「あなたは最強だ」
翌朝、書斎には、四人の人間が集まった。
ジルベスト、エルナ、執事カイ、そして、宮廷魔導院から呼ばれた研究者クラウス・ヘルガード。
書斎の中央の机の上には、クラウスが持ち込んだ書類と、古い文献が、いくつも、広げられていた。
窓の外は、雪解けの淡い光が、差していた。
朝の九時、屋敷は、いつもより静かだった。
エルナは、革張りの椅子に、姿勢正しく座っていた。
白いブラウスに、黒のスカート。屋内服のいちばん簡素なもの。
彼女は、ジルベストから、「今朝は、楽な格好で、来てください」と言われていた。
クラウスは、机の脇に立ち、銀縁の眼鏡を、軽く押し上げた。
「奥様」
「はい」
「初めまして、と申し上げるべきですが、先日、お屋敷で、お見かけしておりました。
クラウス・ヘルガード。宮廷魔導院、第三研究室所属。
ジルベストとは、学生時代からの、長い友人です」
「初めまして、ヘルガード様」
クラウスは、礼を返した。
そして、机の上に、小さな魔導具を、置いた。
魔導具は、銀の小皿に、淡い青の水晶を一つ、嵌め込んだものだった。
直径は、エルナの掌くらい。
水晶は、まだ、何の光も、放っていなかった。
「これは、簡易版の鑑定盤です」
クラウスの声は、研究者らしく、淡々としていた。
「魔導院の正式な鑑定盤を、奥様の前に、お運びすることはできません。
教会の管轄ですので。
ですが、これは、私が研究用に作ったもので、教会の鑑定盤と、同じ原理で作動します。
精度は劣りますが、傾向は、はっきりと、出ます」
エルナは、小さく、頷いた。
膝の上の掌に、薄く、汗が滲んでいた。
「奥様、この水晶の上に、掌を、軽く、置いていただけますか」
エルナは、自分の右手を、ゆっくりと、伸ばした。
水晶の上に、痩せた掌を、そっと、重ねた。
その瞬間、水晶は、本来であれば、淡い色を帯びるはずだった。
赤、青、緑、紫。
被験者の魔力経路の「色」を、水晶が読み、それを、皿の縁の文字盤に、表示する。
それが、鑑定の基本原理だった。
水晶は、何も、しなかった。
光らなかった。
色を、帯びなかった。
皿の縁の文字盤は、ぴくりとも、動かなかった。
エルナの掌は、ただ、水晶の上に、置かれていた。
水晶は、ただ、エルナの掌を、受けていた。
それだけだった。
「……」
エルナは、しばらく、自分の掌を、見ていた。
それから、ゆっくりと、上げた。
「私は、また、無反応、ですか」
クラウスは、首を、横に振った。
「いいえ、奥様。
これが、奥様の、答えです」
「答え、ですか」
「奥様」
クラウスは、机の脇に置いていた、古い文献を、エルナの方に向けた。
表紙には、『鑑定の儀におけるスキル不発現症例集』と、銀の箔押しで、書かれていた。
「鑑定盤というものは、被験者の魔力経路に、外から軽い魔力を流し込み、戻ってきた『色』を読む装置です。
被験者が魔力経路を持っていれば、必ず、何らかの『色』が、戻ってきます。
F級と呼ばれる方々でも、薄い色は、戻ってきます。
完全に、何の反応もない、というのは、別の現象なのです」
エルナの視線が、机の上の水晶へ、戻った。
何の光も、まだ、そこには、なかった。
クラウスは、文献の中ほどのページを、開いた。
そこには、古い字で、こう、書かれていた。
『魔力無干渉
──外部から放たれたあらゆる魔力を、体内に取り込まず、素通りさせる、希少体質。
鑑定盤の魔力すら通さないため、儀式上は『無反応』と判定される。
歴代千年の記録において、確認された事例は、合計六名。
教会は、これを、SSS級として、極秘扱いにしている』
「奥様の場合は、記録にある六名よりも、さらに、徹底しています」
クラウスは、声を、低くした。
「毒や刃のように、魔力を伴わない害さえ、届いていない。
外部から、ご本人の意志に反して、何かを『変える』働きかけそのものを、あらゆる形で、跳ね返しておられる。
これは、歴代の記録にもない、前例のない強さです」
エルナは、文献の文字を、長く、見ていた。
「……SSS級」
「ええ。──奥様。
あなたのスキルは、F級では、ありません。
あなたは、最強の側に、いらっしゃいます」
クラウスの声は、淡々としていたが、その淡々さが、却って、言葉の重さを、はっきりと、伝えていた。
エルナは、しばらく、何も、言わなかった。
書斎の窓の外で、屋根の雪が、ゆっくりと、滑り落ちる音が、ひとつ、響いた。
「では」
