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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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17/26

「ヴィクトリアの転落」

ヴィクトリア・フォン・アスカニア公爵令嬢の朝は、いつも、定刻に始まっていた。


七時、起床。

七時半、湯浴み。

八時、朝食。

九時、家庭教師との小一時間の語学。

十時、刺繍。

十一時、馬で森を一周。

十二時、昼食。


それが、彼女の十二歳から二十四歳までの、変わらぬ日課だった。

変わらぬ、ということは、それ自体、ひとつの祈りに似ていた。

ヴィクトリアにとって、それは、「ジルベスト・ローエンクラム公爵の隣に立つ女性として、ふさわしくあるための」、毎日の仕草のひとつひとつだった。


王宮夜会の【炎雷】の事件から、二週間が経っていた。


その日から、ヴィクトリアの日課は、わずかに、ずれ始めていた。


朝、起きる時に、胸の奥が、軽かった。

湯浴みのあと、鏡の中の自分が、いつもと同じ顔をしているのに、なぜか、知らない人のように見えた。

朝食の席で、家令が、いつものように、ジルベスト公爵家の最近の動向を、軽く話題にするのを、聞いた。

彼女は、いつもなら、その話題で、頬がわずかに熱くなる。

だが、その朝は、何も、起きなかった。


「お嬢様、いかがなさいました」


家令が、彼女のスプーンの止まった手を、見ていた。


「……何でも、ありませんわ」


そう答えたが、ヴィクトリア自身、自分の中で、何が起きているのかが、わからなかった。


その日の昼前、ヴィクトリアは、馬で森を一周しなかった。

代わりに、自分の部屋の机に、長く、座っていた。

机の上には、十二歳から書きためてきた、ジルベスト宛の手紙の束が、置かれていた。

誰にも、出さなかった手紙。彼女の片想いの十二年が、そこに、すべて、収まっていた。


ヴィクトリアは、その束を、ゆっくりと、めくっていった。


最初の手紙は、十二歳の彼女が、ジルベストに宛てた、稚拙な字の手紙だった。

『ジルベスト様、私の馬の名前を、フランツと、決めました。

あなたが、白の馬を、好きだとおっしゃったので、フランツも、白にいたしましたわ』


──おかしい。


ヴィクトリアの指が、止まった。


──ジルベスト様が「白の馬を好きだ」と、おっしゃったのは、いつだったろう。


思い出そうとしたが、はっきりした記憶が、出てこなかった。

ぼんやりとした、夜会の席。

彼の声。

「白の馬は、いいですね」と、彼が、何気なく、言ったような。


だが、そのときの、ヴィクトリアの胸の奥の、熱の方が、はっきりと、覚えていた。

彼の声を聞いた瞬間、彼女の頬が、紅潮した。

そして、彼女は、その日のうちに、自分の馬を、白に、変えた。

父親に頼んで、それまで愛馬だった栗毛を、別の家に送り、新しく白の馬を、購入してもらった。


──十二歳の私は、ジルベスト様の言葉に、頬を、紅潮させた。


それは、子供の素朴な憧れ、ではなかった。

ヴィクトリアは、いま、はっきりと、それを、自分の中で、認識した。


紅潮していたのは、子供の頬ではなかった。

【魅惑】を浴びた、大人の感情の、最初の発火だった。


ヴィクトリアの指が、震え始めた。


彼女は、束の中の手紙を、次々とめくっていった。

十三歳。十四歳。十五歳。

すべての手紙の中に、彼女は、ジルベストに「言われた」と思っていた言葉を、記録していた。

「君の刺繍は丁寧だ」と言われたから、刺繍を続けた。

「青いドレスは似合う」と言われたから、青ばかりを着るようになった。

「読書をする女性は美しい」と言われたから、興味のない哲学書まで、必死に読んだ。


──だが、ジルベスト様は、本当に、それらを、おっしゃったのだろうか?


