な角度。

角度は、屋敷で誰にも教えられず、独学で覚えたものだった。


「ご令嬢」


エルナは、低く、続けた。


「お名前を、間違えておられるのでは」


楽団のワルツだけが、やけに、鼓膜を、叩いた。


イリスの笑みが、ほんの一瞬、固まった。

だがすぐに、彼女は、首をかわいらしく傾けた。


「あら、何のことでしょう」


「私の名は、エルナ・ローエンクラム。

旧姓は、エルナ・ヴァイス。

私は、ヴァイス侯爵家の長女です」


声は、震えなかった。

むしろ、彼女自身が驚くほど、まっすぐに、響いた。


イリスの周囲の貴族たちが、顔を見合わせ始めた。


──同じ名を、二人が名乗っている。

──こんなことは、ありえない。


そう、彼らの頭の中で、初めての疑問が、ようやく芽生えた。

イリスの【魅了】は、強かったが、複数の同時の疑問には、わずかに、緩むことがあった。


「あら、奥様」


イリスは、笑みを取り戻した。


「お似た名の方は、世の中に、いらっしゃるものですわ。

ですが、私こそが、ヴァイス侯爵家の長女、エルナですのよ。

お名前が同じだなんて、奇遇でございますわね」


「同名同姓では、ありません」


ジルベストが、低く、口を挟んだ。


「私の妻は、ここにおります。

ヴァイス侯爵家の長女、エルナです。

ご令嬢、貴女様こそ、お名前を、間違えておられる」


ジルベストの声は、わずかに、抑揚を解いていた。

それは、彼が普段、決して使わない声だった。

意図的に乗せた【魅惑】ではなく、感情を抑えなくなった、生の声だった。


──ジルベスト様の、声が、違う。


何人かの貴族が、無意識に、息を呑んだ。


「あら、まあ……」


イリスは、まだ笑みを保っていた。

だが、笑みの内側で、彼女自身が、初めて、状況を読み違えていた。


姉は、社交界では「いない」存在のはずだった。

だが、姉は、ローエンクラム公爵の妻として、ここに「いた」。

そして、公爵が、姉を「私の妻」と、はっきり認めた。


それは、五年間、イリスが組み上げてきた構造の、最初のひびだった。


「……公爵様。

私は、間違いなく、ヴァイス侯爵家のエルナですのの。

お父様にも、お母様にも、確かめていただければ、お分かりになりますわ」


イリスは、そう言って、優雅に、別の貴族の方へ、移っていった。

歩きながら、彼女は、もう一度、エルナを振り返った。

その視線には、初めて、姉に対する「敵意」の色が、はっきりと、含まれていた。


エルナは、それを、見た。


──妹は、もう、私を「無能の姉」とは、思っていない。

──私が、社交界に「現れた」ことを、敵と認めた。


それを認識した瞬間、彼女の中で、初めて、戦う側の自分の、輪郭が、薄く立ち上がった。


「奥様」


ジルベストの声が、低く、彼女を呼んだ。


「お疲れですか」


「いいえ。──むしろ、はっきり、しました」


「何が、ですか」


エルナは、ジルベストを、見た。

そして、初めて、彼の前で、わずかに、笑みを浮かべた。


「私は、私の名を、取り戻したいのだと、いま、知りました」


ジルベストは、しばらく、彼女の笑みを、見ていた。

それから、革手袋越しに、彼女の腰に添えていた手を、ほんの少しだけ、強く、引き寄せた。


「では、それを、共に、いたしましょう」


エルナは、頷いた。


大広間のワルツは、まだ、続いていた。

何人かの貴族が、視線を、こちらに残していた。

イリスの背中は、もう、人混みの中に、消えかかっていた。


帰りの馬車の中で、エルナは、母の指輪を、内ポケットから取り出した。


水色の石は、いつもと同じ光を、返した。

だが、握る彼女の指の意味は、もう、屋根裏の頃の指の意味とは、違っていた。


奪還の意志、と呼ぶには、まだ、淡かった。

だが、確かに、灯ったものだった。


馬車の窓の外で、雪は、もう降っていなかった。

冬の終わりの空が、ようやく、淡く、光り始めていた。


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