「王太子レオハルト」
王宮の南棟、王太子の私室付き応接間は、晩冬の朝の光に、淡く、満たされていた。
ジルベストとエルナは、密会の許可を、王宮文官府を通じて、ようやく取り付けた。
表向きは、「ローエンクラム公爵による、王太子殿下への、政務報告」。
だが、室内に集うのは、ジルベスト、エルナ、王太子レオハルト、そして、信頼できる文官、二人だけ。
レオハルト・エルディアン、二十二歳。
銀の髪に、深い緑の瞳。
背は高く、肩幅は広く、若き日の王の、最も整った肖像のような姿。
だが、ジルベストが、扉を開けて見たレオハルトは、その肖像とは、わずかに、違っていた。
──瞳の焦点が、合っていない。
それは、長く、誰かの【魅了】下にある人間の、特徴的な目だった。
正確に言えば、目の前のジルベストとエルナを「見て」いるはずなのに、視線が、こちらの輪郭を、捉えきれていない。
何かを、ぼんやりと、見ている。
ジルベストは、エルナを、王太子の視界の中央に、立たせた。
王太子は、最初、何も言わなかった。
ジルベストの「ご機嫌うかがい」という形式の挨拶にも、わずかに、頷くだけだった。
彼の心の半分は、別のところに、繋がれていた。
別のところ──イリス・ヴァイスに、繋がれていた。
ジルベストは、文官たちに、いったん、退出を求めた。
「個人的な、相談がある」と。
文官たちは、頷き、応接間を、後にした。
室内には、ジルベスト、エルナ、レオハルトの、三人が、残った。
「殿下」
ジルベストは、低く、声を、かけた。
「本日は、私の妻、エルナを、ご紹介に、参りました」
「……ああ」
レオハルトの返事は、薄い、霧の上を、滑るような声だった。
「お初に、お目にかかります。エルナ・ローエンクラムでございます」
エルナは、教えられた通りに、深く、頭を、下げた。
レオハルトは、彼女を、見た。
最初は、ぼんやりと。
それから──。
エルナの傍にいることで、何かが、ゆっくりと、変わっていった。
レオハルトの瞳の、焦点が、わずかに、ずれて、それから、戻った。
彼の呼吸が、一度、深く、なった。
肩が、ゆっくりと、緊張から、解けた。
「……公爵夫人」
レオハルトの声は、最初の挨拶のときよりも、少し、はっきりと、響いていた。
「お顔を、もう一度、拝見しても、よろしいか」
「はい、殿下」
エルナは、頭を、上げた。
レオハルトの緑の瞳が、彼女の顔を、しばらく、見ていた。
そして、彼の瞳の中で、何かが、明確に、動き始めた。
「貴女は、ヴァイス侯爵家のエルナ、なのですか」
「はい、殿下」
「私の婚約者は、エルナ・ヴァイス、という名で、登録されている」
「……はい」
「だが、私の婚約者は、貴女ではない」
レオハルトの声は、低く、しかし、はっきりと、響いた。
「私の婚約者は、もうひとりの令嬢だ。
銀の髪、空色の瞳、十五歳。
私は、彼女を、長く、慕ってきた」
エルナは、頷いた。
「殿下のご婚約者は、私の妹、イリス・ヴァイスでございます」
「妹?」
「私には、年下の妹がおります。
父の妾の娘で、私とは、母が、違います。
その妹は、五年前から、私の名を、社交界で、騙ってまいりました」
レオハルトは、しばらく、沈黙した。
彼の目の中で、何かが、ゆっくりと、組み変わっていた。
「自分の婚約者の名」と、「目の前の女性の名」が、同じであるはずなのに、目の前の女性は、自分の婚約者ではない。
そんな矛盾を、彼の頭は、長く、処理できないでいた。
ジルベストは、その変化を、注意深く、見ていた。
エルナの【魔力無干渉】は、傍にいることで、徐々に、相手の魅了を、解いていく。
だが、通常は、長期間、深い魅了下にあった者ほど、解ける速度は、緩やかになる。
レオハルトは、すでに五年、イリスの【魅了】下にあった。
多くの場合、これを、一度の対面で、完全に、解くのは、難しい。
解ける速度は、対面の頻度や、相手との距離、そして場の閉じ具合によっても、変わってくる。
だが、突破口は、ある。
ジルベストは、革のノートを、机の上に、置いた。
「殿下」
「……」
「これを、ご覧いただけますか」
レオハルトは、ノートを、開いた。
中の字は、クラウスのものだった。
王宮魔導院の禁書庫から、書写された、鑑定盤改造記録。
そして、ヴァイス侯爵家エルナの、二度の鑑定の記録。
レオハルトの目が、ページの上を、ゆっくりと、追った。
二度目の鑑定の記録──「『S級・魅了系統』表示を、ベルント大司教の判断で、実行。これにより、婚約承認の根拠となる」──のところで、彼の指が、ぴくりと、止まった。
「魅了、系統……」
レオハルトの呟きは、自分自身に、向けたものだった。
「私の婚約者は、十五歳。
私の婚約承認には、彼女の鑑定結果が、根拠として、添えられていた。
S級・魅了系統、と」
「はい」
「魅了系統と、知らずに、私は、婚約に、合意したのか」
ジルベストは、答えなかった。
