「公開鑑定──イリスの仮面」 ※残酷シーン
王宮の中央教会、儀式室。
千年前に建てられた、王国で最も古い、そして最も荘厳な、聖堂。
天井のドームには、星座の模様が、銀の箔で、描かれていた。
中央の祭壇には、本物の鑑定盤が、設置されている。
直径三尺、重さ五十貫の銀の台座に、青白い水晶が、嵌め込まれた、王国の宝。
石の壁は、冬の冷気を、そのまま、蓄えていた。
古い香の匂いが、床の石目に、染みついている。
その匂いを吸うたび、エルナは、六年前の教会の匂いを、思い出した。
「F級」と、告げられた、あの日の匂いだった。
その儀式室に、その日、王国の主だった人々が、集められていた。
王太子レオハルト。
ローエンクラム公爵ジルベストと、その妻エルナ。
ヴァイス侯爵ヴァロル、その妻シルヴィア、その娘イリス。
教会大司教ベルント。
社交界の上位貴族、四十名。
王宮文官府の主席文官、三名。
そして、傍聴席に、ヴィクトリア・フォン・アスカニア公爵令嬢、宮廷魔導院クラウス・ヘルガード、執事カイ、侍女マリエッタ。
特別査問会、開廷。
王太子レオハルトが、儀式室の中央の高座から、立ち上がった。
「本日、王宮の名のもとに、ヴァイス侯爵家の二人の令嬢の、再鑑定を、行う」
レオハルトの声は、はっきりとしていた。
五年間の魅了下にあった人物の声では、もう、なかった。
彼は、この一週間、エルナの傍で過ごす時間を、幾度か持ち、その都度、少しずつ、自分自身の声を、取り戻していた。
「鑑定の儀は、教会の管轄である。
だが、本日の鑑定は、王宮の特別査問会の一部として、実施される。
教会には、鑑定盤の運用にあたって、王宮文官の立ち会いを、許可されたい」
ベルント大司教は、高座の脇で、わずかに、顔色を、変えた。
「殿下。──このような、前例は、ございません」
「前例は、ない。だが、今日、作る」
レオハルトの声は、退かなかった。
ベルントは、しばらく、沈黙し、それから、低く、頷いた。
拒否すれば、それ自体が、自白になる。彼にも、それは、わかっていた。
「では、お始め、いただきましょう」
レオハルトは、エルナと、イリスを、儀式室の中央に、招いた。
二人の令嬢は、儀式室の中央の床に、向き合って、立った。
エルナは、淡い灰色のドレス。胸元には、母の銀の指輪を、ペンダントにして、首から、下げていた。
イリスは、純白のドレス。彼女は、まだ、笑みを、保っていた。
だが、笑みの内側で、わずかに、不安の翳が、揺らいでいた。
「ヴァイス侯爵令嬢、お二人」
レオハルトが、低く、告げた。
「順次、鑑定盤の前に、お立ちください。
最初に、ローエンクラム公爵夫人、エルナ・ローエンクラム」
エルナは、ゆっくりと、鑑定盤の前に、進んだ。
水晶の前で、彼女は、一度、深く、呼吸した。
そして、痩せた右手の掌を、水晶の上に、重ねた。
水晶は、何の光も、放たなかった。
皿の縁の文字盤も、ぴくりとも、動かなかった。
儀式室の中で、貴族たちが、どよめいた。
──「無反応」だ。
──やはり、F級だったのか?
