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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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18/26

「母の死の真相」

ヴィクトリアの協力は、思っていたよりも、ずっと早く、形になった。


アスカニア公爵家には、王都の旧家として、長い歴史と、独自の情報網があった。

ヴィクトリアは、自分の家令を通じて、ヴァイス侯爵家の旧使用人を、密かに、捜索した。


エルナの母、フィオネ・ヴァイスが、五年前に亡くなった当時、屋敷に勤めていた使用人は、合計で十二名いた。

そのうち、九名は、母の死後すぐに解雇されていた。

継母シルヴィアが、人事を、刷新したからだった。


九名の所在が、ヴィクトリアの家令の手によって、ひと月で、洗い出された。


そのうち、最も重要な証言を持ちうる人物が、二人、見つかった。


ひとりは、当時の屋敷付き侍医、トルステン・ベアー。

もうひとりは、母の専属侍女だった、ハンナ・ロート。


ヴィクトリアは、二人の身柄を、安全な場所に保護した上で、エルナとジルベストに、引き合わせた。


---


その朝、エルナは、ヴィクトリアが手配した、王都郊外の小さな別邸を、訪れた。


別邸は、白塗りの板張りの、二階建ての小さな家だった。

ヴィクトリアの祖母が、晩年に隠居していた家で、いまは無人のものを、急遽、人が住めるように整えてあった。

窓の外には、雪解けの庭が、淡く、広がっていた。


応接間に、痩せた老人が、一人、座っていた。


トルステン・ベアー、七十二歳。

かつてヴァイス侯爵家に三十年、仕えた屋敷付き侍医だった。

ハンナ・ロートは、すでに高齢で、別の街で病臥しており、書面の証言だけが、机の上に、置かれていた。


エルナは、トルステンの正面に、座った。

ジルベストは、彼女の隣に。

ヴィクトリアは、扉のそばに、控えた。


「ベアー先生」


エルナは、低く、声を、かけた。


「お久しぶりに、ございます」


「……お嬢様」


トルステンの声は、震えていた。


「お顔を、覚えて、おいででしたか」


「はい。十二歳の頃まで、よく、お話を、いたしました」


「私も、覚えております。──お嬢様の、お母様の、お顔を」


トルステンの瞳に、涙が、滲んだ。

彼は、しばらく、その涙を、押さえていた。

それから、ゆっくりと、呼吸を整え、口を開いた。


「お嬢様。

私は、五年間、ずっと、ひとつの罪を、抱えて、生きて参りました」


エルナは、頷いた。

答えを、待った。


「奥様、フィオネ様は、ご病気で、お亡くなりに、なられたのでは、ございません」


トルステンの声は、震えていた。


「あれは、緩慢な、毒殺で、ございました」


エルナの体が、わずかに、動いた。

だが、彼女は、すぐに、姿勢を、立て直した。


「……続けてください」


「はい。

奥様は、五年前の、冬の終わりに、お倒れになりました。

私は、最初は、流行り病かと、診ました。

ですが、症状が、わずかに、奇妙でした。

熱が、上がり下がりを、繰り返し、食欲が、ゆっくりと、落ちていく。

血の気が、皮膚から、ひと月かけて、引いていく」


エルナの指先が、膝の上で、かすかに、震えた。


「私は、ある日、奥様の朝の薬湯を、自分で、味見いたしました。

そこに、わずかに、ある植物の成分が、混じっておりました。

黒蕊草こくずいそう』の、抽出液です。

これは、少量ずつ、長期間、摂取し続けることで、心臓を、ゆっくりと、弱らせる毒でございます」


エルナは、自分の指を、見た。

指は、震えていなかった。

だが、心臓の奥で、何かが、低く、唸っていた。


黒蕊草こくずいそうは、王国で、所持が、禁止されている毒草です。

それを、屋敷で、誰が、手に入れ、誰が、奥様の薬湯に、混ぜていたのか。

私は、調べました」


「誰、ですか」


「シルヴィア様、で、ございました」


エルナの喉が、小さく、鳴った。


エルナの背後で、ジルベストが、わずかに、息を、呑んだ。


「シルヴィア様は、当時、まだ、お父様の愛人でしかありませんでした。

ですが、お屋敷に、しばしば、お泊まりになっていました。

お泊まりの際、台所と、薬の保管庫に、自由に出入りされておりました。

私は、シルヴィア様が、薬湯に何かを混ぜているところを、二度、目撃いたしました」


「……それを、父に、お伝えになりましたか」