エルナは、ようやく、口を、開いた。
「私が、母から奪われ、屋根裏に閉じ込められ、無能と呼ばれてきた、六年間は」
「……」
「すべて、教会と、家族の、誤判定の、結果ですか」
クラウスは、エルナを、まっすぐに見た。
「奥様」
「はい」
「正確に申し上げれば、誤判定では、ありません。
教会は、『無反応』を、F級と公称しています。
本当にF級であった方も、確かに、いらっしゃいます。
ですが、ごく稀に、奥様のような、『無干渉』の方が、混じっています。
教会は、それを、見分ける、術を、持っています」
「では、なぜ」
「言わない、のです」
クラウスの声は、わずかに、低くなった。
「『無干渉』が公開されれば、教会の『鑑定の儀』が、揺らぎます。
彼らは、これまで、何百年も、何人もの『無干渉』持ちを、F級として、握りつぶしてきた可能性があります。
それを公開すれば、教会の権威は、根本から、失墜します」
エルナは、自分の指を、見た。
その指は、屋根裏で、ずっと、繕い物をしてきた指だった。
誰にも、見られず、誰にも、認められず、ただ、繕い物だけを、続けてきた指だった。
──私の六年は、教会の権威のために、誰かが、私を「無能」と書き換えた、結果だった。
その認識は、ゆっくりと、彼女の中に、降りてきた。
エルナは、机の上の、簡易鑑定盤の水晶を、もう一度、見た。
水晶は、まだ、何の光も、帯びていなかった。
だが、それは、彼女の「無能の証」では、なかった。
彼女の「最強の証」だった。
──私は、無能では、なかった。
それは、当然のことを、ようやく、自分自身に、認められた瞬間だった。
だが、その瞬間の彼女の胸には、喜びは、なかった。
膝の上で、指が、スカートの布を、強く、握り込んだ。
母は、五年前に、亡くなった。
母は、エルナが「無能」と呼ばれて屋根裏に閉じ込められる、最後の場面を、見ていた。
母には、もう、エルナの「真実」を、伝えることが、できない。
「……お母さま」
エルナの呟きは、机の縁に、薄く、落ちた。
ジルベストは、しばらく、彼女を、見ていた。
それから、ゆっくりと、机を回って、彼女の隣に来た。
言葉をかける代わりに、彼は片手の革手袋を外し、彼女の肩に、そっと素手を置いた。
「奥様」
「はい」
「ご無理は、なさらないでください。
今日のことを、すべて、消化される必要は、ありません。
時間をかけて、少しずつ、お受け止めいただければ、それで、十分です」
エルナは、ジルベストの素手を、肩の上で、感じた。
革手袋越しではない、彼の指の温かさが、肩の薄い布の上から、伝わってきた。
そして、初めて、彼女は、思った。
──公爵様の、この温かさ、を。
──私は、屋根裏に閉じ込められて、知らずにいた。
その想いも、まだ、彼女の中で、言葉には、ならなかった。
窓の外で、雪が、もう一筋、滑り落ちた。
エルナは、机の脇に置いていた小さな袋から、母の指輪を、取り出した。
銀の細い輪。水色の小石。
燭台の灯にかざすと、いつもと同じ光を、返した。
「お母さまに、お伝えしたいことが、できました」
エルナは、低く、言った。
「私は、無能では、ありませんでした、と」
「……」
「そして、私は、奪われたものを、取り戻したいと、思います」
ジルベストは、しばらく、彼女を、見ていた。
それから、肩に置いた素手を、もう少し、強く、押した。
「お手伝い、いたします」
「はい」
「ですが、それは、明日からで、十分です。
今日は、ゆっくり、お休みください」
エルナは、頷いた。
クラウスは、書斎の隅で、ノートを取りながら、二人の会話を、静かに、聞いていた。
それから、銀縁の眼鏡を、軽く外して、目元を、押さえた。
「ジルベスト」
クラウスは、低く、声を、かけた。
「お前、ようやく、自分の声を、誰かに、届かせる先を、見つけたな」
ジルベストは、答えなかった。
だが、答えなかった、ということが、答えだった。
書斎の机の上で、簡易鑑定盤の水晶は、依然として、無光のままだった。
だが、書斎の四人にとって、その無光の意味は、もう、六年前のものとは、まったく違っていた。
無光は、無能では、ない。
無光は、すべてを、素通りさせる、最強の証だった。
エルナは、水晶を、長く、見ていた。
そして、そこに、自分の指輪を、そっと、寄せた。
水晶と指輪は、机の上で、ふたつの銀の光を、並べた。
ふたつの光は、同じ、静けさで、燭台の灯を、返した。




