「クレメンスの墓」 ※残酷シーン②
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契約結婚から、もうすぐ一年になろうとしていた。
王都の北の丘に、騎士団の墓所があった。
冬の終わりの午後、雪はもうほとんど解けていた。
丘の中腹、白い柵に囲まれた一角に、銀の十字架が、整然と並んでいる。
歴代の騎士たちの、永い眠りの場所だった。
ジルベストは、馬車をふもとに停め、エルナを伴って、丘を歩いて登った。
彼の手には、淡い白の薔薇の花束が一束、握られていた。
革手袋は、まだ、外していなかった。
「奥様」
斜面の途中で、ジルベストは、立ち止まった。
「これから、お見せするのは、私が、長く、誰にも見せてこなかった場所です。
無理にお付き合いいただかなくとも、結構です」
「いえ。──ご一緒します」
エルナの声は、迷いがなかった。
ジルベストは、頷き、また斜面を登り始めた。
丘の頂に近い、五本目の十字架の前で、彼は止まった。
十字架は、他のものより、ほんの少しだけ、新しい銀色をしていた。
五年前に立てられた墓標。
『クレメンス・フォーレ
第三騎士団 副官
享年二十一』
ジルベストは、薔薇の花束を、十字架の根元に置いた。
そしてしばらく、何も言わずに、立ち尽くした。
エルナは、彼の少し後ろに、控えていた。
墓地の冷たい空気が、襟元から忍び込み、首筋の傷の上を、薄く撫でていった。
ジルベストは、ゆっくりと、革手袋を、外した。
両方の手袋を、片手に重ねて、墓標の縁に、置いた。
それは、エルナがこの屋敷に来てから、初めて見る、彼の素手だった。
長い指、青白い肌、爪の根まで丁寧に整えられた手。
指の関節に、戦時のものらしい、古い小さな傷が、いくつかあった。
ジルベストは、しばらく、自分の素手を、見ていた。
それから、低く、語り始めた。
「クレメンスは、北方戦線で、私の隣にいました」
エルナは、黙って、聞いていた。
馬車の中で聞いたのは、名前と、彼が死んだという事実だけだった。
ジルベストは、それを、知っていた。
だから、ここでは、輪郭ではなく、中身を、話すつもりだった。
「彼は、私と同い年で、私と同じ年に騎士団に入りました。
酒癖が悪く、口は荒く、しかし剣の腕は、団でも五本の指に入る男でした。
彼は、私に、敬語を使ったことが、一度もありませんでした」
ジルベストの声に、一瞬、笑みが、混じった。
すぐに消えた。
「『お前のスキルなんて、関係ない』と、彼は、いつも言っていた。
『俺は、お前の声を聞いて惚れる女どもとは、違う。
俺は、お前のことを、ただの剣の相棒として、見てる。それで十分だ』」
ジルベストは、墓標に、手を置いた。
冷たい銀の表面に、彼の素手が、重なった。
「最初の三年は、本当に、そうでした。
クレメンスは、私の【魅惑】に、影響されているように見えませんでした。
『俺だけは、お前の例外だ』と、彼は、誇りに、していました」
「……」
「だが、四年目から、彼の様子は、少しずつ、崩れていきました。
目を、合わせたまま、話せなくなった。
声をかけると、頬の色が変わり、それを、隠すように顔を背けた。
腕の傷に伸びかけた指を、彼自身が、途中で、握りしめて止めるのを、私は、何度も、見ました」
ジルベストの素手が、墓標の銀の表面を、軽く、撫でた。
「クレメンスは、自分の中の【魅惑】の浸食に、気づいていました。
気づいたときには、すでに、抜け出せない深さに、入っていた。
彼は、配置転換を、何度も、申し出ました。
私も、それを、止めませんでした」
ジルベストの呼吸が、わずかに、深くなった。
「ですが、配置を変えても、彼の中の魅惑は、消えなかった。
彼は、私と離れた地で、毎日のように、酒を飲むようになった。
酔っては、私の名を、叫んで、泣いていた、と。
それを聞いたのは、彼の戦友の、ひとりからでした」
エルナは、ジルベストの背を、見ていた。
その背は、何かに、抗っていた。
──「言葉を続ける」ということに、抗っていた。
だが、彼は、続けた。
「五年前の、雪の朝。
クレメンスは、自分の駐屯地の宿舎で、自分の剣で、自分の胸を、突きました」
ジルベストの素手の指が、墓標の銀の上で、震えた。
「遺書には、こうありました。
『俺は、お前を慕っているが、これは俺の心ではない。
俺は、最後に、自分の心を取り戻したい。
だから、お前の届く前に、自分で、終わらせる。