そう、思った貴族の何人かを、レオハルトは、視線で、押さえた。
「文官、記録を取れ。
被験者、エルナ・ローエンクラム。鑑定結果、無反応」
「は」
文官が、書類に、書きつけた。
レオハルトは、続けて、告げた。
「では、次の被験者、イリス・ヴァイス、お進みください」
イリスの体が、わずかに、固くなった。
彼女は、笑みを、なんとか、保ったまま、鑑定盤の前に、進んだ。
水晶の上に、白い掌を、置いた。
水晶は、淡い、薄水色の光を、帯びた。
光は、徐々に、強くなり、皿の縁の文字盤に、文字が、浮かんだ。
『S級・魅了系統』
儀式室の中で、貴族たちが、二度目の、どよめきを上げた。
「魅了……」
「魅惑、ではなく」
「あの令嬢のスキルは、魅了、だったのか」
レオハルトは、頷いた。
そして、儀式室の中央に、エルナを、もう一度、招いた。
エルナは、ゆっくりと、鑑定盤の脇に、戻った。
エルナが、儀式室の中央に、立った瞬間。
彼女は、自分の掌が、熱を持つのを、感じた。
いつもの、指先の、澄んだ冷たさとは、違う。
何かが、体の内側から、外へ、押し出されていく感覚だった。
四方を、分厚い石の壁に、囲まれた部屋。
天井のドームは、高く、逃げ場がない。
彼女自身の力が、行き場を失って、掌の中で、渦を巻いていた。
傍聴席の隅で、クラウス・ヘルガードが、低く、呟いた。
「……密度が、違う」
隣に座る文官が、振り返った。
「何のことです」
「公爵夫人の【魔力無干渉】の場だ。
屋敷の応接間のような、開けた場所では、力は、薄く、広がる。
だが、ここは、石造りの、密閉された聖堂だ。
逃げ場のない力が、ドームの下に、溜まっている」
クラウスは、儀式室の天井を、見上げた。
「これは、殿下のときとは、条件が、違う。
殿下は、開けた応接間で、時間をかけて、お一人と、向き合われた。
ここでは、四十名以上が、同時に、閉じ込められている──いわば、力の、洪水だ」
ジルベストが、隣で、静かに、頷いた。
「速さが、違うのは、それだけでは、ないでしょう」
「ああ」
クラウスは、声を、さらに、低くした。
「負い目の深い者ほど、皮膜は、薄い。
負い目のない者は、まだ、しばらく、時間が、かかる」
社交界の貴族たちの間で、どよめきが、揺れた。
何人かが、額を、押さえた。
何人かが、隣人と、顔を、見合わせた。
だが、そのほとんどは、まだ、戸惑いの、域を出なかった。
彼らの記憶は、まだ、輪郭を、結ばない。
──ただ、いま、自分が、何かを、忘れていたことにだけ、気づき始めていた。
イリスは、崩れていく周囲の空気を、感じ取った。
彼女は、反射的に、いつもの笑みを、深くした。
「皆さま、大丈夫でございますよ。
少し、儀式の光に、あてられただけです」
その声には、いつもの、甘い響きが、あった。
だが、誰も、彼女を、見なかった。
イリスの喉が、小さく、鳴った。
もう一度、声を、張った。
「お父様。
私は、ここに、おりますよ」
ヴァロルは、答えなかった。
彼の視線は、床の一点に、落ちたままだった。
イリスの指先が、扇の骨を、握った。
初めて、その手が、震えた。
五年間、彼女の声は、いつも、誰かを、振り向かせてきた。
振り向かない者は、いなかった。
「……どうして」
イリスの唇が、震えた。
「どうして、皆さま、お顔色が、変わるのですか」
誰も、答えなかった。
ヴァロル・ヴァイス侯爵の体が、椅子の背もたれに、深く、沈んだ。
指先が、肘掛けを、強く、握った。
最初に、戻ってきたのは、匂いだった。
インクと、羊皮紙の匂い。六年前の、書斎の匂い。
あの朝、彼は、書斎の机で、一枚の書類に、署名した。
『長女エルナ・ヴァイスを、屋根裏部屋に、移す』
文官の用意した、事務的な一文だった。
娘の顔は、見なかった。
ペン先の、インクの匂いだけを、覚えていた。
ヴァロルの喉が、鳴った。
そして、もうひとつ。
それから一年ののち、フィオネが床に伏せるようになった、あの冬。
彼は、廊下の陰から、見ていた。
シルヴィアが、フィオネの寝室から、小さな瓶を、持ち出すのを。
彼は、その瓶が、何であるか、聞かなかった。
聞けば、答えを、知ってしまうから。
「私は……」
声が、震えた。
「私は、見ていた。あの朝、シルヴィアが、フィオネの寝室から、何かを、持ち出すのを。
瓶だった。小さな、硝子の瓶。
私は、それが、何か、聞かなかった。
聞けば……分かって、しまうから」
ヴァロルの目が、初めて、まっすぐに、エルナを、見た。
「私は、お前を、屋根裏に、移す書類にも、署名した。
お前の顔を、見なかった。
書類だけを、見ていた」
シルヴィアが、両手で、自分の喉元を、掻いた。
指の下で、襟のレースが、歪んだ。
口から、声にならない、掠れた音が、漏れた。
それから、彼女は、勢いよく、顔を、上げた。
瞳孔が、ひどく、開いていた。
「……違う」
シルヴィアの声は、上ずっていた。
「私は、何も。私は、ただ……」
言葉が、途切れた。
彼女は、隣のヴァロルを、睨んだ。
「あなたが、黙っていたから!