答える必要がなかった。
レオハルトの中で、ようやく、つながっていた。
──自分の婚約者は、魅了系統のスキル持ちだった。
──自分は、彼女の魅了下に、置かれていた。
──自分の「彼女を慕う」気持ちは、自分の意志では、ない。
レオハルトは、ノートを、閉じた。
両手で、自分の額を、押さえた。
肘が、机の上に、置かれた。
姿勢が、ゆっくりと、崩れた。
「……俺は」
レオハルトは、突然、敬語を、忘れた。
それは、彼の本来の、第一人称だった。
公の場での「私」ではなく、私の場での「俺」。
彼の素の声が、ようやく、戻ってきていた。
「俺は、何を、信じていたのか」
声は、震えていた。
「五年だ。五年、俺は、彼女を、慕い続けてきた。
彼女のためなら、王権の決定にも、口を出した。
彼女の意見なら、王宮の文官の話より、優先した。
俺は、彼女の言うことなら、何でも、信じてきた」
レオハルトの肩が、震え始めた。
「……あれは、俺の心では、なかったのか」
エルナは、しばらく、王太子の崩れ落ちる姿を、見ていた。
それから、彼女は、机の脇に、わずかに、近づいた。
革手袋を外したジルベストの素手と、彼女の素手は、机の脇で、軽く、触れ合った。
ジルベストは、それに気づき、わずかに、頷いた。
「殿下」
エルナは、低く、声を、かけた。
「お辛いことを、申し上げました」
「……いえ。
言われなければ、俺は、一生、知らずに、いた」
レオハルトは、額から、手を、外した。
その瞳に、初めて、彼自身の意志の、薄い光が、宿っていた。
「公爵夫人。
私は、貴女に、お詫びを、申し上げる」
「殿下」
「貴女の名を、長く、騙ってきた者を、私は、信じていた。
貴女が、社交界で、悪辣な令嬢として、扱われている間、私は、何の疑問も、抱かなかった。
それは、私の怠慢では、ある。
だが、ここまで、深い魅了下にあった私を、責めるよりも、私自身が、これから、行動で、償うべきだろう」
レオハルトは、ジルベストに、視線を、移した。
「ジルベスト・ローエンクラム公爵」
「はい、殿下」
「貴公の妻、エルナ・ローエンクラム公爵夫人を、王太子として、正式に、認知する。
そして、この鑑定記録の改竄について、王宮文官府を通じて、教会への査問を、命じる」
「……かしこまりました」
「並行して、私の現在の婚約者、『エルナ・ヴァイス』を名乗る令嬢の身柄を、王宮で、確保したい。
彼女の魅了を、解く必要が、ある」
ジルベストは、頷いた。
「殿下、奥様の【魔力無干渉】が、傍にあれば、彼女の魅了は、徐々に、解けてまいります。
ただし、解けた後の、彼女自身の崩れ方は、慎重に、対応せねばなりません。
彼女は、自分の魅了下に置いていた者たちの、憎悪を、一身に、浴びることになります」
「分かっている」
レオハルトは、立ち上がった。
「俺は、もう、あの人形のような王太子では、いない。
これから、俺は、俺の意志で、王宮を、動かす。
ジルベスト、エルナ、貴公らは、王宮内での同志だ。
これから、共に、教会と、ヴァイス侯爵家を、片付けよう」
ジルベストは、深く、礼をした。
エルナも、同様に、礼を、返した。
応接間を、出るとき、レオハルトは、最後に、エルナに、声を、かけた。
「エルナ」
「はい、殿下」
「貴女が、来てくれて、よかった。
俺は、五年ぶりに、自分の頭で、ものを、考えている」
エルナは、わずかに、頷いた。
「殿下のお気持ちは、私には、よく、わかります」
「……同じ、ですか」
「私も、屋根裏で、長く、自分の頭で、ものを考える機会を、奪われておりました。
今、ようやく、考えられるように、なってまいりました」
レオハルトは、深く、頷いた。
「では、共に、考えよう」
「はい、殿下」
王宮の応接間を出ると、廊下の窓から、晩冬の最後の朝の光が、差していた。
ジルベストは、エルナの肘を、軽く、支えた。
彼女の体は、いつもより、わずかに、軽かった。
──ひとり、また、味方が、増えた。
ジルベストの中で、その認識が、薄く、灯った。
しかも、その味方は、王国の中心にいる男だった。
これから、闘いは、王宮の最高位の場所で、組まれていく。
馬車に乗り込む直前、エルナは、王宮の中庭の方を、ちらりと、見た。
中庭の片隅、東屋の影に、ひとりの少女の姿が、見えた。
銀の髪、空色のドレス、笑顔。
イリスだった。
彼女は、王宮の侍女と、軽く、おしゃべりをしていた。
彼女はまだ、何も、知らなかった。
エルナは、しばらく、その姿を、見ていた。
──妹は、まだ、自分の世界が、揺らぎ始めていることを、知らない。
そう思いながら、彼女の心は、不思議と、平静だった。
怒りも、憐れみもなく。
ただ、そろそろ、終わらせよう、という、淡い決意だけが、灯っていた。
馬車は、王宮の門を、出た。
冬の終わりの、最後の日の、午後の光が、王都の屋根を、銀色に、染めていた。




