「社交界の『姉エルナ』」
その夜会は、ベルゼル子爵家の主催で開かれた。
王都の中ほど、白亜の館の大広間。
百を少し超える程度の招待客で、王宮夜会よりは小規模だが、社交界の中堅層が一堂に会する、年に一度の重要な集まりだった。
エルナとジルベストは、二度目の夜会だった。
彼女のドレスは、前回と異なり、淡い灰色の絹に、襟元だけ銀の刺繍が入っていた。
ジルベストは、いつもの黒の上着、革手袋。
そして、いつもより一段、エルナの肩に近く立っていた。
「お疲れになられたら、私の腕に、何度でも、お頼りください」
「はい」
馬車の中で、彼はそう繰り返していた。
エルナは、彼の所作の変化に、薄く気づいていた。
クレメンスの話を聞いた夜から、ジルベストは、彼女に対して、距離の取り方を、少しだけ、変えていた。
冷たくなったわけではない。むしろ、一段、温かくなっていた。
だがエルナはそれを、まだ「気を遣ってくださっているのだろう」と、自分に言い聞かせていた。
──公爵様は、優しい方なのだ。
──きっと、それも、お役目の一部、なのだろう。
そう、思うことにした。
それ以上を、考えるのは、まだ怖かった。
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大広間に入ると、楽団がワルツを奏でていた。
何組かの貴族が、すでに踊っている。
人々は壁際で、シャンパンと果実水を片手に、軽い会話を交わしていた。
エルナとジルベストが入場すると、いくつかの視線が、こちらに集まった。
だが、王宮夜会の時のような、ざわめきはなかった。
ヴィクトリアの【炎雷】の話は、社交界の上位にだけ、密かに伝わっていた。
中堅層の貴族たちは、その夜の出来事を、まだ知らなかった。
「公爵様」
ベルゼル子爵が、まず挨拶に来た。
エルナも、教えられた通りに頭を下げた。
ジルベストが穏やかに会話を引き受け、エルナは隣で、笑みを薄く保っていた。
会話の半ばで、大広間の入口から、低いざわめきが起きた。
「あら、ヴァイス侯爵令嬢、お見えですわ」
エルナは、その声の主の方を、思わず見た。
入口から入ってきたのは、銀の髪を結い上げた、十五歳の少女だった。
純白に近い、淡い空色のドレス。胸元には、母の指輪と対だった、母の銀のブローチ。
朗らかな笑みで、左右に礼を振り撒きながら、ホールの中を進んでいる。
──イリス。
エルナの体が、わずかに、強張った。
ジルベストは、それを敏感に感じ取り、エルナの腰に、革手袋越しの手を、軽く添えた。
「奥様、ご無理なら、退場の口実を、私が」
「いえ。──お会いしてみたいです」
「分かりました」
エルナは、自分でも、なぜそう答えたのか、分からなかった。
だが、口から出た言葉だった。
イリスは、何人かの貴族と挨拶を交わしながら、ゆっくりと、こちらに近づいてきた。
彼女の視線は、最初、エルナを認識していなかった。
ジルベストの姿を見て、わずかに視線を上げ、それから、その隣の女性に、視線を移した。
そして、止まった。
イリスの瞳が、わずかに、見開かれた。
──姉、お姉さま。
エルナには、その口の動きが、見えた気がした。
だが、イリスは、すぐに、表情を取り直した。
朗らかな笑みは、崩れなかった。
むしろ、より深く、より柔らかくなった。
「あら、ローエンクラム公爵様」
イリスは、優雅に礼をした。
それから、エルナに、視線を移した。
「ローエンクラム公爵夫人、初めまして。
私、ヴァイス侯爵家の長女、エルナ・ヴァイスでございます」
大広間の空気が、わずかに、止まった。
エルナの背後で、ベルゼル子爵が、軽く咳払いをした。
近くにいた貴族の一人が、自分のシャンパンの杯を、止めた。
だが、皆、すぐに表情を取り戻した。
──知っている顔の、知っている令嬢が、知っている名を、名乗っている。
──不自然なことは、何もない。
そう、彼らの脳が、瞬時に処理した。
それが、イリスの【魅了】の働きだった。
エルナは、目の前の妹を、見ていた。
イリスは、エルナの「姉エルナ」の顔を、知らないはずだった。
六年間、エルナは家から出ていない。
夜会には、いつもイリスが「エルナ」として出ていた。
社交界に「本物のエルナ」を見たことがある人間は、ほんのわずかしかいない。
だから、イリスの賭けは、こうだった。
──私が「エルナ」と名乗れば、社交界はそれを信じる。