あなたが、見て見ぬふりを、したから!
私、ひとりの、罪では……」
「シルヴィア」
ヴァロルの声は、低かった。
「もう、いい」
シルヴィアは、それ以上、言葉を、継げなかった。
両手が、自分のドレスの胸元を、強く、握った。
その指の白さが、儀式室の灯りの下で、際立っていた。
ヴィクトリアは、傍聴席の手すりに、指を、かけていた。
指先が、白く、なるほど、強く。
三年前の、ある夜会の記憶が、不意に、戻ってきた。
「ヴァイス侯爵家の長女は、気位が高く、付き合いにくい」
そう、誰かが、言うのを聞いて、ヴィクトリアは、笑って、頷いた。
会ったことも、なかったのに。
呼吸が、浅く、なった。
手すりを、握る手に、力が、こもった。
「……そんな」
小さく、声が、漏れた。
それから、彼女は、椅子から、立ち上がった。
「奥様」
ヴィクトリアの声は、震えを、押し殺していた。
「私は、五年前、ヴァイス侯爵家の長女のお名前で、夜会に出席されていた令嬢が、別人ではないかと、薄々、感じておりました。
ですが、それを、はっきりと、認識する前に、その記憶は、いつも、消えていきました。
今、はっきりと、思い出します」
ヴィクトリアは、エルナの方を、見た。
「私は、噂だけを、聞いて、貴女を、判じていました。
一度も、確かめようと、せずに」
その一言に、彼女自身の声が、詰まった。
ベルント大司教が、汗を、額に、滲ませた。
彼は、王太子の方を、見た。
「殿下、本日の儀式は、これにて、ご閉会、ということで」
「いいえ」
レオハルトの声は、低かった。
「儀式は、まだ、終わっていない。──証拠を、提出する」
レオハルトは、机の上に、革のノートを、置いた。
それは、クラウスが、禁書庫から書写した、鑑定盤改造記録だった。
「ベルント大司教」
「……」
「鑑定盤には、儀式執行者の手元の銀の小鈴で、判定結果を上下三段階、操作する機構が、組み込まれている。これを、公文書として、王宮文官府に、本日、開示する」
ベルントの顔から、血の気が、引いた。
「並びに、ヴァイス侯爵家令嬢エルナ・ヴァイスの鑑定は、二度、行われている。
一度目は、本物のエルナ嬢、F級。
二度目は、現在、王太子の婚約者として登録されている令嬢の、S級・魅了系統。
この二度目の鑑定は、ベルント大司教の判断で、被験者の名を『エルナ・ヴァイス』として、登録された」
レオハルトの声は、儀式室全体に、響いた。
「これにより、本来、家督継承権のない妾の娘イリス・ヴァイスが、ヴァイス侯爵家の正統な令嬢として、王太子の婚約者の地位を、得ていた」
イリスの扇が、床に、落ちた。
音は、思いのほか、小さかった。
彼女は、それを、拾わなかった。
「……間違いです」
声は、まだ、甘さを、残そうとしていた。
「何かの、お間違いです。
私は、ただ……」
言葉が、続かなかった。
儀式室の四十名の視線が、一斉に、彼女に、注がれていた。
そのどれもが、もう、彼女を、見て、蕩けなかった。
イリスの喉が、上下した。
それから、彼女の口から、堰を切ったように、言葉が、溢れた。
「私の、何が、悪いの」
声は、震えていた。
「私は、ただ、欲しいものを、欲しがっただけよ。
お父様も、お屋敷も、社交界も、王太子殿下も。
私が、欲しいと思った瞬間に、皆、私のものに、なった。
それは、私のスキルの、お陰でしょう?
私は、何も、悪くない」
イリスの視線が、ジルベストの方へ、動いた。
「ジルベスト様だって、本当は──
お姉さまなんかより、私の方が、ずっと」
ジルベストは、何も、言わなかった。
その沈黙が、答えだった。
イリスの顔が、初めて、大きく、歪んだ。
「お姉さまは、いつも、屋根裏に、いた。
社交界に、出ていなかった。
だから、私が、お姉さまの代わりに、出ていただけ。
それの、何が、いけないの」
エルナは、儀式室の中央で、妹を、見ていた。
長く、長く、見ていた。
そして、低く、答えた。
「イリス」
「……お姉さま」
「貴女は、自分のスキルが、人を、不自由にしていることに、気づいていなかったの」
「不自由?
