「ヴァイス侯爵家の終わり」
公開鑑定から、一週間後。
王宮文官府の判決が、下された。
ヴァロル・ヴァイス侯爵──爵位剥奪、領地没収、終身幽閉。
シルヴィア・ヴァイス(旧妾、後妻)──毒殺の罪、および、エルナへの三度に渡る暗殺教唆の罪により、処刑。
イリス・ヴァイス──未成年であること、自身の【魅了】の暴発により精神が崩壊しかけていることを、考慮し、辺境の修道院送り。終身、社交界への復帰を、禁ず。
ベルント大司教──鑑定盤改造への関与、寄進金との引き換えに鑑定結果を改竄した罪により、処刑。教会の鑑定の儀の運用は、王宮文官府の監督下に、再編成される。
判決の写しが、ローエンクラム公爵邸に、届いたのは、雪解けの最初の朝だった。
カイが、書斎で、それを、ジルベストとエルナの前に、広げた。
エルナは、しばらく、その紙を、見ていた。
ヴァロルの名、シルヴィアの名、イリスの名、ベルントの名。
五年前、母を見殺しにした人々の名前。
「奥様」
ジルベストが、低く、声を、かけた。
「これは、貴女にとって、お母様の仇討ち、でも、ありますね」
「……はい」
エルナは、紙の中の一行に、指を、止めた。
『シルヴィア・ヴァイス──毒殺の罪により、処刑』
執行は、三日後、と、決まっていた。
「公爵様」
「はい」
「処刑の前に、一度だけ、シルヴィアに、会わせて、いただけますか」
ジルベストは、しばらく、答えなかった。
それから、静かに、頷いた。
「……分かりました。手配、いたします」
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王宮の北の塔は、日の当たらない裏庭に、灰色の影を、長く、落としていた。
塔の入り口で、看守が、鍵束を、鳴らした。
石段を上るごとに、鉄と、湿った石の匂いが、濃くなっていく。
ジルベストは、最上段の踊り場で、足を、止めた。
「私は、ここで、待ちます」
「……はい」
エルナは、一人で、独房の扉の前に、立った。
看守が、鍵を、回す。
重い音が、狭い石の空間に、響いた。
扉の奥、格子窓ひとつの独房に、シルヴィアが、いた。
囚人服は、彼女には、大きすぎた。
だが、椅子に座る姿勢は、社交界にいた頃と、変わらない。
背筋は、まだ、伸びていた。
「……あら」
シルヴィアが、顔を、上げた。
唇の端に、かすかな笑みが、浮かぶ。
「勝ち誇りに、いらしたの。エルナ」
「いいえ」
エルナは、扉の脇に、立ったまま、答えた。
「一つだけ、伺いたくて、まいりました」
「何かしら」
「母の薬湯に、毒を、混ぜたとき。──貴女は、母の顔を、見ましたか」
シルヴィアの笑みが、一瞬、止まった。
それから、彼女は、視線を、格子窓の外へ、逃がした。
「見ていないわ。侍女に、頼んだもの」
「侍女に、頼んだ」
「フィオネの顔なんて、見る価値も、なかった。
あの人は、ただの、邪魔だったのよ。
イリスの、道の上の」
エルナは、答えなかった。
その沈黙の中で、シルヴィアが、続けた。
「あなたも、分かるでしょう。
私は、イリスのために、やったの。
あの子に、正当な地位を、与えるために。
それの、何が、悪いの」
「……」
「あなたが、責めるべきは、私じゃないわ。
私に、それをさせた、この家の仕組みそのものよ。
妾の娘には、何も、与えられない。
だから、私は、奪うしかなかった」
「もう一つ、伺いたいことが、ございます」
「まだ、あるの」
「屋敷を出てから、三度、命を狙われました。毒、矢、そして、刃。
──あれも、貴女の、差し金ですか」
シルヴィアは、一拍、置いた。それから、小さく、笑った。
「ええ。あなたが、公爵様に、大切にされ始めていると、噂に、聞いたから。
イリスの立場が、崩れる前に、消えてもらうつもりだったの。
刺客は、私が、雇ったわ。あの子たちが、自分で死を選ぶとまでは、思わなかったけれど」
「……そう、ですか」
シルヴィアの声は、揺るがなかった。
だが、膝の上の右手が、囚人服の裾を、強く、握っていた。
その指の白さに、エルナは、初めて、気づいた。
