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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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23/26

「ヴァイス侯爵家の終わり」

公開鑑定から、一週間後。


王宮文官府の判決が、下された。


ヴァロル・ヴァイス侯爵──爵位剥奪、領地没収、終身幽閉。

シルヴィア・ヴァイス(旧妾、後妻)──毒殺の罪、および、エルナへの三度に渡る暗殺教唆の罪により、処刑。

イリス・ヴァイス──未成年であること、自身の【魅了】の暴発により精神が崩壊しかけていることを、考慮し、辺境の修道院送り。終身、社交界への復帰を、禁ず。

ベルント大司教──鑑定盤改造への関与、寄進金との引き換えに鑑定結果を改竄かいざんした罪により、処刑。教会の鑑定の儀の運用は、王宮文官府の監督下に、再編成される。


判決の写しが、ローエンクラム公爵邸に、届いたのは、雪解けの最初の朝だった。


カイが、書斎で、それを、ジルベストとエルナの前に、広げた。


エルナは、しばらく、その紙を、見ていた。

ヴァロルの名、シルヴィアの名、イリスの名、ベルントの名。

五年前、母を見殺しにした人々の名前。


「奥様」


ジルベストが、低く、声を、かけた。


「これは、貴女にとって、お母様の仇討ち、でも、ありますね」


「……はい」


エルナは、紙の中の一行に、指を、止めた。


『シルヴィア・ヴァイス──毒殺の罪により、処刑』


執行は、三日後、と、決まっていた。


「公爵様」


「はい」


「処刑の前に、一度だけ、シルヴィアに、会わせて、いただけますか」


ジルベストは、しばらく、答えなかった。

それから、静かに、頷いた。


「……分かりました。手配、いたします」


---


王宮の北の塔は、日の当たらない裏庭に、灰色の影を、長く、落としていた。


塔の入り口で、看守が、鍵束を、鳴らした。

石段を上るごとに、鉄と、湿った石の匂いが、濃くなっていく。


ジルベストは、最上段の踊り場で、足を、止めた。


「私は、ここで、待ちます」


「……はい」


エルナは、一人で、独房の扉の前に、立った。


看守が、鍵を、回す。

重い音が、狭い石の空間に、響いた。


扉の奥、格子窓ひとつの独房に、シルヴィアが、いた。


囚人服は、彼女には、大きすぎた。

だが、椅子に座る姿勢は、社交界にいた頃と、変わらない。

背筋は、まだ、伸びていた。


「……あら」


シルヴィアが、顔を、上げた。

唇の端に、かすかな笑みが、浮かぶ。


「勝ち誇りに、いらしたの。エルナ」


「いいえ」


エルナは、扉の脇に、立ったまま、答えた。


「一つだけ、伺いたくて、まいりました」


「何かしら」


「母の薬湯に、毒を、混ぜたとき。──貴女は、母の顔を、見ましたか」


シルヴィアの笑みが、一瞬、止まった。

それから、彼女は、視線を、格子窓の外へ、逃がした。


「見ていないわ。侍女に、頼んだもの」


「侍女に、頼んだ」


「フィオネの顔なんて、見る価値も、なかった。

あの人は、ただの、邪魔だったのよ。

イリスの、道の上の」


エルナは、答えなかった。

その沈黙の中で、シルヴィアが、続けた。


「あなたも、分かるでしょう。

私は、イリスのために、やったの。

あの子に、正当な地位を、与えるために。

それの、何が、悪いの」


「……」


「あなたが、責めるべきは、私じゃないわ。

私に、それをさせた、この家の仕組みそのものよ。

妾の娘には、何も、与えられない。

だから、私は、奪うしかなかった」


「もう一つ、伺いたいことが、ございます」


「まだ、あるの」


「屋敷を出てから、三度、命を狙われました。毒、矢、そして、刃。

──あれも、貴女の、差し金ですか」


シルヴィアは、一拍、置いた。それから、小さく、笑った。


「ええ。あなたが、公爵様に、大切にされ始めていると、噂に、聞いたから。

イリスの立場が、崩れる前に、消えてもらうつもりだったの。

刺客は、私が、雇ったわ。あの子たちが、自分で死を選ぶとまでは、思わなかったけれど」