ヴィクトリアは、思い出そうとした。

だが、思い出すのは、彼の声を聞いたときの、自分の頬の熱だけだった。

彼が「実際に何を言ったのか」は、すべて、霧の中に、ぼやけていた。


それは、彼女の十二年間の、初めての、霧晴れだった。


ヴィクトリアは、机の上の手紙の束を、両手で、押さえた。

そして、長く、声を出さずに、泣いた。


涙は、頬を、伝った。

頬を、伝うことで、彼女は、初めて、自分の頬の温度が、平常であることを、知った。


──私は、十二年間、私自身の心を、一度も、生きていなかった。


その認識は、彼女に、新しい言葉を、与えた。


それは、絶望ではなく、解放でもなく。

ただ、「やり直し」という、ひとつの選択肢、だった。


---


その三日後、ヴィクトリアは、ローエンクラム公爵邸を、訪れた。


執事のカイが、玄関で迎えた。

予約のない訪問だったが、カイは断らなかった。

彼は、ヴィクトリアの顔を、一目見て、何かを、悟った様子だった。


「奥様に、お会いになりますか」


「はい。──公爵様も、ご一緒で、構いませんわ」


応接間に、ジルベストとエルナが、現れた。


ジルベストは、革手袋を、嵌めていた。

エルナは、淡い灰色のドレスで、髪を、緩く結っていた。

ヴィクトリアは、二人を見て、深く、息を、吸った。


そして、応接間の絨毯の上に、膝を、ついた。


「ヴィクトリア」


ジルベストの声が、止めようとした。

だが、ヴィクトリアは、首を横に振った。


「公爵様。

聞いてください、最後まで」


「……」


「私は、十二年間、自分の意志で、あなたを慕っていたと、信じておりました。

ですが、王宮夜会で、奥様に【炎雷】が効かなかった日から、私の中で、何かが、変わり始めました」


ヴィクトリアは、そこで、言葉を、切った。

額が、絨毯に、深く、沈んだ。

指が、絨毯の毛足を、強く、掴んだ。


「私は、あなたの【魅惑】の、最初の被害者でした。

……十二歳の、あの日から」


それ以上は、言葉に、ならなかった。

沈黙が、応接間を、しばらく、満たした。


ジルベストは、顔を、覆った。

革手袋越しの掌が、額に当たった。


「ヴィクトリア。

それを、君が、自分で、認めることは、きっと、苦しかっただろう」


「ええ。──ですが、認めなければ、私は、一生、自分自身を、知らずに、終わるところでした」


ヴィクトリアは、額を、上げた。

そして、まっすぐに、エルナを、見た。


「奥様」


「はい」


「私は、奥様に、お詫び申し上げなければなりません」


「ヴィクトリア様」


エルナは、ヴィクトリアの隣に、ゆっくりと、膝をついた。

ヴィクトリアの両肩に、痩せた手を、添えた。


「お顔を、上げてください」


「……奥様」


「私は、まだ、貴女様に、何かをして差し上げた覚えが、ございません。

お詫びを、いただく筋合いが、ございません」


ヴィクトリアは、顔を上げた。

顔は、涙で、薄く、濡れていた。


「奥様、貴女様は、何もしていらっしゃらないと、おっしゃるかもしれません。

ですが、貴女様が、ジルベスト様のお屋敷にお入りになったから、私は、十二年間の自分から、解放されました。

貴女様がいらっしゃらなければ、私は、一生、誰かのスキルに動かされて、生きていたでしょう。

それは、何より、奥様にだけ、できたことなのです」


エルナは、しばらく、答えなかった。

それから、ヴィクトリアの肩を、軽く、立たせた。


「立ってください、ヴィクトリア様」


「……はい」


「そして、お互いに、これから先のことを、考えませんか」


「これから先?」


「ええ。──貴女様だけ、ではないのです。

社交界には、まだ、私の妹の【魅了】や、教会の【鑑定の不正】に、苦しめられている方が、おそらく、たくさん、いらっしゃいます。

私一人では、到底、回り切れません」


ヴィクトリアは、ゆっくりと、立ち上がった。

エルナの手を、握った。


握った手は、冷たかった。

だが、十二年ぶりに「自分の意志で」誰かに、触れている手だった。


「奥様」


「はい」


「私を、お使いください。

私は、奥様の、同志に、なりとうございます」


エルナは、わずかに、頷いた。

そして、初めて、ヴィクトリアに、はっきりと、笑みを、見せた。


「では、共に、まいりましょう」


ジルベストは、応接間の隅で、二人の女性を、長く、見ていた。

革手袋越しの拳が、何度か、強く、握られては、開いた。

だが、彼は、何も、言わなかった。


エルナは、ヴィクトリアの手の温もりを、まだ、掌に、覚えていた。


──敵だったはずの人が、いま、味方になった。

──しかも、彼女は、自分が敵だったことすら、知らないままに。


それもまた、【魔力無干渉】の、もうひとつの意味なのかもしれない。

そう、エルナは、思った。


応接間の窓の外で、雪解けの水が、屋根のといを、伝って、落ちていた。

冬の終わりは、もう、近かった。


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