「お伝え、いたしました」


トルステンの声が、低く、なった。


「ですが、お父様は、私を、屋敷から、追い出されました。

『そのようなことを、二度と、口にするな』と、おっしゃって。

そして、奥様の薬湯は、その後も、続きました。

ひと月後、奥様は、お亡くなりに、なりました」


エルナは、長く、目を、閉じた。


そして、開けた。

瞳の奥に、薄い火が、灯っていた。


「父は、知っていたのですか」


「はい。

お父様は、シルヴィア様の行為を、ご存じの上で、黙認されました」


「なぜですか」


「シルヴィア様と、その娘イリス様を、いずれ正式に、家へ迎え入れる、おつもりだったからです」


エルナは、しばらく、黙った。


──父は、母を、見殺しにした。

──愛人の腹の子を、愛するために。


その認識は、屋根裏の指輪を握った夜の認識よりも、ずっと、深い場所に、降りていった。


だが、エルナは、泣かなかった。


長く、屋根裏で、誰にも泣き顔を見せられないことに、慣れていた彼女は、今も、泣き顔を、出さなかった。

代わりに、机の上に置いていた、母の指輪を、握った。

水色の石は、いつもと同じ光を、返した。


「ベアー先生」


「はい」


「ハンナ・ロート様の証言は、どのような内容ですか」


ジルベストが、机の上の書面を、エルナに、差し出した。


ハンナの字は、震えていた。

だが、内容は、はっきりしていた。


『私は、ヴァイス侯爵奥方様の、専属侍女として、長く、お仕えいたしました。

奥方様は、お亡くなりになる三日前、私を、お部屋にお呼びになり、こう、おっしゃいました。


『ハンナ。私は、もう、長くないでしょう。

だが、私は、エルナのスキルを、信じています。

あの子は、決して、無能ではありません。

もし、あの子が、教会の鑑定で、無能と判じられても、それは、教会が、間違っているのです。

あの子は、私が知る、誰よりも、まっすぐな、強い子です。

今夜、あの子を、私の部屋に、一人だけ、連れてきてください。

私の指輪を、この手で、あの子に、渡します。それだけは、誰にも、奪われないように、と』


私は、奥方様のお言葉の通り、その夜、お嬢様おひとりを、奥方様のお部屋へ、お通しいたしました。

指輪を、お嬢様の掌に、直接、握らせたのは、奥方様、ご自身でございます。

それが、私の、最後の、お役目で、ございました』


エルナは、書面を、長く、読んだ。


母は、知っていた。


母は、エルナのスキルを、信じていた。

母は、教会の鑑定が、間違うかもしれないことを、予感していた。

そして、母は、最後の夜、ハンナの手引きで、エルナ自身の掌に、指輪を、握らせた。


──奪われては、ならない。

──奪われては、ならない、と、母は、知っていた。


エルナは、母の指輪を、両手で、握った。

握った両手の隙間から、水色の石が、わずかに、燭台の灯を、返した。


「ベアー先生」


エルナの声は、低かった。


「証言を、文書にしていただけますか」


「もちろんで、ございます。お嬢様」


「ハンナ様の証言と、合わせて、王宮の然るべき場に、提出いたします」


「お任せ、いたします。

私の残された人生は、もう、長くありません。

お嬢様の、お母様の、無念を、晴らすことに、使えるのでしたら、本望でございます」


エルナは、深く、頭を、下げた。


トルステンも、深く、頭を、下げた。

老いた侍医の額は、机の上の書面の脇に、しばらく、置かれていた。


ジルベストは、彼女の隣で、革手袋越しに、彼女の腰に、軽く、手を、添えた。


別邸の窓の外で、雪解けの水が、屋根から、ひと筋、落ちていった。

庭の一角で、最初の、淡い花が、雪の下から、わずかに、芽を、出しかけていた。

冬は、もう、終わりかけていた。


帰路の馬車の中で、エルナは、母の指輪を、見続けていた。


「奥様」


ジルベストが、低く、声を、かけた。


「父を、訪ねます」


「……いつ、ですか」


「明日に。──同行は、貴方様だけで、構いません」


ジルベストは、頷いた。

それから、革手袋越しに、エルナの肩を、軽く、抱き寄せた。

彼女は、それを、避けなかった。


馬車の窓の外で、王都の屋根が、薄い夕日に、染まり始めていた。

冬の終わりの、最後の夕日だった。


エルナの肩に、ジルベストの腕の重みが、かかっていた。

痩せた肩は、その重みを、初めて、心地よく、受け止めていた。


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