第92話 お前の娘は、何だ
翌朝、門の前に二人がいた。
ミラはいつも通り籠を抱えていた。そして、その籠を少し離れた場所から、エルフィーナが見ていた。門の柱の陰から。
ミラは気づいていなかった。
「レオン! 今日は女将さんが、切れ端をいつもの倍くれた。理由は聞かないで」
ミラは包みを押しつけるように渡した。渡してから、私の後ろの柱の陰に気づいた。
「……あれ? エルフの人?」
「エルフィーナだ。……学院の。俺の、その、共同研究の」
「へえ! エルフの人、初めて見た!」
ミラは籠を抱えたまま、柱の陰へ歩いて行った。ためらいが、まったくなかった。
エルフィーナは柱の陰から出てこなかった。ミラが彼女の前に立った。背丈は、ミラのほうが頭半分低い。
「ミラです。下町の、銀のスライム亭の。……レオンの弁当、食べました?」
「……食べた」
「おいしかった?」
エルフィーナは答えなかった。答えるかわりに、ミラを見ていた。上から下まで。栗色の髪。煤のついた頬。腕の籠。裸足に近い、底の薄い木の靴。
そして、彼女の指先が空を撫でた。
精霊への問いかけだ。私はそれを見ていた。彼女の指は、ミラの肩のあたりの空を撫でた。
指が止まった。
止まって、震えた。
エルフィーナの顔から色が引いた。エルフの白さではない白さ。禁書棚で「精霊は人の挑戦の熱で動く」を読んだときと、同じ白さだった。
「……お前」
声が掠れていた。
「……お前は、何だ」
ミラはきょとんとした。
「何だって、……ミラですけど。食堂の」
「精霊が」
エルフィーナは指を引いた。引いて、自分の手を見た。まだ震えている。
「精霊が、お前の周りにいる。……三日、答えなかった精霊が、お前の周りにはいる。何体も。……森にいるときより、多い」
ミラは自分の肩を見た。それから、反対の肩を見た。何も見えない。私にも何も見えなかった。
「……え? 精霊って、エルフの人の、あれですよね。魔法の。……私、資格、ないですけど」
資格、ない。
エルフィーナの目が、ミラの頭上を見た。彼女には図鑑がない。ステータスは見えない。
だが、彼女は祖父の言葉を知っていた。資格欄に何も表示されぬ者に会ったら、近づくな。理由は言えぬ。
彼女は一歩下がった。
ミラはそれを見て――笑った。
いつもの笑いだった。厨房の窓から「受験生でしょ」と叫んだときの。路地でパンをちぎったときの。
「エルフの人、怖い顔しないで。……私、なんにもしないよ。麦粥、作ってるだけ」
彼女は籠からもう一つ包みを出した。
「はい、これ。エルフの人の分。今日、倍くれたから、二人分あるの」
エルフィーナは包みを見た。見て、受け取らなかった。
受け取れなかったのだと思う。彼女の手は、まだ震えていた。
ミラは包みを私に押しつけた。
「じゃ、レオンから渡して。……行くね。炊き出しの、二回目」
彼女は坂を降りていった。栗色の髪が、朝日の中で揺れた。籠を持ち直す拍子に、片方の肩が少し下がる。いつもの歩き方だった。
エルフィーナはその背中を見ていた。ずっと。坂の下に消えるまで。
「……レオン」
彼女は背中を見たまま言った。
「お前の娘は、何だ」
お前の娘。その言い方に、私は少し驚いた。
だが、訂正しなかった。訂正する言葉が見つからなかった。
「……分かりません。資格欄が『対象外』と表示されます。他の誰にもない表示です。……隠しステータスの、挑戦力が九十五です」
「九十五?」
彼女が振り向いた。
「……お前は、いくつだ」
「四十二」
「私は」
「……見ましたが、言っていいのか」
「言え」
「四十八」
彼女は黙った。黙って、私の手から包みを取った。取って、坂のほうを見た。
「精霊は、人の挑戦の熱で動く。……あの娘の周りに、精霊が集まる」
彼女は包みを開けた。麦粥。一口、食べた。
「……祖父は、近づくな、と言った。理由は言えぬ、と」
二口。
「……近づく。理由を聞きに行くのは、その後だ」
三口。
彼女の魔力は九十五に戻っていた。図鑑で確かめた。確かめて、板に書いた。
『エルフィーナ、三口で全快。精霊、ミラの周りに集まる。挑戦力、九十五』
その行の下に、私は線を引いた。線の先に何を書くべきかは、まだ分からなかった。
だが、その線はもう、細くはなかった。
(第二部 第四章 了 / 第五章「魔法士試験と魔導気象士」に続く)




