「契約ではない結婚」
契約結婚から、ちょうど一年が経った日。
公爵邸の書斎は、最初の春の朝の光で満ちていた。窓のカーテンは、すでに開け放たれていた。庭の薔薇の蕾が、淡い赤をわずかに覗かせ始めていた。
ジルベストは、書斎の机に、二枚の紙を並べていた。
一枚は、一年前の契約書。四項目の、ローエンクラム公爵とエルナ・ヴァイスの、契約結婚の合意書。ふたつの署名が並んでいる紙。
もう一枚は、新しく、彼が自筆で書いた紙。机の上で、まだ署名欄は空白のままだった。
ジルベストは、その新しい紙の上に、革手袋越しの指を軽く置いた。それから、革手袋をゆっくりと外した。両手の手袋を、机の脇に置いた。今日は、もう嵌めるつもりはなかった。
廊下に、足音がした。軽い、しかし、しっかりとした足音だった。エルナが、書斎の方に歩いてきていた。
ジルベストは、机から立ち上がり、扉を自ら開けた。
エルナは、淡い銀のドレスを着ていた。一年前の夜会で着たものと、同じ銀の絹。だが、仕立て直されていて、襟元の傷を隠す高さは、もう必要ないほど、彼女の首筋は健康な色を取り戻していた。
「公爵様。お呼び、いただきまして」
「奥様。──お時間を、ありがとうございます」
エルナは、書斎の中央の椅子に案内された。ジルベストは、向かいの椅子に座らずに、彼女の隣の席に座った。机を挟まず、肩を並べる席。
「奥様」
「はい」
「本日は、ちょうど、一年前の契約結婚の一周年に、あたります」
「……はい」
エルナは、ジルベストの瞳を見た。
ジルベストの氷青の瞳には、いつもより、わずかに緊張がある。だが、抑えた緊張ではなかった。これから、何かを自分の意志で伝えようとする者の緊張だった。
「契約には、四項目がございました」
ジルベストは、机の上の最初の紙を、軽く撫でた。
「一、互いに恋愛感情を持たない。
二、寝室を別にする。
三、一年後に円満離縁する。
四、互いの過去を詮索しない」
「はい」
「本日が、その『一年後』にあたります」
エルナは頷いた。
「契約のとおり、本日をもって、円満に離縁をすることも、できます」
「……」
「それが、貴女のご意志であれば、私は、それに従います」
ジルベストの声は抑えていたが、その抑え方の中に、彼自身の揺れが含まれていた。
エルナは、しばらく答えなかった。
それから、机の上の二枚目の紙を見た。新しく書かれた、空白の署名欄を持つ紙。
「公爵様」
「はい」
「もう一枚は、何ですか」
ジルベストは、二枚目の紙を彼女の前に押し出した。
「これは、契約ではありません」
「契約では、ない?」
「ええ」
ジルベストは、深く息を吸った。
「これは、契約ではない、ただの、結婚の誓書です」
エルナは、その紙の文字をゆっくりと追った。
『私、ジルベスト・ローエンクラムは、エルナ・ローエンクラムを、生涯の妻として、共に在ることを誓います。
彼女の心が私から離れる日があれば、私は彼女を解き放ちます。
彼女の心が私のもとに残る日があれば、私は彼女の隣で、一日ごとに共に生きます。
私の【魅惑】は、彼女には効きません。
ですから、彼女が私のそばにいてくださる場合、それは彼女自身の意志でいてくださる、ということです。
それを、私は生涯、忘れません。
これは、契約ではありません。
これは、互いの、対等な誓いです。
署名するか否かは、彼女が決めてください』
エルナは、長く、その紙を見ていた。
書斎の窓の外で、薔薇の蕾の脇を、最初の春の蝶が、ひとつ横切っていった。
エルナの目に、うっすらと涙の膜が張った。だが、こぼれはしなかった。代わりに、深く息を吸った。
「公爵様」
「はい」
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「もちろんです」
「私は、貴方様の【魅惑】が、効かない人間です。だから、貴方様は私を選んだ。──そう、最初は、おっしゃいました」
「……はい」
「では、もし、私のスキルが、【魔力無干渉】ではなく、別のものだったら。貴方様は、私を選ばれましたか」
ジルベストは、しばらく答えなかった。
