表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/26

「王太子レオハルト」

王宮の南棟、王太子の私室付き応接間は、晩冬の朝の光に、淡く、満たされていた。


ジルベストとエルナは、密会の許可を、王宮文官府を通じて、ようやく取り付けた。

表向きは、「ローエンクラム公爵による、王太子殿下への、政務報告」。

だが、室内に集うのは、ジルベスト、エルナ、王太子レオハルト、そして、信頼できる文官、二人だけ。


レオハルト・エルディアン、二十二歳。

銀の髪に、深い緑の瞳。

背は高く、肩幅は広く、若き日の王の、最も整った肖像のような姿。

だが、ジルベストが、扉を開けて見たレオハルトは、その肖像とは、わずかに、違っていた。


──瞳の焦点が、合っていない。


それは、長く、誰かの【魅了】下にある人間の、特徴的な目だった。

正確に言えば、目の前のジルベストとエルナを「見て」いるはずなのに、視線が、こちらの輪郭を、捉えきれていない。

何かを、ぼんやりと、見ている。


ジルベストは、エルナを、王太子の視界の中央に、立たせた。


王太子は、最初、何も言わなかった。

ジルベストの「ご機嫌うかがい」という形式の挨拶にも、わずかに、頷くだけだった。

彼の心の半分は、別のところに、繋がれていた。


別のところ──イリス・ヴァイスに、繋がれていた。


ジルベストは、文官たちに、いったん、退出を求めた。

「個人的な、相談がある」と。

文官たちは、頷き、応接間を、後にした。

室内には、ジルベスト、エルナ、レオハルトの、三人が、残った。


「殿下」


ジルベストは、低く、声を、かけた。


「本日は、私の妻、エルナを、ご紹介に、参りました」


「……ああ」


レオハルトの返事は、薄い、霧の上を、滑るような声だった。


「お初に、お目にかかります。エルナ・ローエンクラムでございます」


エルナは、教えられた通りに、深く、頭を、下げた。


レオハルトは、彼女を、見た。

最初は、ぼんやりと。

それから──。


エルナの傍にいることで、何かが、ゆっくりと、変わっていった。


レオハルトの瞳の、焦点が、わずかに、ずれて、それから、戻った。

彼の呼吸が、一度、深く、なった。

肩が、ゆっくりと、緊張から、解けた。


「……公爵夫人」


レオハルトの声は、最初の挨拶のときよりも、少し、はっきりと、響いていた。


「お顔を、もう一度、拝見しても、よろしいか」


「はい、殿下」


エルナは、頭を、上げた。


レオハルトの緑の瞳が、彼女の顔を、しばらく、見ていた。

そして、彼の瞳の中で、何かが、明確に、動き始めた。


「貴女は、ヴァイス侯爵家のエルナ、なのですか」


「はい、殿下」


「私の婚約者は、エルナ・ヴァイス、という名で、登録されている」


「……はい」


「だが、私の婚約者は、貴女ではない」


レオハルトの声は、低く、しかし、はっきりと、響いた。


「私の婚約者は、もうひとりの令嬢だ。

銀の髪、空色の瞳、十五歳。

私は、彼女を、長く、慕ってきた」


エルナは、頷いた。


「殿下のご婚約者は、私の妹、イリス・ヴァイスでございます」


「妹?」


「私には、年下の妹がおります。

父の妾の娘で、私とは、母が、違います。

その妹は、五年前から、私の名を、社交界で、騙ってまいりました」


レオハルトは、しばらく、沈黙した。


彼の目の中で、何かが、ゆっくりと、組み変わっていた。

「自分の婚約者の名」と、「目の前の女性の名」が、同じであるはずなのに、目の前の女性は、自分の婚約者ではない。

そんな矛盾を、彼の頭は、長く、処理できないでいた。


ジルベストは、その変化を、注意深く、見ていた。


エルナの【魔力無干渉】は、傍にいることで、徐々に、相手の魅了を、解いていく。

だが、通常は、長期間、深い魅了下にあった者ほど、解ける速度は、緩やかになる。

レオハルトは、すでに五年、イリスの【魅了】下にあった。

多くの場合、これを、一度の対面で、完全に、解くのは、難しい。

解ける速度は、対面の頻度や、相手との距離、そして場の閉じ具合によっても、変わってくる。


だが、突破口は、ある。


ジルベストは、革のノートを、机の上に、置いた。


「殿下」


「……」


「これを、ご覧いただけますか」


レオハルトは、ノートを、開いた。


中の字は、クラウスのものだった。

王宮魔導院の禁書庫から、書写された、鑑定盤かんていばん改造記録。

そして、ヴァイス侯爵家エルナの、二度の鑑定の記録。


レオハルトの目が、ページの上を、ゆっくりと、追った。


二度目の鑑定の記録──「『S級・魅了系統』表示を、ベルント大司教の判断で、実行。これにより、婚約承認の根拠となる」──のところで、彼の指が、ぴくりと、止まった。


「魅了、系統……」


レオハルトの呟きは、自分自身に、向けたものだった。


「私の婚約者は、十五歳。

私の婚約承認には、彼女の鑑定結果が、根拠として、添えられていた。

S級・魅了系統、と」


「はい」


「魅了系統と、知らずに、私は、婚約に、合意したのか」