「……そう、ですか」


シルヴィアの声は、揺るがなかった。

だが、膝の上の右手が、囚人服の裾を、強く、握っていた。

その指の白さに、エルナは、初めて、気づいた。


「シルヴィア様」


「……何」


「処刑は、三日後、と、伺いました」


シルヴィアの喉が、小さく、動いた。

一拍、間が、空く。


「……それが、どうしたの」


声は、変わらない。

だが、格子窓から差す光の中で、彼女の頬の色が、一段、白く、見えた。


エルナは、それ以上、何も、言わなかった。

必要な言葉は、もう、なかった。


「エルナ」


「……はい」


「あなたは、私に、謝ってほしくて、来たの?」


「いいえ」


エルナは、静かに、答えた。


「私は、貴女が、何を、奪ったかを、貴女自身の口から、確かめに、まいりました」


シルヴィアは、しばらく、エルナを、見ていた。

それから、また、視線を、格子窓の外へ、逃がした。


「……もう、行って」


エルナは、一礼して、踵を、返した。


看守が、扉を、閉めた。

重い音が、もう一度、石の空間に、響いた。


石段を下りる、エルナの手は、もう、震えていなかった。


謝罪は、来なかった。


それでも、良かった。


踊り場で待っていたジルベストが、革手袋越しに、エルナの両手を、軽く、包んだ。


「奥様。お顔色が、よくありません。お屋敷へ、戻りましょう」


「はい」


塔を出ると、灰色の空から、細い光が、一筋、差していた。


---


シルヴィアの処刑は、三日後、静かに、執り行われた。


エルナは、立ち会わなかった。

その日、彼女は、公爵邸の庭で、一日、過ごした。


その二日後、ジルベストが、低く、言った。


「奥様。──お母様の墓所に、まいりませんか」


エルナは、長く、彼を、見ていた。

そして、頷いた。


「……はい。お願い、いたします」


---


ヴァイス侯爵家の領地は、すでに、王家の管理下に、置かれていた。

だが、屋敷の裏の、母フィオネの墓は、私領の一角にあった。

判決で、エルナの母の私領のみが、エルナに、返還される、と決まっていた。


エルナとジルベストは、ヴィクトリアと、執事カイを、伴って、領地に、向かった。


馬車は、半日かけて、王都の郊外を、走った。

雪は、もう、すっかり、解けていた。

道の両脇では、最初の春の草が、淡い緑を、伸ばし始めていた。


ヴァイス侯爵家の屋敷が、丘の向こうに、見えてきたとき、エルナの体は、わずかに、強張った。


ジルベストは、それに、気づき、低く、言った。


「屋敷の中には、入りません。

墓所だけ、お参りいたしましょう」


「はい」


馬車は、屋敷の脇を、通り過ぎ、裏手の丘に、向かった。


丘の上に、白い柵で囲まれた、小さな墓所が、あった。

ヴァイス侯爵家代々の、墓地。

中央に、新しめの墓()が、ひとつ、立っていた。


『フィオネ・ヴァイス

享年三十四』


エルナは、五年ぶりに、母の墓の前に、立った。


墓碑は、雨と風で、わずかに、汚れていた。

だが、誰かが、定期的に、掃除をしていたらしく、苔は、つかなかった。

ジルベストが、ヴィクトリアを通じて、墓守を、雇ってくれていた。

エルナは、それを、最近になって、知った。


エルナは、母の指輪を、首から、外した。

銀の細い輪。水色の小石。

五年間、彼女が、屋根裏で、ただ一つ、誰にも奪われずに、守ってきたもの。


その指輪を、墓()の上に、そっと、かざした。


「お母さま」


声は、丘の風に、薄く、流れた。


「私は、戻って、まいりました」


エルナの瞳に、ようやく、涙が、滲んだ。

公爵邸に来てから、彼女が、まだ、誰にも、見せなかった涙だった。


「お母さまの、見ていらした、最後の場面、私が、屋根裏に、閉じ込められていく姿を、覚えていらっしゃるなら、お忘れください。

私は、もう、屋根裏には、おりません。

私の真スキルは、SSS級、【魔力無干渉】でした。

私は、無能では、ありませんでした」


エルナの指が、震えた。

だが、声は、震えなかった。


「お母さまは、ご自分のお命を、奪われました。

シルヴィアは、毒を、お母さまの薬湯に、混ぜていました。

