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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「暗殺未遂」

クレメンスの墓所から戻った数日後から、奇妙な「事故」が、エルナの周囲で起き始めた。


最初は、茶だった。


朝の食卓に、いつものように紅茶が運ばれてきた。

マリエッタが淹れたものではなく、その日は、新しく雇われた台所係の女が、淹れたものだった。

エルナはそれに、何の警戒もなく、口をつけた。

味は、いつもより、わずかに、苦かった。

だが、苦み程度のことを、不審に思うほど、彼女は神経質ではなかった。


茶を半分ほど飲んだ頃、台所からカイが、慌てた様子で食堂に駆け込んできた。


「奥様、その茶を、お下げいたします」


「……何か、ございましたか」


「新しく雇った台所係が、姿を消しました。

台所の棚から、薬の小瓶が、一つ、なくなっております」


エルナは、茶器を見た。

そして、自分の指先を、見た。


体には、何も、起きていなかった。


「……私は、何ともございません」


「ですが、念のため」


カイは、茶器を下げ、すぐに医師を呼んだ。

医師はエルナの脈を取り、瞳を確認し、舌を見、首をかしげた。


「毒の症状は、見られません。

仮に毒が入っていたとしても、奥様の体には、入っていない、ということになります」


カイは、表情を変えなかった。

だが、書斎に駆け込んで、ジルベストにそれを報告した。


ジルベストは、長く、沈黙した。

それから、低く、言った。


「警備を、二倍にしてくれ。

私の出る用件以外、奥様は、屋敷の中におらせる」


「かしこまりました」


---


二度目は、街路だった。


王都の本通りにある、王立図書館の閲覧申請のために、エルナはジルベストと共に外出した。

図書館は、公爵家の管轄ではなかったが、ジルベストが「奥様が興味を持たれているなら」と、申請の段取りを取り付けてくれていた。


馬車を降りて、図書館の階段を上がり始めたときだった。


通りの反対側、二階建ての建物の屋根から、何かが、放たれた。

細い、一本の、魔法の矢。


矢は、青い光の尾を引きながら、大通りの空気を裂いて飛んだ。

一秒に満たないその軌跡が、エルナの目には、やけに長く映った。


ジルベストが、それに気づいて、エルナを庇おうと、咄嗟に体を寄せた。

間に合うか、間に合わないか。

その一瞬の判断さえ、追い越して、矢は来た。


矢の先端が、エルナの肩の布に触れる。

触れて──そのまま、進んだ。


肩には、何も残らなかった。


矢は、彼女の後ろの、図書館の階段の手すりに、深く突き刺さった。

木製の手すりが、鈍い音を立てて、震えた。

矢のやじりから、青い魔力が糸のようにほどけ、霧に変わって消えていった。


通りに、ざわめきが起きた。


ジルベストが、屋根の方角を、鋭く見た。

だが、人影は、すでに、消えていた。


「奥様、お屋敷へ、戻ります」


ジルベストの声は、抑えていたが、緊張で、わずかに、固かった。


馬車に戻ったエルナは、自分の肩を、見た。


ドレスは、何も、傷ついていなかった。

肩の皮膚にも、痕は、なかった。

だが、矢が「通った」感覚だけは、確かに、あった。


──風のような、感触。

──通り過ぎた、という、ただ、それだけの。


馬車の中で、ジルベストは、革手袋越しに、エルナの肩に手を当てた。


「お痛みは」


「ありません」


「本当に」


「……はい。何も、感じませんでした」


ジルベストは、長く、息を吐いた。

それから、低く、言った。


「私が、お守りすべきところを、しきれませんでした。──申し訳ございません」


「いえ。──公爵様のせいでは、ございません」


エルナは、ジルベストを、見た。


ジルベストの氷青の瞳には、長い緊張が、滲んでいた。

彼は、エルナを「庇えなかった」ことを、何より、悔いていた。


エルナは、そのとき、初めて、気づいた。


──公爵様は、本気で、私を、守ろうと、なさっている。


それは、契約の枠を、超えていた。

業務として、ではなく。

責任として、ではなく。

ただ、彼自身の、内側からの、何かとして。