──姉が「いえ、私がエルナです」と言っても、誰も信じない。
──姉は、社交界では、最初から「いない」ことになっている。
エルナは、自分の指で、ドレスの袖の端を、わずかに握った。
そして、その握った指の下で、自分の心臓の鼓動が、思っていたより、ずっと、平静なのを感じた。
──怒り、ではない。
──悲しみ、でもない。
──ただ、これは、五年間ずっと、続いてきたことだ。
その認識が、彼女に、奇妙な落ち着きを与えていた。
「……ご丁寧に、ありがとうございます」
エルナは、頭を下げた。
深さは、相手の家格に対する、必要十分な角度。
角度は、屋敷で誰にも教えられず、独学で覚えたものだった。
「ご令嬢」
エルナは、低く、続けた。
「お名前を、間違えておられるのでは」
楽団のワルツだけが、やけに、鼓膜を、叩いた。
イリスの笑みが、ほんの一瞬、固まった。
だがすぐに、彼女は、首をかわいらしく傾けた。
「あら、何のことでしょう」
「私の名は、エルナ・ローエンクラム。
旧姓は、エルナ・ヴァイス。
私は、ヴァイス侯爵家の長女です」
声は、震えなかった。
むしろ、彼女自身が驚くほど、まっすぐに、響いた。
イリスの周囲の貴族たちが、顔を見合わせ始めた。
──同じ名を、二人が名乗っている。
──こんなことは、ありえない。
そう、彼らの頭の中で、初めての疑問が、ようやく芽生えた。
イリスの【魅了】は、強かったが、複数の同時の疑問には、わずかに、緩むことがあった。
「あら、奥様」
イリスは、笑みを取り戻した。
「お似た名の方は、世の中に、いらっしゃるものですわ。
ですが、私こそが、ヴァイス侯爵家の長女、エルナですのよ。
お名前が同じだなんて、奇遇でございますわね」
「同名同姓では、ありません」
ジルベストが、低く、口を挟んだ。
「私の妻は、ここにおります。
ヴァイス侯爵家の長女、エルナです。
ご令嬢、貴女様こそ、お名前を、間違えておられる」
ジルベストの声は、わずかに、抑揚を解いていた。
それは、彼が普段、決して使わない声だった。
意図的に乗せた【魅惑】ではなく、感情を抑えなくなった、生の声だった。
──ジルベスト様の、声が、違う。
何人かの貴族が、無意識に、息を呑んだ。
「あら、まあ……」
イリスは、まだ笑みを保っていた。
だが、笑みの内側で、彼女自身が、初めて、状況を読み違えていた。
姉は、社交界では「いない」存在のはずだった。
だが、姉は、ローエンクラム公爵の妻として、ここに「いた」。
そして、公爵が、姉を「私の妻」と、はっきり認めた。
それは、五年間、イリスが組み上げてきた構造の、最初のひびだった。
「……公爵様。
私は、間違いなく、ヴァイス侯爵家のエルナですのの。
お父様にも、お母様にも、確かめていただければ、お分かりになりますわ」
イリスは、そう言って、優雅に、別の貴族の方へ、移っていった。
歩きながら、彼女は、もう一度、エルナを振り返った。
その視線には、初めて、姉に対する「敵意」の色が、はっきりと、含まれていた。
エルナは、それを、見た。
──妹は、もう、私を「無能の姉」とは、思っていない。
──私が、社交界に「現れた」ことを、敵と認めた。
それを認識した瞬間、彼女の中で、初めて、戦う側の自分の、輪郭が、薄く立ち上がった。
「奥様」
ジルベストの声が、低く、彼女を呼んだ。
「お疲れですか」
「いいえ。──むしろ、はっきり、しました」
「何が、ですか」
エルナは、ジルベストを、見た。
そして、初めて、彼の前で、わずかに、笑みを浮かべた。
「私は、私の名を、取り戻したいのだと、いま、知りました」
ジルベストは、しばらく、彼女の笑みを、見ていた。
それから、革手袋越しに、彼女の腰に添えていた手を、ほんの少しだけ、強く、引き寄せた。
「では、それを、共に、いたしましょう」
エルナは、頷いた。
大広間のワルツは、まだ、続いていた。
何人かの貴族が、視線を、こちらに残していた。
イリスの背中は、もう、人混みの中に、消えかかっていた。
帰りの馬車の中で、エルナは、母の指輪を、内ポケットから取り出した。
水色の石は、いつもと同じ光を、返した。
だが、握る彼女の指の意味は、もう、屋根裏の頃の指の意味とは、違っていた。
奪還の意志、と呼ぶには、まだ、淡かった。
だが、確かに、灯ったものだった。
馬車の窓の外で、雪は、もう降っていなかった。
冬の終わりの空が、ようやく、淡く、光り始めていた。




