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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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もやもやの正体」

公爵邸の書庫は、夜更けになるほど静かになる。


天井の高い、長方形の部屋。三面の壁は上から下まで書架で埋め尽くされ、残る一面の窓には紺のカーテンが下りていた。中央の長机には燭台が二つ、灯っている。それ以外の灯はない。


その夜、ジルベストとエルナは書庫の中央の机で書類を整理していた。


王宮の特別査問会の準備だった。教会の鑑定盤改造記録、ヴァイス侯爵家の旧使用人の証言、母フィオネの遺言、そして社交界における「エルナ・ヴァイス」と「イリス・ヴァイス」の出席記録の照合。これらを王宮の文官府が査問会の前に検証するための準備資料としてまとめる必要があった。


時刻は、すでに夜の十一時を過ぎている。


「奥様」


ジルベストが低く声をかけた。


「もう、お休みください。残りは私とカイでまとめます」


「いえ。──最後まで、ご一緒します」


エルナの声は疲れていたが、退かなかった。


ジルベストは、しばらく彼女の横顔を見ていた。燭台の灯に銀の髪がわずかに揺れる。痩せた指がペンを握っている。書斎で書類を整理する姿は、屋根裏で繕い物をしていた頃の姿と、不思議に重なって見えた。


だが、まったく別のものだった。


あの頃の彼女の指は、誰のためにも動かなかった。今夜の彼女の指は、自分の名を取り戻すために動いている。


「……奥様」


「はい」


「お疲れではないかと、心配です」


「公爵様こそ。──お顔色が、お疲れですわ」


エルナはペンを机の上に置いた。そして、ジルベストの方にわずかに姿勢を向けた。


ジルベストは、その動作を視界の端で捉えた。革手袋越しの自分の指が、机の縁でわずかに動く。長く抑えてきた何かが、そこから溢れかけていた。


ジルベストは、ゆっくり右手の革手袋を外した。


エルナは、それを見ていた。


「公爵様」


「はい」


「お手袋を、外していらっしゃいますね」


「……はい」


「外しても、よろしいのですか」


「貴女には、効きません」


「……効かない、ということを、私が、はっきりと自覚するまで、まだ時間がかかります」


「では、自覚していただくまで、私がお側で待ちます」


ジルベストの声は、いつもより、わずかに低かった。抑揚を殺した声ではなくなっていた。彼本来の声に、近づきつつあった。


エルナの手元に、ジルベストの素手がゆっくり近づいた。


革手袋ではなく、彼の指が、エルナの手の指に触れた。そして軽く、彼女の指の上に置かれた。


エルナは、避けなかった。


「公爵様」


「はい」


「私は、貴女のことを、毎日、考えています」


エルナは、ジルベストの瞳を見た。


ジルベストの氷青の瞳の奥で、長く抑えてきた何かが、初めて輪郭を持ち始めていた。屋敷の使用人にも、ヴィクトリアにも、王太子にも見せたことのない、彼自身の表情だった。


「貴女が、屋敷の中庭を歩いているとき。書庫で本を読まれているとき。朝、廊下を軽い足音でお歩きになるとき。私は、そのすべてを考えています」


「……」


「貴女が、私の【魅惑】に効かないことが、最初はただ、安堵でした。ですが、いつの間にか、それは安堵ではなく、別の感情に変わっていました」


エルナの指の上に置かれた、ジルベストの素手の指が、ゆっくり絡まっていく。


エルナは、しばらく、その絡まる指を見ていた。自分の中で、何かが、初めて動き出していた。


胸の奥が、じん、と熱い。頬に、燭台の火よりも早い熱が上る。息が浅い。いつもの呼吸ではない。


──これは、何だろう。


エルナは、書庫で長く見てきた「妹の魅了下にある人々」の顔を思い出した。頬を紅潮させ、息を浅くし、誰かを目で追う顔。それが魅了の結果だと、ずっと信じてきた。


──私も、いつのまにか、魅了されているのだろうか。


そう思いかけて、すぐに思い直した。クラウスの診断を、忘れてはいない。魔力は、彼女には届かない。ジルベストの【魅惑】も、例外のはずがなかった。


では、いま、この胸の奥にあるものは、何なのか。


エルナの指が、ジルベストの素手の指に、わずかに強く絡まった。誰かの手を、自分から握り返すのは、初めてだった。


「公爵様」


「はい」


「私の胸の奥に、いま、何かがあります」


「……」


「妹の魅了に当てられた人々の表情と、似ています。ですが、私には、その魅了は効かない、と、ヘルガード様は、おっしゃいました」


「ええ」


「では、いま、私の胸にあるのは、何でしょうか」


ジルベストは、ゆっくりと、もう一方の革手袋も外した。


両手が、素手になった。


そして、片方の手で、エルナの頬に、初めて直接触れた。


エルナの体が、わずかに震えた。だが、避けなかった。


「公爵様」


「はい」


「それは、貴女ご自身の感情です」


「……」


「魅了でも、魔法でも、ありません。それは、貴女が長く屋根裏で、誰にも与えられなかったために、自分の中にあると気づけなかった、生まれつきの、貴女自身のものです」


エルナの目の奥が、じわりと熱くなった。


「私の、もの」


「ええ」


「私にも、これが、あったのですか」


ジルベストは頷いた。頷きながら、彼女の頬に浮いた雫を、素手の親指で軽く拭った。


エルナは、目を閉じた。頬の上の、彼の素手の温かさを感じていた。屋根裏の冷気とも、シルヴィアの平手とも、まったく違う、初めての温度だった。


ジルベストの顔が、わずかに近づいた。


エルナは目を閉じたまま、彼の呼吸を頬の近くに感じた。


唇が、触れる寸前だった。


エルナの肩が、わずかに震えた。


「……公爵様」


「はい」


「もう、少しだけ、先に、進ませていただいて、よろしいですか」


「進む、というのは」


「私の頬に、ご手の温度があります。ですが、私は、まだ貴方様のお顔を、見ていません。私はまず、貴方様のお顔を、ちゃんと見てから、その先に進みたいのです」


ジルベストは、しばらく止まった。それから、ゆっくり頷いた。


「……お顔を、ご覧ください」


「はい」


エルナは、目を開いた。


ジルベストの氷青の瞳が、目の前にあった。革手袋越しではない、彼の素手が、彼女の頬に置かれている。彼の表情に、いつもの抑えた仮面は、もうなかった。


ただ、彼女を見ていた。


「公爵様」


「はい」


「もう一度、お顔を、見せてください。明日も、明後日も、その先も、毎日、見せてください」


「……ええ」


「そうしたら、私は、ようやく、貴方様の唇に、触れる準備が、できます」


ジルベストは、しばらく彼女の言葉を考えていた。それから、わずかに笑った。エルナに見せた、初めての、力の抜けた微笑だった。


「分かりました。明日も、明後日も、その先も、毎日、お顔を、お見せします」


「……ありがとう、ございます」


唇は、触れなかった。


代わりに、ジルベストはエルナの頬の上に、額を軽く寄せた。頬と額が合わさる。ふたりは、その姿勢のまま、しばらく、書庫の燭台の灯の中に立っていた。


機の上で、書類は、まだ半分しか整理されていなかった。だが、その夜、二人は、もう書類には戻らなかった。


カイは、書庫の前を二度ほど通った。だが、扉は開けなかった。廊下の灯をひとつだけ絞ってから、自室に戻った。


外の夜は、雪解けの湿った匂いがしていた。


冬の終わりの、最も静かな夜だった。


書庫の燭台は、朝まで、灯ったままだった。


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