ジルベスト、お前を恨んではいない。だが、もう、隣には、いられない』」
エルナの喉が、小さく、鳴った。
馬車の中で聞いた言葉は、輪郭でしかなかった。
その輪郭の中身が、今、墓標を前にして、彼女の表情から、色を失わせていくのを、ジルベストは、見ていた。
「私は、彼の遺体を、自分の馬で、王都まで運びました。
帰路の三日間、彼を、馬の背に、しっかりと括り付けて。
途中で、何人かの戦友が、彼を埋葬すべきだと、私に言いました。
ですが、私は、聞き入れませんでした。
彼を、彼の墓所に、ちゃんと、戻したかった」
ジルベストの声は、抑揚を、もう、殺せていなかった。
「彼を、ここに、葬りました。
そして、私は、革手袋を、外さない男に、なりました」
ジルベストの素手が、墓標から、離れた。
彼は、その手を、しばらく、宙で、止めていた。
雪が、わずかに、舞い始めた。
冬の終わりの、最後の名残のような、淡い雪だった。
エルナは、彼の背の少し後ろから、二歩、前に進んだ。
そして、彼の隣に立った。
ジルベストは、振り向かなかった。
だが、視線の端で、彼女が隣に来たのを、確かに、見ていた。
エルナは、自分の右手を、ゆっくりと、上げた。
そして、そっと、ジルベストの素手の指に、自分の素手を、重ねた。
ジルベストの体が、強張った。
──素手と、素手が、触れた。
何年ぶりだったか、彼自身、覚えていなかった。
誰かに、革手袋なしで、触れられたのは。
エルナの掌は、冷たかった。
痩せた、骨ばった、しかし、まっすぐに、彼に触れる掌だった。
何も、起きなかった。
エルナの呼吸も、頬の色も、視線の角度も、変わらなかった。
彼女の中に、何も、流れ込んでいかなかった。
彼の【魅惑】は、彼女の体の表面を、ただ、滑り落ちて、地面に消えた。
ジルベストは、自分の手の上に重なった、痩せた指を、見た。
「奥様」
「はい」
「貴女には、何も、起きないのですね」
「……はい」
「私の【魅惑】は、貴女には、届いていないのですね」
エルナは、しばらく、答えなかった。
それから、わずかに、首を傾げた。
「公爵様。
私は、もしかすると、貴方様の【魅惑】が、何なのかも、よく、分かっていないのかもしれません」
「と、言われますと」
「人が、誰かに惹かれるのは、私にとっては、ずっと、妹の【魅了】の結果でした。
家でも、屋敷の外でも、社交界でも。
誰かが、誰かに、惹かれて、好きになって、慕う、という現象を、私は、自分の意志として、見たことが、ありません」
エルナの声は、淡々としていた。
だが、その淡々さの中に、長い諦めが、薄く溶けていた。
「ですから、貴方様の【魅惑】が、いま、私に届いていないとしても。
私には、それが『届いていない』のか、『私が知らないだけ』なのか、分からないのです」
ジルベストは、しばらく、息を、止めた。
それから、長く、息を吐いた。
「……奥様」
「はい」
「貴女は、いつか、それが分かる日が、来ます」
「来ますか」
「来ます。──それまで、私が、隣にいさせて、いただいてもよろしいですか」
エルナは、彼の素手の上の、自分の指を、見た。
痩せた、屋根裏の指が、誰かの指の上に、重なっている。
それは、彼女が長く、想像したこともなかった景色だった。
「……はい」
「ありがとう、ございます」
ジルベストの素手が、ようやく、わずかに、動いた。
重ねられたエルナの指の上に、彼のもう一方の素手が、ゆっくりと、置かれた。
両方の素手が、エルナの指を、挟んでいた。
雪は、もう、舞っていなかった。
墓標の銀の表面に、薄い水の膜だけが、残っていた。
ふたりは、長く、その姿勢で、立っていた。
クレメンスの墓は、静かに、それを、見ていた。
ジルベストは、静かに、語った。
「クレメンス、すまない」
声は、墓標にだけ、届いた。
「君を、苦しめた、私のスキルが、ようやく、誰にも届かない人間に、届かなかった。
私は、生涯、君に、罪を、抱える。
だが、君が許してくれるなら、私は、彼女の隣に、いさせてもらおうと、思う」
墓標の銀は、答えなかった。
だが、丘の風が、わずかに、薔薇の花束を、揺らした。
ふたりは、しばらく、墓所を、後にしなかった。
帰りの馬車の中で、ジルベストは、革手袋を、すぐには、嵌めなかった。
膝の上に、両方の素手を、置いていた。
エルナは、その手を、見ながら、自分の手のひらの感触を、まだ、覚えていた。
王都に、夕日が落ち始めていた。
丘から見た王都は、雪解けの淡い銀色に、染まっていた。




