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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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「教会の裏」

挿絵(By みてみん)


---


宮廷魔導院の禁書庫は、王宮の地下三階に、ある。


天井の低い、石造りの一室。

書架は鉄の格子で、扉ごとに別の鍵がかかる。

管理は王家直属の魔導院長が握り、入室許可は、原則として、研究者三名以上の連名と、王宮文官の承認を要する。


クラウス・ヘルガードは、その日、特別の手続きで、禁書庫に入っていた。


入室許可を取りつけたのは、ジルベスト・ローエンクラム公爵だった。

公爵家の名と、王宮との古い縁を使って、半日の単独入室を、ようやく、認めさせた。


クラウスは、燭台の灯だけを頼りに、書架の最奥へと、進んだ。


そこには、教会との「鑑定の儀」に関する、過去の文書が、収められていた。

鑑定盤の設計図、鑑定の儀の運営記録、各時代の判定結果の集計、そして──。


『鑑定盤改造記録』


クラウスは、その表題の、革表紙の冊子を、見つけた。

冊子は、書架の最奥の、最も低い段に、押し込まれていた。

ほこりが、指の腹に、まとわりついた。


クラウスは、それを、慎重に、引き出した。


革表紙の上には、銀の細かい紋章が、押されている。

教会の獅子ししの紋章、そして、王家の十字。

この冊子は、教会と王家の合同管理下にあるはずのものだった。

本来、王宮文官の立ち会いがなければ、開けてはならないものだった。


クラウスは、それを、開いた。


中には、過去三百年にわたる、鑑定盤の改造記録が、書き記されていた。


最初の二十年分は、純粋に、装置の精度向上の記録だった。

水晶の研磨、魔力経路の構造改良、台座の素材変更。


だが、ある時期から、記録の内容が、変わっていた。


クラウスの指が、ページをめくる速さを、落とした。


『某年某月、ベルント大司教の指示により、被験者の鑑定結果を、最大三段階、上方修正する機構を、追加』

『某年某月、被験者の鑑定結果を、F級と表示する機構を、追加。発動条件は、儀式執行司の手元の銀の小鈴による合図』


クラウスは、自分の眼鏡の縁を、強く、押し上げた。


──操作機構が、組み込まれている。


鑑定盤は、被験者の魔力経路を、客観的に読み取る、はずだった。

だが、この記録は、儀式執行者が、手元で「上に上げる」「下に下げる」「F級と表示する」という、三つの操作を、行えることを、示していた。


クラウスは、冊子を、めくり続けた。


指が、ある一枚で、止まった。


『某年某月、ヴァイス侯爵家令嬢、エルナ・ヴァイスの鑑定。

機構による『無反応・F級』表示を、ベルント大司教の判断で、実行。

寄進額、金貨二千枚』


エルナの名が、書かれていた。


クラウスは、しばらく、その一行を、見ていた。


二千枚の金貨。

王都の中堅の屋敷を、二軒、買える金額。

それで、エルナの六年が、書き換えられた。

彼女が「無能」と呼ばれ、屋根裏に閉じ込められ、社交界に出ることができなかった、すべての年月が、二千枚の金貨と引き換えに、教会の判断で、決定された。


クラウスは、ノートを、取り出した。

震えそうになる手を、抑えた。

冊子の該当ページを、丁寧に、書写した。


そして、もう一ページ、別の記録に、目を留めた。


『某年某月、王太子レオハルト殿下の婚約者、ヴァイス侯爵家令嬢、エルナ・ヴァイスの鑑定の補足査定。

機構による『S級・魅了系統』表示を、ベルント大司教の判断で、実行。

これにより、婚約承認の根拠となる』


クラウスは、息を、止めた。


──「ヴァイス侯爵家令嬢、エルナ・ヴァイス」が、二度、鑑定されていた。


一度目は、本物のエルナ。十二歳の儀式で、F級と表示された。

二度目は、誰だろうか。


そして、二度目の鑑定で、「エルナ・ヴァイス」のスキルは、「S級・魅了系統」と、表示されていた。


これは、明らかに、妹のイリスの鑑定だった。

だが、教会の正式な記録では、それが「エルナ・ヴァイス」の名で、登録されていた。

これにより、王太子レオハルトとの婚約は、「ヴァイス侯爵家のエルナ」が、十分な格式のスキルを持つ、として、承認されていた。


──姉の名で、妹の鑑定が、登録されている。


教会は、それを、知っていた。

ベルント大司教が、判断していた。


クラウスは、その記録も、書写した。


ノートを閉じたとき、彼の手は、わずかに、震えていた。

震えは、寒さのものでは、なかった。


