第9話 相手の軌道の終点に剣を置く
「腹、減った」
五日目の朝、ペーターがそう言ったとき、リーゼは弟の枕元で、音を立てて泣いた。
下痢は四日目に峠を越えていた。匙一杯ずつの塩入り湯冷ましを、リーゼと母親とヒルダが交代で、文字通り百回以上運んだ結果だった。私は納屋に戻って、誰にも見られずに、少しだけ泣いた。
前世で百七枚の合格証を受け取ったとき、私は一度も泣かなかった。
変な世界に来たものだ、と思った。
ヒルダ婆は帰り際、戸口で足を止めて、こう言った。
「小僧。あの水の作り方、もう一度言ってみな」
私は言った。沸かす。冷ます。塩をひとつまみ。麦の上澄み。匙で少しずつ。
婆は三度うなずいて、何も言わずに帰っていった。後で知ったが、その日から彼女は、自分の小屋の壁に、炭で何かを書き始めたらしい。
◇◇◇
「――で。あんた、打ち込み役が欲しいんだって?」
六日目の夕方、雑木林に現れたのはリーゼだった。腕を組み、いつもの仏頂面。ただし、その後ろに、村の若い男衆が三人、木剣代わりの棒を担いで、にやにやしながら立っていた。
「トマスたちに声かけといた。……ペーターの、その、礼とかじゃないから。あんたが本番でみっともなく負けたら、村の恥だからよ」
村の恥、の使い方が完全に間違っている気がしたが、指摘はしないでおいた。
「おい、レオン。俺ら、お前を殴っていいのか」
「殴ってください」
「変な趣味だな」
「違います」
こうして、夕暮れの雑木林で、奇妙な鍛錬が始まった。ルールは単純。男衆が打ち込み、私はひたすら受けるか、躱す。私からは打たない。男衆は最初、「殴られ役を買って出た変な奴」を面白がっていた。
そして私は、面白がられながら、観察した。
トマスは打ち込む直前、必ず右肩がわずかに上がる。ハンスは大振りの前に、左足のつま先が開く。無口なゲルトが一番読みにくかったが、彼は打つ前に、息を止める。胸の動きが止まるのだ。
牛と同じだった。人は、動く前に、必ず動いている。
『物理予測 Lv1』が、観察を重ねるほど滑らかに回り始めた。肩、つま先、呼吸。兆しを拾い、軌道を予測し――そして最初の数日、私は予測できているのに、避けきれなかった。頭が「右に来る」と分かっても、筋力6の足が間に合わない。額と腕に、青痣が増えた。
「あんた、分かってて食らってない? 気味悪いんだけど」
リーゼの指摘は正しかった。予測は、速さでは活かせない。なら、どう活かす。
答えをくれたのは、またしても牛だった。牛を止めるとき、私は牛の前に回り込まない。牛が「これから体重を乗せる場所」に先回りして、声をかけるだけだ。
(避けるんじゃない。回り込むんでもない。……最初から、そこに居ればいい)
◇◇◇
七日目の夕暮れ。
トマスの右肩が、上がった。中段、袈裟がけ。軌道の終点は、私の左肩口。
私は動かなかった。正確には、半歩だけ右足を引き、身体を斜めにし、そして左手の木剣を――彼の棒が「これから通る道」の途中に、そっと、置いた。
乾いた音がして、トマスの棒は私の木剣を滑り、勢いのまま流れて、空を切った。体勢を崩したトマスの脇腹に、私の木剣の切っ先が、触れるか触れないかの距離で、止まっていた。
雑木林が、静まり返った。
「…………今の、何?」
トマス本人が、一番呆けた顔をしていた。私は正直に答えた。
「トマスの剣が通る場所に、先に剣を置いただけだ。当てたんじゃない。……当てられないからな、私は」
男衆が顔を見合わせ、それから、どっと笑った。集会所の夜とは、違う笑い方だった。
「なんだそりゃ! 剣術かそれ!」「ゲルト、お前もやられてこい!」「レオン、俺の癖も教えろ、直すから!」
ゲルトは三度やって、三度流された。四度目に、彼は打つ前に息を吸った。読まれない工夫を、自分で見つけたのだ。その四度目は、私の肩にきれいに入った。痛かったが、嬉しかった。教材が、勝手に成長していく。
雑木林の端に、小さな影が増えていた。
ペーターが、姉の背中に隠れるようにして、こちらを見ていた。病み上がりの頬に、夕日が当たっている。
「兄ちゃん、今の、もう一回!」
「もう一回は難しい。トマスが同じ打ち方をしてくれないと」
「トマス兄ちゃん、同じのやって!」
「お前の兄ちゃんに癖を読まれてんだよ俺は!」
トマスがぼやき、男衆が笑った。
八日目には、見物が六人に増えていた。十日目には、村長が通りかかって、立ち止まって、三十秒ほど見てから、何も言わずに歩いていった。
笑いはまだあった。ただ、笑いの後に「で、どうやってんだ」が付くようになった。
◇◇◇
その晩のステータス画面には、二つの変化があった。
・『物理予測 Lv1 → Lv2』
・『剣術 Lv0 → Lv1(見習い)』
剣術Lv1。当てられない男の剣術が、システムに認められた瞬間である。基準がガバガバなのか、それとも懐が深いのか。私は後者だと思うことにした。
考えてみれば、Lv1がついたのは、剣が上手くなったからではない。十日間、三人の癖を観察して、分類して、書き留めたからだ。システムは、腕ではなく、積み上げを見ている。
だとすれば、この祝福は、私に都合がよすぎる。
(神が「異常値」と言ったのは、たぶん、こういう形で効くのか)
十一日目、トマスが鍛錬の後に残った。棒を肩に担いだまま、言いにくそうに言った。
「レオン。……俺の癖、紙に書いてくれ」
「紙は高いぞ」
「書いてくれたら、麦の袋で払う。……俺、来年、剣士受けるつもりなんだ。三千Gは、親父が鍛冶場の鍬で貯めてる」
鍛冶屋の長男が、剣士を受ける。寄り合いで五十人に笑われた話を、彼は一度も笑っていなかった。
「書く。右肩が上がる癖と、直し方を」
「直し方も分かるのか」
「分からない。一緒に探す」
鍛錬の帰り道、リーゼが牛を引きながら、前を向いたままぼそりと言った。
「ペーター、あんたに会いたがってる。元気になったら、剣、見せてやってよ」
「私の剣は、見ても面白くないぞ。当たらないし」
「いいのよ」
牛の鼻息が白く上がった。彼女は少しだけ歩く速さを落とした。
「当たらないのに負けない剣なんて、あの子、絶対好きだから」
当たらないのに、負けない剣。
悪くない、と思った。墓碑銘には、したくないが。




