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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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16/26

「あなたは最強だ」

翌朝、書斎には、四人の人間が集まった。


ジルベスト、エルナ、執事カイ、そして、宮廷魔導院から呼ばれた研究者クラウス・ヘルガード。


書斎の中央の机の上には、クラウスが持ち込んだ書類と、古い文献が、いくつも、広げられていた。

窓の外は、雪解けの淡い光が、差していた。

朝の九時、屋敷は、いつもより静かだった。


エルナは、革張りの椅子に、姿勢正しく座っていた。

白いブラウスに、黒のスカート。屋内服のいちばん簡素なもの。

彼女は、ジルベストから、「今朝は、楽な格好で、来てください」と言われていた。


クラウスは、机の脇に立ち、銀縁の眼鏡を、軽く押し上げた。


「奥様」


「はい」


「初めまして、と申し上げるべきですが、先日、お屋敷で、お見かけしておりました。

クラウス・ヘルガード。宮廷魔導院、第三研究室所属。

ジルベストとは、学生時代からの、長い友人です」


「初めまして、ヘルガード様」


クラウスは、礼を返した。

そして、机の上に、小さな魔導具を、置いた。


魔導具は、銀の小皿に、淡い青の水晶を一つ、嵌め込んだものだった。

直径は、エルナの掌くらい。

水晶は、まだ、何の光も、放っていなかった。


「これは、簡易版の鑑定盤です」


クラウスの声は、研究者らしく、淡々としていた。


「魔導院の正式な鑑定盤を、奥様の前に、お運びすることはできません。

教会の管轄ですので。

ですが、これは、私が研究用に作ったもので、教会の鑑定盤と、同じ原理で作動します。

精度は劣りますが、傾向は、はっきりと、出ます」


エルナは、小さく、頷いた。

膝の上の掌に、薄く、汗が滲んでいた。


「奥様、この水晶の上に、掌を、軽く、置いていただけますか」


エルナは、自分の右手を、ゆっくりと、伸ばした。

水晶の上に、痩せた掌を、そっと、重ねた。


その瞬間、水晶は、本来であれば、淡い色を帯びるはずだった。

赤、青、緑、紫。

被験者の魔力経路の「色」を、水晶が読み、それを、皿の縁の文字盤に、表示する。

それが、鑑定の基本原理だった。


水晶は、何も、しなかった。


光らなかった。

色を、帯びなかった。

皿の縁の文字盤は、ぴくりとも、動かなかった。


エルナの掌は、ただ、水晶の上に、置かれていた。

水晶は、ただ、エルナの掌を、受けていた。

それだけだった。


「……」


エルナは、しばらく、自分の掌を、見ていた。

それから、ゆっくりと、上げた。


「私は、また、無反応、ですか」


クラウスは、首を、横に振った。


「いいえ、奥様。

これが、奥様の、答えです」


「答え、ですか」


「奥様」


クラウスは、机の脇に置いていた、古い文献を、エルナの方に向けた。

表紙には、『鑑定の儀におけるスキル不発現症例集』と、銀の箔押しで、書かれていた。


「鑑定盤というものは、被験者の魔力経路に、外から軽い魔力を流し込み、戻ってきた『色』を読む装置です。

被験者が魔力経路を持っていれば、必ず、何らかの『色』が、戻ってきます。

F級と呼ばれる方々でも、薄い色は、戻ってきます。

完全に、何の反応もない、というのは、別の現象なのです」


エルナの視線が、机の上の水晶へ、戻った。

何の光も、まだ、そこには、なかった。


クラウスは、文献の中ほどのページを、開いた。


そこには、古い字で、こう、書かれていた。


魔力無干渉(まりょくむかんしょう)