私は、皆を、自由に、してあげていたわ。
私のことが好き、というだけで、皆、幸せそうだった」
「それは、自由では、ないわ」
エルナの声は、低かった。
だが、震えていなかった。
「貴女のお陰で『好き』にされていた人々は、貴女が居なくなった瞬間、自分自身を、見失う。
それは、自由ではなく、依存。
そして、貴女は、その依存を、利用してきた」
イリスは、首を、横に振った。
「分からないわ、お姉さま。
私には、皆が私のことを好きで、それで皆が幸せで、それの何が悪いの」
「お姉さまだって……」
イリスの声が、初めて、幼く、なった。
「お姉さまだって、本当は、皆に、好かれたかったんでしょう?
屋根裏で、ひとりぼっちで。
私は、ただ、お姉さまの、できなかったことを、しただけよ」
エルナの指先が、胸元の銀の指輪に、触れた。
それは、彼女が、答えの代わりに、選んだ、たった一つの動作だった。
「私は、屋根裏で、独りだったわ」
エルナの声は、静かだった。
「でも、私は、誰かを、不自由にすることでは、埋めなかった」
イリスは、その言葉に、何かを、言い返そうとした。
唇が、開いた。
だが、音は、出てこなかった。
エルナは、それ以上、答えなかった。
妹は、彼女の言葉を、本当に、理解していなかった。
それが、十五歳まで、彼女の中で、培われた価値観だった。
彼女もまた、別の意味で、被害者だった、のかもしれない。
イリスの膝が、崩れた。
彼女は、儀式室の床に、両膝を、ついた。
両手で、ドレスの裾を、握った。
その顔から、五年間、片時も、剥がれなかった微笑みが、初めて、崩れた。
声にならない声が、彼女の喉から、漏れた。
ベルント大司教が、王太子の前で、深く、頭を、下げた。
「殿下。──本日の鑑定盤の運用に関する、私の関与については、私の責任を、免れません。
しかしながら、三百年に渡る教会の、儀式運営の歴史については、私一人の判断ではなく──」
「それは、別途、調査する」
レオハルトの声は、揺らがなかった。
「本日、貴殿の身柄を、王宮で、預かる。
ヴァイス侯爵、その妻シルヴィア、ご息女イリス嬢の身柄も、同様。
別棟にて、各別の室で、待機いただきたい」
王宮の衛兵が、四名、儀式室に、入ってきた。
イリスは、立ち上がろうとした。
そして、よろめいた。
彼女の【魅了】が、解けかけたことで、彼女自身の精神が、初めて、無防備に、世界に、晒されていた。
それは、彼女にとって、生まれて初めての、孤立、だった。
衛兵の二人が、イリスの両脇を、支えた。
彼女は、抵抗しなかった。
儀式室を出るとき、イリスは、エルナの方を、振り返った。
その瞳には、笑みも、敵意も、もう、なかった。
ただ、ぽっかりと、空白が、あった。
「お姉さま」
「……」
「私は、これから、どこへ、行くの」
エルナは、答えなかった。
答える術を、まだ、持たなかった。
衛兵が、イリスを、儀式室の外へ、連れ出した。
ヴァロル、シルヴィア、ベルントも、別々の衛兵に、伴われて、退出した。
儀式室の中央には、ふたたび、エルナと、ジルベストと、レオハルトだけが、残った。
エルナは、自分の両手を、見ていた。
両手は、わずかに、震えていた。
ジルベストが、革手袋越しに、その両手を、軽く、包んだ。
「奥様」
「……公爵様」
「お顔色が、よくありません。お屋敷へ、戻りましょう」
「はい」
レオハルトが、低く、告げた。
「公爵夫人。──本日のことは、王国の、新しい歴史の、始まりだ。
俺は、これから、貴女のような被害を受けてきた者たちを、すべて、調べ、回復させる。
それが、王太子としての、俺の、これからの役目だ」
「……殿下」
「ありがとう」
レオハルトは、深く、頭を、下げた。
それは、王太子が、ひとりの女性に、行う礼の角度では、なかった。
それは、ひとりの男が、自分の心を、取り戻させてくれた人物に、捧げる、最大の礼だった。
エルナは、その礼を、静かに、受けた。
馬車に乗り込むとき、王宮の門の上で、ようやく、晩冬の最後の雪が、舞い始めた。
その雪は、地面に、届く前に、解けていった。
冬は、その日、終わった。