それから、ゆっくりと、首を横に振った。
「分かりません」
「……分からない」
「正直に、申し上げます。──分かりません。最初に、私が貴女を選んだのは、確かに、貴女のスキルが、私の【魅惑】を無効にする、と、噂で聞いたからでした。それがなければ、私は、貴女のお屋敷に、お声がけしなかったでしょう」
「……」
「ですが」
ジルベストの声は、わずかに低くなった。
「貴女のお屋敷に伺った日、玄関ホールで、貴女を初めて見たとき。私は、貴女が悪辣な令嬢ではないと、一目で分かりました。貴女の肩の傷の隠し方、声、視線。すべてが、暴力に慣れた者の所作でした。そのとき、私の中で、計画は、すでに変わり始めていました」
「……」
「それから、屋敷で共に過ごした半年。社交界で共に戦った半年。私は、貴女が【無干渉】だから隣にいた、のではありません。貴女が貴女だから、隣にいたのです」
エルナは、その言葉を長く、自分の中で転がした。
「……公爵様」
「はい」
「もう、ひとつ、伺ってもよろしいですか」
「ええ」
「私の胸の奥にある、これは、私自身の感情だ、と、ヘルガード様も、貴方様も、おっしゃいました」
「……はい」
「これは、いつから、私の中に、あったのでしょうか」
ジルベストは、しばらく考えた。それから、低く答えた。
「奥様。──それは、貴女自身が、ご自分で確かめてください。私が答えれば、それは、私のものになってしまいます」
エルナは、ゆっくりと頷いた。
そして、机の上の二枚目の紙を、両手で取った。紙の重みは、最初の契約書より、わずかに軽かった。だが、彼女の中での重みは、もう、契約書とは比べるべくもなかった。
エルナは、羽根ペンを取った。
「公爵様」
「はい」
「私は、貴方様に、届きたい人間でした」
「……」
エルナは、そこで、言葉をいったん切った。羽根ペンの軸を、指の腹で確かめるようになぞる。
「屋根裏にいた頃から、ずっと。届ける手段は、何ひとつ、持っていませんでしたが」
エルナは、ペン先を、紙の上に置いた。
「貴方様の声は、誰にでも、届きすぎるお声でした。私の声は、誰にも届かない声でした。──たぶん、それが、最初の理由です」
「……」
「けれど、隣に、居続けた理由は、それだけでは、なかったのですね」
エルナは、ジルベストを見た。ジルベストの瞳の奥に、彼女が初めて見る表情があった。
エルナは、羽根ペンを、指先で確かめるように握り直した。
「公爵様」
「はい」
「これから先の毎日を、教えていただけますか」
「……」
エルナは、ペンで自分の名を書いた。
『エルナ・ローエンクラム』
字は、震えていなかった。むしろ、屋根裏で、ドレスを繕っていた頃の指の、誰のためでもない動きとは、まったく違う、はっきりとした、自分の意志の動きだった。
ジルベストは、長く、その署名を見ていた。
それから、自分のペンを取った。そして、隣に、自分の名を書いた。
『ジルベスト・ローエンクラム』
二つの署名が並んだ。
一年前の契約書のときの並び方と、紙の上では似ていた。だが、紙の意味が、まったく違った。
ジルベストは、ペンを置いた。革手袋を嵌めなかった。素手で、エルナの素手を、ゆっくりと握った。
エルナは、その素手を握り返した。
そして、初めて自分から、ジルベストの肩に、頭を軽く寄せた。
ジルベストの肩は、思っていたより温かかった。
「奥様」
「はい」
「届きました」
「……はい」
「一年前から、ずっと」
エルナは、目を閉じた。頬の下で、彼の鼓動が、規則正しく打っていた。速くなったり、遅くなったりせず、ただ一定に。エルナは、その一定さを、いつまでも数えていられる気がした。
書斎の窓の外で、春の蝶が、もう一匹、薔薇の蕾の脇を横切った。
二枚目の紙の上のふたつの署名は、最初の契約書のふたつの署名と、もう、まるで違って見えた。
一年前の署名は、指一本、触れさせない距離で並んでいた。今日の署名は、まだ、互いの指の温もりを、紙の上に残していた。
その日は、雪解けの最後の日に、ちょうど当たっていた。
公爵邸の庭に、雪は、もう、どこにも残っていなかった。




