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無能令嬢と魅惑公爵──契約結婚から始まる、誰にも触れられなかった二人の物語  作者: 鷹居鈴野


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エピローグ 「魅惑の届かない庭」

それから、さらに、一年が、経った。


ローエンクラム公爵邸の庭は、二度目の春を、迎えていた。


南向きの広い庭園。

中央に、薔薇のアーチが、ふたつ。

東側に、白いベンチが、いくつか。

西側には、小さな池が、ひとつ。

庭の奥には、新しく植えられた、白樺の若木が、五本、整然と、並んでいた。


午後の日は、空高く、雲は、薄く、棚引いていた。


エルナ・ローエンクラムは、白いベンチに、座っていた。


膝の上には、書物が、一冊。

ベルゲンの森に建てられた『フィオネ・ヴァイス記念図書館』から、最近、届いた一冊だった。

新設された図書館は、村の子供たちが、学ぶ場所として、半年前から、運営が、始まっていた。

エルナは、月に一度、自分でも、何冊か、寄贈していた。


「奥様」


廊下から、マリエッタが、声を、かけてきた。


「お茶を、お持ちいたしましょうか」


「ありがとう、マリエッタ。──二人分、お願いね」


マリエッタは、笑って、頷いた。

左手の薬指で、細い指輪が、日を、はじいた。


「奥様。今朝、夫が、お弁当を、作ってくれたんです。

不格好でしたけど」


「まあ」


「王宮魔導院の、研究助手なんですけど。

魔導具は、器用に、作れるのに、卵焼きは、いつも、焦がすんです」


エルナは、小さく、笑った。


マリエッタは、半年前、その研究助手と、結婚していた。

クラウス・ヘルガードの紹介で出会った、穏やかな男性だった。

公爵邸からほど近い、王都の北の街区に、新しい家を、構えていた。

結婚しても、公爵夫人の侍女は、辞めなかった。

通いの侍女として、変わらず、勤めていた。


「奥様、お庭、お久しぶりですね」


最近、マリエッタが、よく、言う言葉だった。

嫌味ではなく、ただの、近況報告。

マリエッタは、もう、公爵様の足音に、頬を、染めない。

その頬は、いま、卵焼きを焦がす夫のためだけに、色づくように、なっていた。


マリエッタは、一礼して、邸の中に、戻っていった。


執事のカイは、半年前、長年離れて暮らしていた妻を、初めて、公爵邸に、呼び寄せていた。

王都の南の街区で、長く、教師をしていた女性だった。

彼女が、屋敷に定期的に出入りするようになって、公爵邸は、より、温かい色を、帯び始めていた。


ヴィクトリア・フォン・アスカニアは、王宮の女官として、独立していた。

先月、公爵邸を訪れたとき、彼女は、新しい栗毛の馬を、庭先まで、連れてきていた。


「フランツの代わりです」


手綱を、誇らしげに、掲げて、彼女は、言った。

名前は、「自由」。

自分で選んで、つけた名前だった。


レオハルト王太子は、別の女性と、本物の婚約を、結んでいた。

婚約者は、北方の地方貴族の令嬢で、十九歳。

スキルは、A級の【記憶補助】。

レオハルトは、彼女と対面して数日後、自分の心が、自分の意志で、彼女の方に、向かっていくのを、感じていた。

それは、彼にとって、生まれて初めての、自分自身の恋だった。


ベルゼル子爵家、ヘルバーン伯爵家、カミンスキ侯爵家、ヴァイト子爵家。

社交界の主だった貴族たちは、皆、自分自身の頭で、社交界を、組み立て直していた。

イリスの【魅了】下で形作られていた、奇妙な序列は、すでに、消えていた。


イリスは、辺境の修道院で、暮らしていた。

最初の半年は、自分の【魅了】が解けたあとの孤立に、長く、苦しんだ、と、風の噂に、聞いていた。

誰も、彼女を、「過去の事件の主犯」として、責めなかった。

その静寂の中で、少しずつ、彼女は、変わっていったらしい。


エルナは、年に一度、修道院に、短い書簡を、送っていた。

許しの手紙では、なかった。

ただ、無事を、確かめるだけの、数行だった。


先月、初めて、返事が、届いた。


封を切ると、癖のある、右上がりの字が、並んでいた。

昔の、飾り文字だらけの署名とは、違う字だった。


『お姉さま


修道院の裏庭で、レタスを、育てています。

最初は、土に触るのが、嫌でした。

爪の間が、黒くなるからです。

今は、収穫のとき、少しだけ、嬉しいです。


ここでは、誰も、私を、好きになってくれません。

最初は、それが、怖かったです。

いまは、それで、いいのだと、思うようになりました。


イリス』


エルナは、その一枚を、長く、手の中で、持っていた。

それから、丁寧に、折り目に、沿って、畳んだ。


謝罪の言葉は、一行も、なかった。


それでも、良かった。


エルナは、その手紙を、膝の上の書物に、栞の代わりに、挟んだ。


ヴァロル・ヴァイス前侯爵は、王都の北の塔で、終身幽閉の身になっていた。

彼は、判決の二ヶ月後、自ら、口を、閉ざしてしまった。

誰とも、話さない、と決めて、二度と、言葉を発しなかった。

それが、彼にとっての、自分への罰、なのかも、しれなかった。

エルナは、彼に、書簡を、送らなかった。

それは、彼女の中で、整理し終えたことだった。


シルヴィアは、もう、いない。

ベルント大司教も、もう、いない。


クラウス・ヘルガードは、新しい鑑定の儀の運営を、整備中だった。

来年の春から、新しい鑑定盤と、新しい運営手続きで、王国の鑑定の儀が、再開される予定だった。

彼は、半年に一度、公爵邸を、訪れた。

