1話
「陛下、王妃殿下が国内に入られたと連絡がありました」
「そうか」
スーベニア聖国にいたエリナが帰国の途に就いたという報告を受けてから、国内に入ったという報告が来るまでさほど期間はなかった。伝達の時差があるのだから実際の移動速度と違うのは当然だ。
ペンを置きながらアルヴィスは椅子の背もたれに身体を預け、深く息を吐く。
「到着が待ち遠しいか?」
「あぁ、そうだな」
「お前も根を詰めすぎるなよ。王妃殿下が帰城ならされたら少しは休め」
「気持ちだけ貰っとくよ、レックス」
執務机の前に腰に手を置きながら呆れ顔をするレックスに、アルヴィスは苦笑しか返せない。何せ、机の上には沢山の書類や資料の束が置いてある。この状態で休めるわけもなかった。公国や聖国のこと、瘴気のこともそうだけれど、直にやってくる行事のための準備もしなくてはならない。
「ったく……だがまぁひと月半後にはお前の誕生日だからな。先代からひと月伸びたとはいえ、配置換えが多々あったことから考えると、賞与云々はその加減が難しいのか」
国王となったアルヴィスの誕生日は、国の行事として名を変えた。国王の生誕祭として。そしてその生誕祭では賞与や報酬の授与が行われる。昨年もその対象者を絞るために翻弄したことも思い出し、アルヴィスは懐かしさに目を細める。あれはあれで大変だった。けれど今年はあの時ほどではない。
「それはさほど問題じゃないんだ。新配属先での功績は一年の間評価対象外となる。そもそも評価のしようがない。よほどの功績を上げない限り気にするところではないし、それぞれの上役の判断を支持するだけだ」
配置換えが行われたのはアルヴィスが戴冠した直後。そこからまだ半年も経っていない。この状態で功績など上げることの方が難しい。だからその対象者を絞りこむことに手間取っているわけでも、悩んでいるわけでもない。ただ頭を悩ませているのは警備面だった。
ウェーバー公国が公都を放棄したのは記憶に新しい情報だ。既に耳が早い民の中には知っている者もいるかもしれない。暗い雰囲気を払拭するためにも、生誕祭は無事に終わらせなければならない。人々の不安や恐怖、負の感情が瘴気の力になるのであればなおのことだ。
そんなアルヴィスの言葉を聞いたレックスは首を傾げる。
「警備面たって、王都周辺は特に異常は起きていないだろ。国内でもそういった報告はまだないし……」
「現時点ではな」
「アルヴィス?」
「ルベリアにはルシオラの加護もある。俺という契約者がいる限りそれが崩れることはないと思いたいが、それでも絶対はない。不安要素は少しでも減らしておきたい」
多くの人々が瘴気を自然現象だと捉えている。ゆえに発生源が変わって居たり、発生量が多かったりすれば何かしらの異常が起きていると考える。それは当たり前のことだ。だがアルヴィスは知っていた。瘴気の発生が人為的であるということを。きっかけを与えれば、人々の負の感情がそれを増幅させる。あとは人々の不安を煽るだけでいい。それだけでウェーバー公国の公都のような結末を迎えるだろう。
「ウェーバー公国で起きたことがここルベリアでも起きかねないってアルヴィスは思っているのか?」
「それはない」
「即答だな。何故だ?」
「レックス、お前はこの状況に違和感を抱かないか?」
「違和感?」
アルヴィスは椅子から立ち上がり、大きな窓へと近づいた。そこから城下の街並みは酷く遠く感じる。人の姿など見えないし、夜に僅かな篝火が街を照らす有様を映すくらいでしか、人々の存在を感じることはできない。だがそこには多くの人々が住んでいる。守るべき民たちの営みがある。
「マラーナの宰相が言っていた。ルシオラの加護がマラーナにはないと」
「……そりゃ信仰自体もないし当然だって」
「袂を分かったウェーバー公国には教会もあるし、ルシオラの像だってある。それでも瘴気は広がり、その強さが一つの都を覆ってしまった。元マラーナ王都も似たような有様で、動ける人々は故郷を捨てている。そしてマラーナの隣国であるルベリアにそのような兆候は見られない。帝国とウェーバー公国、元マラーナとの国境には瘴気が迫っているという報告も上がっている。マラーナの土地に残っている人々は動けない者や、その土地を捨てられない者たちだ」
「何が言いたいんだ、アルヴィスお前は」
窓枠に手をかけながら、アルヴィスは振り返る。レックスは眉を寄せて不機嫌さを隠していなかった。本題を早く言えと、その表情が告げている。
「ルベリアは守られている。ルシオラの加護を持つ王がいるから、ルシオラに守られている国だからと。加護がないから瘴気に塗れる。違いは唯一つ。ルシオラの加護を持つ王がいるかいないか。同じように信じてきたはずの女神なのに、その神にとっては加護を与えたルベリアだけが特別だと、そう囁かれたら人々はどう思う?」
「……」
「その信じる心に迷いが生じる。不安が増す。酷いものになれば、ルベリアに対して怨恨を抱く者も出てくるかもしれない」
「極論、すぎるだろ……」
「あぁ。あくまで可能性の話だし、お前の言う通り極論だ。だが、もしそれを扇動するものがいたとしたら、取り返しがつかないことになりかねない」
ルベリア王国にいれば安全と思われれば、人々が押し寄せてくる。逆に恨みを持つ者たちはこの国で騒動を起こすかもしれない。人々がどういった行動を起こすのかまではアルヴィスも見通すことは無理な話だ。だから最悪を想定して動かなければならない。かといってアルヴィスに出来るのは、国民の不安を取り除くことくらい。
そして必要であるならば、アルヴィス自身が赴き人々の目の前でルシオラの加護を使って見せなければならないだろう。神霊水を使い、瘴気を消すような姿を見せつけなければならない。一種のパフォーマンスでしかなくとも、アルヴィスには国王とルシオラの契約者という二つの肩書がある。ただそれはあまりアルヴィスが好む形ではない。本当に最終手段だ。
「まぁ本気にしなくてもいいさ。あくまで俺が考える最悪だ。ただ今は民に不安を与えるような真似はしたくない。せめて楽しめる時には楽しんでもらいたい。他国のことまで、俺には責任が持てないからな」
「そりゃまぁそうだけどよ」
「すまん、惑わせるようなことを言ったな。忘れてくれ」
このようなことをレックスに告げたところで何も変わらないし、レックスを不安にさせるだけだ。本気でそう考えているわけではないとアルヴィスは笑みを浮かべながら、再び執務机の椅子へと座った。仕事はまだ終わっていない。
書類を一枚手に取り、アルヴィスは内容に目を通す。問題はないと確認したところで、ペンを取り署名をした。
「アルヴィス、お前が考えすぎなんて俺は思わない。それを考えるのもお前の仕事だろうし役割だ。でも……」
バンと机の上にレックスが音を立てながら両手を突いた。あえて音を立てるようにしたのだろう。アルヴィスは手を止めてレックスを見上げる。
「一つだけ覚えておけ。俺たちが信じているのは女神じゃない。お前だ」
「レックス?」
「ルベリア王国が瘴気に塗れず不安を抱かずにいるのは、お前が王だから。皆がお前を信じているからだ。それを忘れるな」
「……」
レックスの真剣な眼差しにアルヴィスは目を瞬いた。そしてその意図に気づき、次に笑い声を漏らした。
「おい、俺は真面目に言ってんだけど」
「わかってるって。ありがとな、レックス」