「シルヴィア様」
「……何」
「処刑は、三日後、と、伺いました」
シルヴィアの喉が、小さく、動いた。
一拍、間が、空く。
「……それが、どうしたの」
声は、変わらない。
だが、格子窓から差す光の中で、彼女の頬の色が、一段、白く、見えた。
エルナは、それ以上、何も、言わなかった。
必要な言葉は、もう、なかった。
「エルナ」
「……はい」
「あなたは、私に、謝ってほしくて、来たの?」
「いいえ」
エルナは、静かに、答えた。
「私は、貴女が、何を、奪ったかを、貴女自身の口から、確かめに、まいりました」
シルヴィアは、しばらく、エルナを、見ていた。
それから、また、視線を、格子窓の外へ、逃がした。
「……もう、行って」
エルナは、一礼して、踵を、返した。
看守が、扉を、閉めた。
重い音が、もう一度、石の空間に、響いた。
石段を下りる、エルナの手は、もう、震えていなかった。
謝罪は、来なかった。
それでも、良かった。
踊り場で待っていたジルベストが、革手袋越しに、エルナの両手を、軽く、包んだ。
「奥様。お顔色が、よくありません。お屋敷へ、戻りましょう」
「はい」
塔を出ると、灰色の空から、細い光が、一筋、差していた。
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シルヴィアの処刑は、三日後、静かに、執り行われた。
エルナは、立ち会わなかった。
その日、彼女は、公爵邸の庭で、一日、過ごした。
その二日後、ジルベストが、低く、言った。
「奥様。──お母様の墓所に、まいりませんか」
エルナは、長く、彼を、見ていた。
そして、頷いた。
「……はい。お願い、いたします」
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ヴァイス侯爵家の領地は、すでに、王家の管理下に、置かれていた。
だが、屋敷の裏の、母フィオネの墓は、私領の一角にあった。
判決で、エルナの母の私領のみが、エルナに、返還される、と決まっていた。
エルナとジルベストは、ヴィクトリアと、執事カイを、伴って、領地に、向かった。
馬車は、半日かけて、王都の郊外を、走った。
雪は、もう、すっかり、解けていた。
道の両脇では、最初の春の草が、淡い緑を、伸ばし始めていた。
ヴァイス侯爵家の屋敷が、丘の向こうに、見えてきたとき、エルナの体は、わずかに、強張った。
ジルベストは、それに、気づき、低く、言った。
「屋敷の中には、入りません。
墓所だけ、お参りいたしましょう」
「はい」
馬車は、屋敷の脇を、通り過ぎ、裏手の丘に、向かった。
丘の上に、白い柵で囲まれた、小さな墓所が、あった。
ヴァイス侯爵家代々の、墓地。
中央に、新しめの墓碑が、ひとつ、立っていた。
『フィオネ・ヴァイス
享年三十四』
エルナは、五年ぶりに、母の墓の前に、立った。
墓碑は、雨と風で、わずかに、汚れていた。
だが、誰かが、定期的に、掃除をしていたらしく、苔は、つかなかった。
ジルベストが、ヴィクトリアを通じて、墓守を、雇ってくれていた。
エルナは、それを、最近になって、知った。
エルナは、母の指輪を、首から、外した。
銀の細い輪。水色の小石。
五年間、彼女が、屋根裏で、ただ一つ、誰にも奪われずに、守ってきたもの。
その指輪を、墓碑の上に、そっと、翳した。
「お母さま」
声は、丘の風に、薄く、流れた。
「私は、戻って、まいりました」
エルナの瞳に、ようやく、涙が、滲んだ。
公爵邸に来てから、彼女が、まだ、誰にも、見せなかった涙だった。
「お母さまの、見ていらした、最後の場面、私が、屋根裏に、閉じ込められていく姿を、覚えていらっしゃるなら、お忘れください。
私は、もう、屋根裏には、おりません。
私の真スキルは、SSS級、【魔力無干渉】でした。
私は、無能では、ありませんでした」
エルナの指が、震えた。
だが、声は、震えなかった。
「お母さまは、ご自分のお命を、奪われました。
