第8話 ペーターの腹痛
計画は、三日目で中断された。
朝、井戸端に行くと、空気が違った。女たちが固まって、ひそひそと声を交わしている。輪の中心にリーゼの母親がいて、目の縁が赤い。
「ペーターが、昨夜から水みたいなのを、もう何度も」
背中の産毛が、ざわりと立った。
◇◇◇
リーゼの家に着くと、土間の奥の藁布団に、七歳の男の子が横になっていた。頬がこけ、というより萎んで見えた。唇が乾いて白い。傍らのリーゼが、濡らした布で弟の額を拭いている。
土間の隅に、もう一人いた。小さな老女が、乾いた草の束を膝に置いて座っている。薬草婆のヒルダだ。村で産婆と看取りと薬湯の三つを引き受けてきた老女で、私はまだ、口をきいたことがなかった。
「……何しに来たのよ」
リーゼの声には、いつもの棘の代わりに、疲れが刺さっていた。一晩中、看ていたのだろう。
「様子を見に。……ペーター、水は飲めてるか」
「飲んでもすぐ出ちゃうのよ。だから母さんが、もう飲ませるなって」
飲ませるな。
私は一瞬、目の前が暗くなった。
「婆さまが、そう言ったんだ。飲ませると、戻す。戻すと、もっと弱る」
ヒルダが、嗄れた声でそれを引き取った。責めてほしそうな声ではなかった。ただ、事実を置く声だった。
「五十年、そう言ってきた。……五十年、そうやって看取ってきた」
下痢の子どもから水を絶つ。善意で、看病の知恵として、この村では代々そうしてきたのだ。脱水で死ぬのは下痢そのものではなく水が足りないからだ、という一行が、この村にはまだ届いていない。
届いていないだけで、人が死ぬ。
医局にいた二年目の夏、同じことを、私は病棟で見た。高齢の患者が点滴を嫌がり、家族が「無理に入れなくても」と言った。私は上級医の顔色を窺って、押し切れなかった。その患者は徐々に衰弱していった。カンファレンスで、上級医は私を立たせて言った。「君は、何のためにここにいるんだ」。
答えられなかった。あの日から、私は白衣を着るのが怖くなった。
だが今、白衣はない。上級医もいない。あるのは、七つの子どもと、乾いた唇だけだった。
「リーゼ。頼みがある。……頼みが、三つある」
「は?」
「一つ。水を飲ませてほしい。ただし生水じゃなく、一度しっかり沸かして、冷ましたやつを。二つ。その水に、塩をひとつまみと、蜂蜜か、なければ麦の煮汁を少し混ぜてほしい。三つ。飲ませ方は一気にじゃなく、匙で、少しずつ。何度でも」
リーゼの眉が、険しく寄った。
「あんた、この前もそんなこと言ってたわね。沸かせだの何だの。あのね、薪は」
「薪は私が割る。今日の分も、明日の分も」
「母さんが飲ませるなって」
「飲ませないと死ぬ」
言ってしまってから、しまった、と思った。リーゼの顔から、すっと色が引いた。土間の奥で、母親がこちらを見た。
沈黙。囲炉裏の薪が、ぱちりと爆ぜた。
「なんで、あんたにそんなことが分かるのよ」
リーゼの声は、震えていた。怒りと、それより大きな、藁にも縋りたい何かで。
なんで分かるのか。前世で医師免許を取ったからです、とは言えない。行き倒れの記憶喪失少年に、積み上がった説得材料は何一つない。資格も、肩書きも、この村での十五年の信用も。
だから私は、持っているものを全部、床に並べるしかなかった。
「分からない。……確信は、ない。でも、腹を下して死ぬのは、悪いものが腹にいるからじゃなくて、身体から水と塩が抜けきるからだ。だったら、抜けた分を、腹を壊さない水で返してやればいい。理屈は、それだけだ。理屈しか、私にはない」
リーゼは、長いあいだ私を睨んでいた。
先に動いたのは、ヒルダだった。
老女は膝の草束を床に置き、よいしょ、と立ち上がり、囲炉裏の鍋に手を伸ばした。
「……婆さま?」
「塩をひとつまみ、と言ったね。小僧」
「はい」
「戻したら、待って、また飲ませる。それも言ったね」
「はい」
ヒルダは鍋を火にかけた。それだけで、土間の空気が変わった。五十年看取ってきた老女が鍋をかけたのだから、この家の誰も、もう止められない。
「あたしは五十年、腹下しの子に水を飲ませなかった。……飲ませた年が、一度でもあったかどうか、思い出せないんだよ」
彼女は火を掻きながら、こちらを見ずに言った。
「思い出せないってことは、やってないってことさ。やってないことは、効かないとは言えない」
彼女は鍋の湯が立つのを待ちながら、灰を掻いた。
「小僧。あたしの小屋に、帳面がある。腹下しの子を、何年に何人看たか、五十年、書いてきた」
「……読めるんですか」
「読める。婆さまに叩かれて覚えた。村で読める女は、あたしと、村長の死んだ嫁さんだけだったよ」
リーゼが立ち上がり、土間の隅の薪の山を顎で示した。
「割りなさいよ。今すぐ。話はそれから」
◇◇◇
その日、私は薪を割り、湯を沸かし、冷まし、塩をひとつまみ落とした。蜂蜜はなかったので、麦を煮た上澄みを混ぜた。前世の経口補水液の、遠い遠い親戚である。リーゼが匙で、一口ずつ、弟の口に運んだ。吐き戻したら少し待って、また一口。
◇◇◇
夜、私は自分の納屋には戻らず、リーゼの家の土間の隅で薪を割り続けた。割りながら、頭の中では、ずっと同じ問いが回っていた。
(水だ。原因は、ほぼ間違いなく水だ)
ペーターは生水を飲む癖がある。井戸の横には汚水溝。ここ数日は雨が続いた。溝は溢れただろう。
湯冷ましと塩で、ペーター一人は、もしかしたら保つかもしれない。だが井戸が汚れている限り、次の子が出る。来年も、再来年も、「そういうこともある」が続く。
図鑑を開く。『下水清掃士(E級)』。受験料五百G。試験地は領主町ブレナ、剣士試験と同じ春の試験期。教本の要点が、公開分だけ図鑑に載っている。
『汚水溜への生石灰の散布は、悪臭と病の元を抑える。
井戸との距離は二十歩以上を保つこと』
二十歩。うちの村は、十歩だ。
斧を振り下ろす。薪が割れる。
剣士資格は、私が生き延びるための資格だった。だが今夜、受けたい資格が、もう一つ増えた。誰のためかと聞かれたら、答えられる資格が。
「……レオン」
土間の奥から、リーゼの声がした。顔は見えなかった。
「薪、まだある?」
「ある」
「……割って」
匙が小さな唇に触れる音が、夜通し、規則正しく続いていた。




