「ヴィクトリアの転落」
ヴィクトリア・フォン・アスカニア公爵令嬢の朝は、いつも、定刻に始まっていた。
七時、起床。
七時半、湯浴み。
八時、朝食。
九時、家庭教師との小一時間の語学。
十時、刺繍。
十一時、馬で森を一周。
十二時、昼食。
それが、彼女の十二歳から二十四歳までの、変わらぬ日課だった。
変わらぬ、ということは、それ自体、ひとつの祈りに似ていた。
ヴィクトリアにとって、それは、「ジルベスト・ローエンクラム公爵の隣に立つ女性として、ふさわしくあるための」、毎日の仕草のひとつひとつだった。
王宮夜会の【炎雷】の事件から、二週間が経っていた。
その日から、ヴィクトリアの日課は、わずかに、ずれ始めていた。
朝、起きる時に、胸の奥が、軽かった。
湯浴みのあと、鏡の中の自分が、いつもと同じ顔をしているのに、なぜか、知らない人のように見えた。
朝食の席で、家令が、いつものように、ジルベスト公爵家の最近の動向を、軽く話題にするのを、聞いた。
彼女は、いつもなら、その話題で、頬がわずかに熱くなる。
だが、その朝は、何も、起きなかった。
「お嬢様、いかがなさいました」
家令が、彼女のスプーンの止まった手を、見ていた。
「……何でも、ありませんわ」
そう答えたが、ヴィクトリア自身、自分の中で、何が起きているのかが、わからなかった。
その日の昼前、ヴィクトリアは、馬で森を一周しなかった。
代わりに、自分の部屋の机に、長く、座っていた。
机の上には、十二歳から書きためてきた、ジルベスト宛の手紙の束が、置かれていた。
誰にも、出さなかった手紙。彼女の片想いの十二年が、そこに、すべて、収まっていた。
ヴィクトリアは、その束を、ゆっくりと、めくっていった。
最初の手紙は、十二歳の彼女が、ジルベストに宛てた、稚拙な字の手紙だった。
『ジルベスト様、私の馬の名前を、フランツと、決めました。
あなたが、白の馬を、好きだとおっしゃったので、フランツも、白にいたしましたわ』
──おかしい。
ヴィクトリアの指が、止まった。
──ジルベスト様が「白の馬を好きだ」と、おっしゃったのは、いつだったろう。
思い出そうとしたが、はっきりした記憶が、出てこなかった。
ぼんやりとした、夜会の席。
彼の声。
「白の馬は、いいですね」と、彼が、何気なく、言ったような。
だが、そのときの、ヴィクトリアの胸の奥の、熱の方が、はっきりと、覚えていた。
彼の声を聞いた瞬間、彼女の頬が、紅潮した。
そして、彼女は、その日のうちに、自分の馬を、白に、変えた。
父親に頼んで、それまで愛馬だった栗毛を、別の家に送り、新しく白の馬を、購入してもらった。
──十二歳の私は、ジルベスト様の言葉に、頬を、紅潮させた。
それは、子供の素朴な憧れ、ではなかった。
ヴィクトリアは、いま、はっきりと、それを、自分の中で、認識した。
紅潮していたのは、子供の頬ではなかった。
【魅惑】を浴びた、大人の感情の、最初の発火だった。
ヴィクトリアの指が、震え始めた。
彼女は、束の中の手紙を、次々とめくっていった。
十三歳。十四歳。十五歳。
すべての手紙の中に、彼女は、ジルベストに「言われた」と思っていた言葉を、記録していた。
「君の刺繍は丁寧だ」と言われたから、刺繍を続けた。
「青いドレスは似合う」と言われたから、青ばかりを着るようになった。
「読書をする女性は美しい」と言われたから、興味のない哲学書まで、必死に読んだ。
──だが、ジルベスト様は、本当に、それらを、おっしゃったのだろうか?