その気づきは、彼女の中で、まだ言葉にはならなかった。

だが、確かに、灯った。


---


三度目は、夜だった。


その晩、ジルベストとエルナは、別の貴族家の小規模な晩餐会に招かれていた。

帰路、王都の郊外を抜けるあたりで、馬車の前方の街道に、突然、馬が一頭、現れた。


御者が、咄嗟に手綱を引いた。

だが、馬車の左前方の車輪が、見えない何かに引っかかったように、不自然に、傾いた。

馬車が大きく揺れ、車軸が軋んだ。

そのまま、横転しかけた。


ジルベストが、エルナを抱きかかえるように、自分の側に引き寄せた。


馬車の左側が、深く、土手に向かって、傾いた。

傾いた瞬間、街道の脇の木陰から、二人の人影が、現れた。

彼らの手には、短刀が、握られていた。


ジルベストは、エルナを抱えたまま、馬車の右の扉から、転がり出た。


二人の人影は、エルナを目掛けて、刃を振り下ろした。


刃が、肩に、届く。


──何も。


血は、流れなかった。

傷も、つかなかった。

布だけが、裂けて、風に舞った。


肉と骨は、刃を、拒んだ。


「な──」


刺客の二人は、自分の手元を、見た。


その隙に、ジルベストが、片手で、二人を打ち倒した。

片手にしては、見事な、動きだった。

かつて第三騎士団副長だった男の、本気の動きだった。


二人の刺客は、地面に、転がった。


ジルベストが、二人の襟を、片手で掴んだ。


「誰の、差し金だ」


「……」


「答えろ」


刺客の一人が、冷たい笑みを、浮かべた。

そして、自分の歯の奥を、噛み砕いた。

口の端から、黒い液が、流れた。

彼は、即死した。


もう一人も、同じく、自決した。


ジルベストは、しばらく、二人の遺体を、見ていた。

それから、エルナの肩を、確かめた。


「お怪我は」


「……ありません。布だけ、です」


「そうですか。──奥様、戻ります」


エルナは、頷いた。


破損した馬車は、御者が応急処置をした。

ジルベストは、エルナを抱えるようにして、馬車の中に戻した。

帰路、彼の革手袋越しの腕は、エルナの肩を、ずっと、軽く、支えていた。


馬車の中で、エルナは、自分の体を、見ていた。


毒は、効かなかった。

矢は、肌に届かなかった。

刃は、拒まれた。


──三度。

──三度、私の体は、何も、受け付けなかった。


それは、もはや、偶然では、ありえなかった。


エルナは、震える声で、ジルベストに、問うた。


「公爵様」


「はい」


「私は、人間では、ないのですか」


ジルベストは、彼女を、しばらく、見ていた。

それから、革手袋を、ゆっくりと、外した。


外した素手で、エルナの頬に、初めて、直接、触れた。


エルナの体が、わずかに、震えた。

だが、避けなかった。


「貴女は、人間です」


ジルベストの声は、低く、しかし、揺るぎなかった。


「誰よりも、人間です」


「……」


「貴女の体には、特別な性質が、ある。

それは、明日、クラウスを呼んで、貴女自身に、ご説明いただきます。

今夜は、まず、お屋敷に、戻りましょう。

そして、湯を、浴びて、休んでください」


エルナの頬の上の、ジルベストの素手は、温かかった。


クレメンスの墓所で、初めて触れたときよりも、ずっと、温かかった。


エルナは、その温かさに、ようやく、こらえていた何かを、緩めた。

頬の上に、彼の素手の感触が、残ったまま、彼女の瞳の縁に、薄く、涙が、滲んだ。

泣いたのではなかった。

ただ、緩んだだけだった。


「……公爵様」


「はい」


「私は、私が、何であるかを、知りたいです」


「ええ」


「明日、お聞かせ、ください」


「お約束、いたします」


馬車は、夜の街道を、王都の方角に、進み続けた。


ジルベストの素手は、エルナの頬から、やがて離れた。

だが、革手袋を、すぐには、嵌めなかった。

彼の素手は、馬車の座席の上で、エルナの手の隣に、無造作に、置かれていた。


エルナは、自分の手を、彼の素手の隣に、そっと、置いた。

触れはしなかった。

だが、距離は、もう、屋根裏の頃の世界より、ずっと、近かった。


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