──外部から放たれたあらゆる魔力を、体内に取り込まず、素通りさせる、希少体質。

鑑定盤の魔力すら通さないため、儀式上は『無反応』と判定される。

歴代千年の記録において、確認された事例は、合計六名。

教会は、これを、SSS級として、極秘扱いにしている』


「奥様の場合は、記録にある六名よりも、さらに、徹底しています」


クラウスは、声を、低くした。


「毒や刃のように、魔力を伴わない害さえ、届いていない。

外部から、ご本人の意志に反して、何かを『変える』働きかけそのものを、あらゆる形で、跳ね返しておられる。

これは、歴代の記録にもない、前例のない強さです」


エルナは、文献の文字を、長く、見ていた。


「……SSS級」


「ええ。──奥様。

あなたのスキルは、F級では、ありません。

あなたは、最強の側に、いらっしゃいます」


クラウスの声は、淡々としていたが、その淡々さが、却って、言葉の重さを、はっきりと、伝えていた。


エルナは、しばらく、何も、言わなかった。


書斎の窓の外で、屋根の雪が、ゆっくりと、滑り落ちる音が、ひとつ、響いた。


「では」


エルナは、ようやく、口を、開いた。


「私が、母から奪われ、屋根裏に閉じ込められ、無能と呼ばれてきた、六年間は」


「……」


「すべて、教会と、家族の、誤判定の、結果ですか」


クラウスは、エルナを、まっすぐに見た。


「奥様」


「はい」


「正確に申し上げれば、誤判定では、ありません。

教会は、『無反応』を、F級と公称しています。

本当にF級であった方も、確かに、いらっしゃいます。

ですが、ごく稀に、奥様のような、『無干渉』の方が、混じっています。

教会は、それを、見分ける、術を、持っています」


「では、なぜ」


「言わない、のです」


クラウスの声は、わずかに、低くなった。


「『無干渉』が公開されれば、教会の『鑑定の儀』が、揺らぎます。

彼らは、これまで、何百年も、何人もの『無干渉』持ちを、F級として、握りつぶしてきた可能性があります。

それを公開すれば、教会の権威は、根本から、失墜します」


エルナは、自分の指を、見た。


その指は、屋根裏で、ずっと、繕い物をしてきた指だった。

誰にも、見られず、誰にも、認められず、ただ、繕い物だけを、続けてきた指だった。


──私の六年は、教会の権威のために、誰かが、私を「無能」と書き換えた、結果だった。


その認識は、ゆっくりと、彼女の中に、降りてきた。


エルナは、机の上の、簡易鑑定盤の水晶を、もう一度、見た。

水晶は、まだ、何の光も、帯びていなかった。

だが、それは、彼女の「無能の証」では、なかった。

彼女の「最強の証」だった。


──私は、無能では、なかった。


それは、当然のことを、ようやく、自分自身に、認められた瞬間だった。


だが、その瞬間の彼女の胸には、喜びは、なかった。

膝の上で、指が、スカートの布を、強く、握り込んだ。


母は、五年前に、亡くなった。

母は、エルナが「無能」と呼ばれて屋根裏に閉じ込められる、最後の場面を、見ていた。

母には、もう、エルナの「真実」を、伝えることが、できない。


「……お母さま」


エルナの呟きは、机の縁に、薄く、落ちた。


ジルベストは、しばらく、彼女を、見ていた。

それから、ゆっくりと、机を回って、彼女の隣に来た。


言葉をかける代わりに、彼は片手の革手袋を外し、彼女の肩に、そっと素手を置いた。


「奥様」


「はい」


「ご無理は、なさらないでください。

今日のことを、すべて、消化される必要は、ありません。

時間をかけて、少しずつ、お受け止めいただければ、それで、十分です」


エルナは、ジルベストの素手を、肩の上で、感じた。

革手袋越しではない、彼の指の温かさが、肩の薄い布の上から、伝わってきた。


そして、初めて、彼女は、思った。


──公爵様の、この温かさ、を。

──私は、屋根裏に閉じ込められて、知らずにいた。


その想いも、まだ、彼女の中で、言葉には、ならなかった。


窓の外で、雪が、もう一筋、滑り落ちた。


エルナは、机の脇に置いていた小さな袋から、母の指輪を、取り出した。

銀の細い輪。水色の小石。

燭台の灯にかざすと、いつもと同じ光を、返した。


「お母さまに、お伝えしたいことが、できました」


エルナは、低く、言った。


「私は、無能では、ありませんでした、と」


「……」


「そして、私は、奪われたものを、取り戻したいと、思います」


ジルベストは、しばらく、彼女を、見ていた。


それから、肩に置いた素手を、もう少し、強く、押した。


「お手伝い、いたします」


「はい」


「ですが、それは、明日からで、十分です。

今日は、ゆっくり、お休みください」


エルナは、頷いた。


クラウスは、書斎の隅で、ノートを取りながら、二人の会話を、静かに、聞いていた。

それから、銀縁の眼鏡を、軽く外して、目元を、押さえた。


「ジルベスト」


クラウスは、低く、声を、かけた。


「お前、ようやく、自分の声を、誰かに、届かせる先を、見つけたな」


ジルベストは、答えなかった。

だが、答えなかった、ということが、答えだった。


書斎の机の上で、簡易鑑定盤の水晶は、依然として、無光のままだった。

だが、書斎の四人にとって、その無光の意味は、もう、六年前のものとは、まったく違っていた。


無光は、無能では、ない。

無光は、すべてを、素通りさせる、最強の証だった。


エルナは、水晶を、長く、見ていた。


そして、そこに、自分の指輪を、そっと、寄せた。

水晶と指輪は、机の上で、ふたつの銀の光を、並べた。


ふたつの光は、同じ、静けさで、燭台の灯を、返した。

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