ヴィクトリアは、思い出そうとした。
だが、思い出すのは、彼の声を聞いたときの、自分の頬の熱だけだった。
彼が「実際に何を言ったのか」は、すべて、霧の中に、ぼやけていた。
それは、彼女の十二年間の、初めての、霧晴れだった。
ヴィクトリアは、机の上の手紙の束を、両手で、押さえた。
そして、長く、声を出さずに、泣いた。
涙は、頬を、伝った。
頬を、伝うことで、彼女は、初めて、自分の頬の温度が、平常であることを、知った。
──私は、十二年間、私自身の心を、一度も、生きていなかった。
その認識は、彼女に、新しい言葉を、与えた。
それは、絶望ではなく、解放でもなく。
ただ、「やり直し」という、ひとつの選択肢、だった。
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その三日後、ヴィクトリアは、ローエンクラム公爵邸を、訪れた。
執事のカイが、玄関で迎えた。
予約のない訪問だったが、カイは断らなかった。
彼は、ヴィクトリアの顔を、一目見て、何かを、悟った様子だった。
「奥様に、お会いになりますか」
「はい。──公爵様も、ご一緒で、構いませんわ」
応接間に、ジルベストとエルナが、現れた。
ジルベストは、革手袋を、嵌めていた。
エルナは、淡い灰色のドレスで、髪を、緩く結っていた。
ヴィクトリアは、二人を見て、深く、息を、吸った。
そして、応接間の絨毯の上に、膝を、ついた。
「ヴィクトリア」
ジルベストの声が、止めようとした。
だが、ヴィクトリアは、首を横に振った。
「公爵様。
聞いてください、最後まで」
「……」
「私は、十二年間、自分の意志で、あなたを慕っていたと、信じておりました。
ですが、王宮夜会で、奥様に【炎雷】が効かなかった日から、私の中で、何かが、変わり始めました」
ヴィクトリアは、そこで、言葉を、切った。
額が、絨毯に、深く、沈んだ。
指が、絨毯の毛足を、強く、掴んだ。
「私は、あなたの【魅惑】の、最初の被害者でした。
……十二歳の、あの日から」
それ以上は、言葉に、ならなかった。
沈黙が、応接間を、しばらく、満たした。
ジルベストは、顔を、覆った。
革手袋越しの掌が、額に当たった。
「ヴィクトリア。
それを、君が、自分で、認めることは、きっと、苦しかっただろう」
「ええ。──ですが、認めなければ、私は、一生、自分自身を、知らずに、終わるところでした」
ヴィクトリアは、額を、上げた。
そして、まっすぐに、エルナを、見た。
「奥様」
「はい」
「私は、奥様に、お詫び申し上げなければなりません」
「ヴィクトリア様」
エルナは、ヴィクトリアの隣に、ゆっくりと、膝をついた。
ヴィクトリアの両肩に、痩せた手を、添えた。
「お顔を、上げてください」
「……奥様」
「私は、まだ、貴女様に、何かをして差し上げた覚えが、ございません。
お詫びを、いただく筋合いが、ございません」
ヴィクトリアは、顔を上げた。
顔は、涙で、薄く、濡れていた。
「奥様、貴女様は、何もしていらっしゃらないと、おっしゃるかもしれません。
ですが、貴女様が、ジルベスト様のお屋敷にお入りになったから、私は、十二年間の自分から、解放されました。
貴女様がいらっしゃらなければ、私は、一生、誰かのスキルに動かされて、生きていたでしょう。
それは、何より、奥様にだけ、できたことなのです」
エルナは、しばらく、答えなかった。
それから、ヴィクトリアの肩を、軽く、立たせた。
「立ってください、ヴィクトリア様」
「……はい」
「そして、お互いに、これから先のことを、考えませんか」
「これから先?」
「ええ。──貴女様だけ、ではないのです。
社交界には、まだ、私の妹の【魅了】や、教会の【鑑定の不正】に、苦しめられている方が、おそらく、たくさん、いらっしゃいます。
私一人では、到底、回り切れません」
ヴィクトリアは、ゆっくりと、立ち上がった。
エルナの手を、握った。
握った手は、冷たかった。
だが、十二年ぶりに「自分の意志で」誰かに、触れている手だった。
「奥様」
「はい」
「私を、お使いください。
私は、奥様の、同志に、なりとうございます」
エルナは、わずかに、頷いた。
そして、初めて、ヴィクトリアに、はっきりと、笑みを、見せた。
「では、共に、まいりましょう」
ジルベストは、応接間の隅で、二人の女性を、長く、見ていた。
革手袋越しの拳が、何度か、強く、握られては、開いた。
だが、彼は、何も、言わなかった。
エルナは、ヴィクトリアの手の温もりを、まだ、掌に、覚えていた。
──敵だったはずの人が、いま、味方になった。
──しかも、彼女は、自分が敵だったことすら、知らないままに。
それもまた、【魔力無干渉】の、もうひとつの意味なのかもしれない。
そう、エルナは、思った。
応接間の窓の外で、雪解けの水が、屋根の樋を、伝って、落ちていた。
冬の終わりは、もう、近かった。