研究者として、長く、中立であろうと、努めてきた彼にとって、これは、研究の対象では、なかった。

これは、ひとりの女性の六年を、組織が、書き換えた、犯罪の記録だった。


クラウスは、燭台を、取り、禁書庫を、出た。


書架の鍵を、掛け直し、地下の階段を、登った。

地上に出ると、王宮の庭に、夕暮れの最後の光が、薄く、差していた。


その光の中で、ジルベスト・ローエンクラムが、待っていた。


「クラウス」


「……ジルベスト」


「見つけたか」


クラウスは、革のノートを、ジルベストに、差し出した。


「全部、ある。

鑑定盤に、ベルント大司教指示の、操作機構が、組み込まれている。

奥様のF級判定は、寄進金貨二千枚と引き換えに、実行された。

そして、王太子の婚約承認のために、妹の鑑定が、姉の名で、登録されていた」


ジルベストは、ノートを、開いた。


革手袋越しの指が、クラウスの几帳面な字を、ひと文字ずつ、追った。

途中で、革手袋の下の指の関節が、強く、白くなった。


「……」


「ジルベスト、お前、これを、誰にぶつけるつもりだ」


「王宮、だ」


「教会経由ではなく」


「教会には、ベルントがいる。

彼を経由した時点で、すべての証拠は、握りつぶされる。

直接、王宮の文官府と、王太子レオハルト殿下に、提出する」


「王太子は、魅了下にあるのだろう」


「ああ。──だから、奥様に、同席してもらう」


ジルベストの声は、抑えていたが、その抑え方そのものが、彼の決意の濃さを、伝えていた。


「奥様の傍にいれば、王太子の魅了は、解ける。

解けてから、これを、見せる。

見せてからは、王太子自身が、動く。

彼は、魅了されていた事実を、自分で、認めなければならない。

それは、辛いことだろうが、彼にしか、できないことだ」


クラウスは、しばらく、ジルベストの横顔を、見ていた。

そして、低く、言った。


「ジルベスト」


「ああ」


「お前、ここまで、来たか」


「来た」


「変わったな」


ジルベストは、答えなかった。

だが、革手袋越しの拳を、革ノートの上で、軽く、握った。


「私は、彼女に、奪われたものを、取り戻させたい。

それだけだ」


夕暮れの王宮の庭で、二人は、しばらく、立っていた。


噴水の向こうで、最後の光が、雲の縁に、薄く、残っていた。

水鏡には、二つの影が、長く、伸びていた。


クラウスは、ノートを、ジルベストの手に、しっかりと、握らせた。


「お前の使う書斎の机に、これを、置いておけ。

複写は、私が、もう一通、保管する。

万が一、お前か奥様に何かあれば、複写は、すぐに、王太子に、届けるように、手配しておく」


「ありがとう、クラウス」


「礼は、いらない」


クラウスは、軽く、肩をすくめた。


「私は、研究者だ。

真実を、隠した側に、立つほど、軟弱な研究者では、ないつもりでね」


ジルベストは、わずかに、笑った。

そんな表情を、人前で、見せるのは、何年ぶりだった。


二人は、王宮の庭を、歩き始めた。


帰路の馬車の中で、ジルベストは、ノートを、革手袋越しに、両手で、抱えていた。

膝の上で、その重みは、彼にとって、奇妙に、軽かった。


──彼女の、六年が、ここに、ある。

──彼女の、母の、五年前の死の、根が、ここに、ある。


ノートの厚さは、革表紙込みで、指二本分しかなかった。

だが、その厚さは、ヴァイス侯爵家、教会、王家の三者の、共犯の歴史だった。


王宮の灯が、馬車の窓に、流れた。

夜は、もう、すぐそこまで、来ていた。


公爵邸に戻ったとき、エルナは、書斎の前で、静かに、ジルベストを、待っていた。


灯の下で、彼女の銀の髪は、いつもと同じように、流れていた。

だが、彼女の瞳には、もう、屋根裏の頃の諦めは、なかった。

かわりに、淡い、しかし強い、奪還の意志が、宿っていた。


「お帰りなさいませ」


「奥様」


ジルベストは、革ノートを、彼女に、差し出した。


「貴女様の、六年の、根が、ここにあります」


エルナは、ノートを、受け取った。

そして、しばらく、玄関ホールの中央で、それを、開かずに、両手で、抱えていた。


抱えたノートは、軽かった。

だが、彼女にとって、その軽さは、五年前の母の最後の手紙の重さと、重なっていた。


「公爵様」


「はい」


「明日、開きます。

今夜は、まず、母に、ご報告いたします」


「ええ」


エルナは、ノートを、抱えたまま、自室の方角に、ゆっくりと、歩いた。


廊下の燭台の灯が、彼女の銀の髪を、軽く、照らした。

彼女の影は、革のノートの厚みを、抱えて、歩んでいった。


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