ジルベストは、答えなかった。

答える必要がなかった。


レオハルトの中で、ようやく、つながっていた。


──自分の婚約者は、魅了系統のスキル持ちだった。

──自分は、彼女の魅了下に、置かれていた。

──自分の「彼女を慕う」気持ちは、自分の意志では、ない。


レオハルトは、ノートを、閉じた。

両手で、自分の額を、押さえた。

肘が、机の上に、置かれた。

姿勢が、ゆっくりと、崩れた。


「……俺は」


レオハルトは、突然、敬語を、忘れた。

それは、彼の本来の、第一人称だった。

公の場での「私」ではなく、私の場での「俺」。

彼の素の声が、ようやく、戻ってきていた。


「俺は、何を、信じていたのか」


声は、震えていた。


「五年だ。五年、俺は、彼女を、慕い続けてきた。

彼女のためなら、王権の決定にも、口を出した。

彼女の意見なら、王宮の文官の話より、優先した。

俺は、彼女の言うことなら、何でも、信じてきた」


レオハルトの肩が、震え始めた。


「……あれは、俺の心では、なかったのか」


エルナは、しばらく、王太子の崩れ落ちる姿を、見ていた。


それから、彼女は、机の脇に、わずかに、近づいた。

革手袋を外したジルベストの素手と、彼女の素手は、机の脇で、軽く、触れ合った。

ジルベストは、それに気づき、わずかに、頷いた。


「殿下」


エルナは、低く、声を、かけた。


「お辛いことを、申し上げました」


「……いえ。

言われなければ、俺は、一生、知らずに、いた」


レオハルトは、額から、手を、外した。

その瞳に、初めて、彼自身の意志の、薄い光が、宿っていた。


「公爵夫人。

私は、貴女に、お詫びを、申し上げる」


「殿下」


「貴女の名を、長く、騙ってきた者を、私は、信じていた。

貴女が、社交界で、悪辣な令嬢として、扱われている間、私は、何の疑問も、抱かなかった。

それは、私の怠慢では、ある。

だが、ここまで、深い魅了下にあった私を、責めるよりも、私自身が、これから、行動で、償うべきだろう」


レオハルトは、ジルベストに、視線を、移した。


「ジルベスト・ローエンクラム公爵」


「はい、殿下」


「貴公の妻、エルナ・ローエンクラム公爵夫人を、王太子として、正式に、認知する。

そして、この鑑定記録の改竄について、王宮文官府を通じて、教会への査問さもんを、命じる」


「……かしこまりました」


「並行して、私の現在の婚約者、『エルナ・ヴァイス』を名乗る令嬢の身柄を、王宮で、確保したい。

彼女の魅了を、解く必要が、ある」


ジルベストは、頷いた。


「殿下、奥様の【魔力無干渉】が、傍にあれば、彼女の魅了は、徐々に、解けてまいります。

ただし、解けた後の、彼女自身の崩れ方は、慎重に、対応せねばなりません。

彼女は、自分の魅了下に置いていた者たちの、憎悪を、一身に、浴びることになります」


「分かっている」


レオハルトは、立ち上がった。


「俺は、もう、あの人形のような王太子では、いない。

これから、俺は、俺の意志で、王宮を、動かす。

ジルベスト、エルナ、貴公らは、王宮内での同志だ。

これから、共に、教会と、ヴァイス侯爵家を、片付けよう」


ジルベストは、深く、礼をした。

エルナも、同様に、礼を、返した。


応接間を、出るとき、レオハルトは、最後に、エルナに、声を、かけた。


「エルナ」


「はい、殿下」


「貴女が、来てくれて、よかった。

俺は、五年ぶりに、自分の頭で、ものを、考えている」


エルナは、わずかに、頷いた。


「殿下のお気持ちは、私には、よく、わかります」


「……同じ、ですか」


「私も、屋根裏で、長く、自分の頭で、ものを考える機会を、奪われておりました。

今、ようやく、考えられるように、なってまいりました」


レオハルトは、深く、頷いた。


「では、共に、考えよう」


「はい、殿下」


王宮の応接間を出ると、廊下の窓から、晩冬の最後の朝の光が、差していた。


ジルベストは、エルナの肘を、軽く、支えた。

彼女の体は、いつもより、わずかに、軽かった。


──ひとり、また、味方が、増えた。


ジルベストの中で、その認識が、薄く、灯った。

しかも、その味方は、王国の中心にいる男だった。

これから、闘いは、王宮の最高位の場所で、組まれていく。


馬車に乗り込む直前、エルナは、王宮の中庭の方を、ちらりと、見た。


中庭の片隅、東屋あずまやの影に、ひとりの少女の姿が、見えた。

銀の髪、空色のドレス、笑顔。

イリスだった。

彼女は、王宮の侍女と、軽く、おしゃべりをしていた。

彼女はまだ、何も、知らなかった。


エルナは、しばらく、その姿を、見ていた。


──妹は、まだ、自分の世界が、揺らぎ始めていることを、知らない。


そう思いながら、彼女の心は、不思議と、平静だった。

怒りも、憐れみもなく。

ただ、そろそろ、終わらせよう、という、淡い決意だけが、灯っていた。


馬車は、王宮の門を、出た。

冬の終わりの、最後の日の、午後の光が、王都の屋根を、銀色に、染めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