書斎で、ジルベストと、酒を酌み交わすことが、多かった。


---


エルナは、ベンチに座って、書物を、膝の上で、軽く、開いていた。

だが、目は、文字より、庭の薔薇のアーチを、見ていた。


ふと、廊下の方角から、足音が、聞こえてきた。


革靴の音。だが、革手袋をはめていない、人の足音。

エルナは、わずかに、首を、傾けた。

ジルベストの足音。

今は、もう、革手袋を、はめていない。


「奥様」


ジルベストが、ベンチに、近づいてきた。


彼は、黒の上着の上に、薄手の春のショールを、片手に、抱えていた。

それを、エルナの肩に、軽く、掛けた。


「お風邪を、お引きにならないように」


「ありがとう、ございます」


ジルベストは、エルナの隣に、座った。

革手袋なしの素手で、彼女の手の上に、自分の手を、軽く、置いた。


「いい天気ですね」


「ええ。──春が、まだ、続いていますね」


「春は、長い、と、いいですね」


「はい」


二人は、しばらく、薔薇のアーチを、見ていた。


ジルベストの【魅惑】は、彼の体から、完全に、消えたわけではなかった。

彼が、王都の街中を歩けば、すれ違う人々が、わずかに、彼を見て、頬を紅潮させる現象は、まだ、起きた。

だが、公爵邸の中では、それは、もう、ほとんど、起きなかった。

エルナの【魔力無干渉】が、邸全体に、薄く、滲んでいた。

邸の使用人たちは、皆、自分の意思で、ジルベストを「公爵様」として、敬っていた。

誰も、彼に、惚れていなかった。

それは、ジルベストにとって、生まれて初めての、健康な人間関係だった。


「奥様」


「はい」


「もう、二年ですね」


「ええ」


「私は、貴女に届いた、たった一人の男になれた気が、します」


エルナは、わずかに、笑った。

そして、彼の素手の上に、自分の指を、絡めた。


「公爵様」


「はい」


「もう、ずっと前から、なってますよ」


ジルベストは、しばらく、彼女の横顔を、見ていた。

それから、自分も、薔薇のアーチに、視線を、戻した。


風が、静かに、吹いていた。

庭の薔薇は、誰の魅惑も借りずに、自分の意志で、咲いていた。


マリエッタが、二人分の茶器を、運んできた。

銀のお盆の上で、湯気が、薄く、立っていた。

マリエッタは、それを、ベンチの脇の小さな丸テーブルに、置いて、軽く、礼をして、退いた。


エルナは、茶器を、取った。

温かい、薔薇水の香りがする紅茶を、口に、含んだ。


「この、お茶」


「はい」


「これを、最初に、屋敷でいただいたのは、私が、ここに来た日の、夕方でした」


「……ええ」


「あれから、二年が、経つのですね」


「はい」


「私は、屋根裏に、いた頃の自分を、まだ、覚えています。

ですが、屋根裏に、いた頃の自分は、いまの自分と、もう、別の人間のように、感じます」


ジルベストは、しばらく、答えなかった。


それから、ゆっくりと、彼女の手の上の自分の素手を、軽く、握った。


「奥様。

人は、変わります。

特に、奪われていたものを、取り戻した者は、強く、変わります」


「……」


「貴女は、ご自分で、ご自分を、取り戻されました。

それは、貴女の、お母様への、最大の、お礼ですよ」


エルナの瞳の縁に、わずかに、光が、滲んだ。

だが、それは、悲しみの光ではなかった。


エルナは、首から下げていた、母の指輪を、片手で、軽く、握った。

水色の小石は、二年前と同じように、春の光を、返した。


──私の、もの。


エルナは、もう、その言葉を、屋根裏のときのように、必死で、握りしめなくなっていた。

今は、その言葉が、彼女自身の中で、当たり前の事実として、息づいていた。


風が、もう一度、吹いた。

薔薇のアーチの花弁が、ふっと、いくつか、舞い散った。

舞い散った花弁の、数枚が、エルナの肩のショールに、軽く、留まった。


ジルベストは、それを、素手で、丁寧に、払った。


エルナは、彼の素手の動きを、見て、わずかに、笑った。


「公爵様」


「はい」


「私は、ようやく、自分の家に、帰ってきた気が、します」


「……奥様」


「それは、屋根裏ではなく、ヴァイス侯爵家でも、ありません。

このお庭、この邸、この、貴方様の、隣です」


ジルベストは、彼女の素手を、両手で、包んだ。


「ええ」


「ここに」


「ええ」


二人の素手は、ベンチの上で、長く、絡まったまま、動かなかった。


公爵邸の庭の、薔薇は、自分の色で、咲いていた。

誰の魅惑も、借りずに。

誰の魅了も、効かせずに。


そして、二人の隣には、ようやく、自分自身を、生きる人間たちが、暮らしていた。


二年前、契約結婚の朝に、立ち上がった、ふたつの署名。

あの紙は、いまも、書斎の引き出しに、保管されていた。

だが、もう、誰も、それを、開けなかった。


代わりに、もう一年前の、二枚目の紙──「契約ではない結婚の誓書」──は、書斎の机の上の、目に見える場所に、置かれていた。

燭台の灯を、毎晩、わずかに、返していた。


二人の今の、毎日の生活は、そこから、始まっていた。


そして、終わるところは、まだ、ずっと先の、見えない場所に、あった。


その先まで、二人は、隣で、共に、歩いていく。


革手袋なしの、素手で。

誰にも、届かなかった声と、誰にも、届けられなかった声で。


互いだけは、安全な、ふたりの、これからの、毎日として。


---


【完】

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