シルヴィアは、毒を、お母さまの薬湯に、混ぜていました。
お父様は、それを、知っていて、黙認していました。
すべては、イリスを、家督継承権のある令嬢として、押し上げるため、でした」
「……」
「シルヴィアには、三日前、一度だけ、会いました。
最後まで、詫びる言葉は、ありませんでした。
それでも、私は、自分の目で、確かめました。
お母さまから、何が、奪われたのか。
私は、これで、お母さまの、無念を、晴らしたつもりです」
エルナは、指輪を、墓碑の上に、ほんの一瞬、置いた。
水色の石が、墓碑の銀の縁に、軽く、触れた。
その触れた瞬間、不思議なことに、石は、いつもと違う、わずかな光を、放った。
それは、燭台の灯ではなく、空の、薄い春の光を、返した光だった。
エルナは、しばらく、その光を、見ていた。
そして、指輪を、戻した。
首に、もう一度、掛けた。
──私の、もの。
母が、五年前に、最後に、彼女の掌に握らせたもの。
それは、もう、誰にも、奪われない。
エルナは、深く、頭を、下げた。
そして、長く、姿勢を、保った。
その姿勢の背に、ふっと、軽い、暖かいものが、触れた。
ジルベストの、革手袋を、外した、素手だった。
革手袋は、彼の片手に、束ねて、握られていた。
彼は、静かに、エルナの隣に、立っていた。
素手で、彼女の肩に、軽く、触れた。
「奥様」
「はい」
「お母様も、貴女のことを、誇りに思って、いらっしゃいますよ」
エルナは、頷いた。
頷いた瞬間、ようやく、両頬を、涙が、伝った。
「……公爵様」
「はい」
「私の、お母さまの仇討ちに、お力を、貸して、くださって。
ありがとう、ございました」
「いえ。──私は、貴女の、隣にいただけです」
ジルベストは、彼女の肩に、置いた素手を、ほんの少しだけ、強く、押した。
エルナは、自分の手を、上げた。
そして、彼の素手の上に、自分の素手を、重ねた。
肩の上で、二つの素手が、軽く、絡まった。
ヴィクトリアと、カイは、墓所の柵の外で、控えていた。
丘の風が、彼らの背を、軽く、押した。
雪解けの、淡い春の光が、丘の頂を、照らしていた。
エルナは、しばらく、母の墓の前で、立っていた。
誰も、彼女を、急かさなかった。
そして、彼女は、ようやく、踵を、返した。
帰路の馬車の中で、エルナは、母の指輪を、両手で、握っていた。
「公爵様」
「はい」
「これからの、ヴァイス侯爵家の領地は、どうなるのでしょうか」
「奥様の、お母様の私領のみが、奥様にご返還されます。
ヴァイス侯爵家本体の領地は、王家の預かりです。
新しい領主が、決まるまで、しばらく、王家の管理下に、置かれます」
「私の、お母さまの私領は、どこですか」
「ベルゲンの森の、北側です。
小さな村が、二つ。森林と、わずかな農地。屋敷は、ありません」
「そうですか」
エルナは、しばらく、考えた。
そして、低く、言った。
「私の、お母さまの私領は、王家に、寄付したく存じます」
「奥様」
ジルベストは、わずかに、驚いて、彼女を、見た。
「私は、お母さまの私領を、所有することに、こだわりません。
お母さまの想いは、私の、母の指輪と、私の心の中に、すでに、ございます。
土地は、王家を通じて、地域の発展に、使っていただきたいと、思います」
「……」
「条件は、ひとつだけ。
ベルゲンの森の村に、お母さまの名を冠した、小さな図書館を、建てていただきたいのです。
お母さまは、書物が、お好きでした」
ジルベストは、長く、彼女を、見ていた。
それから、深く、頷いた。
「殿下に、お伝えします。
殿下は、必ず、お聞き入れくださるでしょう」
「はい」
馬車の窓の外で、雪解けの淡い春の景色が、流れていた。
丘の向こうの、ヴァイス侯爵家の屋敷は、もう、見えなかった。
エルナの首から下がる、母の指輪は、馬車の揺れに、軽く、揺れていた。
水色の石は、いつもと同じ光を、返していた。
だが、彼女の心の中の、その光の意味は、もう、屋根裏の頃のものとは、まったく、違っていた。
それは、もう、奪われないものの、光だった。