お父様は、それを、知っていて、黙認していました。

すべては、イリスを、家督継承権のある令嬢として、押し上げるため、でした」


「……」


「シルヴィアには、三日前、一度だけ、会いました。

最後まで、詫びる言葉は、ありませんでした。

それでも、私は、自分の目で、確かめました。

お母さまから、何が、奪われたのか。

私は、これで、お母さまの、無念を、晴らしたつもりです」


エルナは、指輪を、墓碑の上に、ほんの一瞬、置いた。


水色の石が、墓碑の銀の縁に、軽く、触れた。

その触れた瞬間、不思議なことに、石は、いつもと違う、わずかな光を、放った。

それは、しょく台の灯ではなく、空の、薄い春の光を、返した光だった。


エルナは、しばらく、その光を、見ていた。


そして、指輪を、戻した。

首に、もう一度、掛けた。


──私の、もの。


母が、五年前に、最後に、彼女の掌に握らせたもの。

それは、もう、誰にも、奪われない。


エルナは、深く、頭を、下げた。

そして、長く、姿勢を、保った。


その姿勢の背に、ふっと、軽い、暖かいものが、触れた。


ジルベストの、革手袋を、外した、素手だった。


革手袋は、彼の片手に、束ねて、握られていた。

彼は、静かに、エルナの隣に、立っていた。

素手で、彼女の肩に、軽く、触れた。


「奥様」


「はい」


「お母様も、貴女のことを、誇りに思って、いらっしゃいますよ」


エルナは、頷いた。

頷いた瞬間、ようやく、両頬を、涙が、伝った。


「……公爵様」


「はい」


「私の、お母さまの仇討ちに、お力を、貸して、くださって。

ありがとう、ございました」


「いえ。──私は、貴女の、隣にいただけです」


ジルベストは、彼女の肩に、置いた素手を、ほんの少しだけ、強く、押した。


エルナは、自分の手を、上げた。

そして、彼の素手の上に、自分の素手を、重ねた。

肩の上で、二つの素手が、軽く、絡まった。


ヴィクトリアと、カイは、墓所の柵の外で、控えていた。

丘の風が、彼らの背を、軽く、押した。


雪解けの、淡い春の光が、丘の頂を、照らしていた。


エルナは、しばらく、母の墓の前で、立っていた。

誰も、彼女を、急かさなかった。


そして、彼女は、ようやく、踵を、返した。


帰路の馬車の中で、エルナは、母の指輪を、両手で、握っていた。


「公爵様」


「はい」


「これからの、ヴァイス侯爵家の領地は、どうなるのでしょうか」


「奥様の、お母様の私領のみが、奥様にご返還されます。

ヴァイス侯爵家本体の領地は、王家の預かりです。

新しい領主が、決まるまで、しばらく、王家の管理下に、置かれます」


「私の、お母さまの私領は、どこですか」


「ベルゲンの森の、北側です。

小さな村が、二つ。森林と、わずかな農地。屋敷は、ありません」


「そうですか」


エルナは、しばらく、考えた。

そして、低く、言った。


「私の、お母さまの私領は、王家に、寄付したく存じます」


「奥様」


ジルベストは、わずかに、驚いて、彼女を、見た。


「私は、お母さまの私領を、所有することに、こだわりません。

お母さまの想いは、私の、母の指輪と、私の心の中に、すでに、ございます。

土地は、王家を通じて、地域の発展に、使っていただきたいと、思います」


「……」


「条件は、ひとつだけ。

ベルゲンの森の村に、お母さまの名を冠した、小さな図書館を、建てていただきたいのです。

お母さまは、書物が、お好きでした」


ジルベストは、長く、彼女を、見ていた。

それから、深く、頷いた。


「殿下に、お伝えします。

殿下は、必ず、お聞き入れくださるでしょう」


「はい」


馬車の窓の外で、雪解けの淡い春の景色が、流れていた。

丘の向こうの、ヴァイス侯爵家の屋敷は、もう、見えなかった。


エルナの首から下がる、母の指輪は、馬車の揺れに、軽く、揺れていた。

水色の石は、いつもと同じ光を、返していた。


だが、彼女の心の中の、その光の意味は、もう、屋根裏の頃のものとは、まったく、違っていた。


それは、もう、奪われないものの、光だった。

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