第89話 司書グリムヒルド
私は、その書き込みを指で隠した。
隠したのは反射だった。エルフィーナに見せてはいけない、という判断は後から来た。
彼女はこの文字を読めない。読めないが、「読めない文字がある」ことには気づく。気づけば聞く。誰が書いた。何と書いてある。お前はなぜ読める。
答えられない。まだ。
「……署名は、ありません」
私は言った。嘘ではなかった。署名ではなかった。書き込みだった。
「そうか」
エルフィーナはそれ以上聞かなかった。彼女の頭はまだ、「精霊は人の挑戦の熱で動く」の一行に留まっていた。羊皮紙の同じ場所を、さっきから何度も指でなぞっている。
私たちは本を書架に戻し、柵を出た。
グリムヒルドが柵の脇の小さな机に座っていた。机の高さが彼女の背丈に合わせて切り下げられていて、脚の切り口がまだ新しかった。彼女は私の顔を見た。
「……何か、見つけたね」
私は答えなかった。彼女は答えを待たなかった。
「この棚の本は、千二百年前に学院の創設者が集めたことになってる。……嘘だ」
彼女は灰色の髭を撫でた。皺だらけの指に、古い火傷の跡がいくつもあった。
「創設者が集めたのは五十冊だ。残りの五十冊は、五百年前に一人の人間が持ち込んだ。エルフの森から写して。……人間がエルフの森で、二千年前の本を写せるものかね。私は二百年、それを考えてる」
五百年前。一人の人間。
「……その人は、何という名前ですか」
「名は記録にない。記録には『上町の下水を作った男』とだけ。……ドワーフの工匠評議会が、彼を認めた。石の積み方がドワーフのものだったからだ。人間にあんな石は積めん」
彼女は机の上の古い帳面を開いた。ドワーフ語だった。角の多い、刻むような文字で、私には読めない。
「私はその頃、グラムハイムにいた。まだ若かった。……鍛冶の親方になりたかった。女のドワーフは親方になれん。評議会が認めん。机の資格なら、人間の資格院で取れる。だが、ドワーフの資格は机では取れん。手で取る。手で取る資格を、女には受けさせん」
彼女は帳面を閉じた。閉じる音が、吹き抜けに小さく響いた。
「それでグラムハイムを出た。二百年前だ。……あの人間が下水を作った、百年後だ。彼の石を見に来た。見て、ここに留まった。石はいい仕事だった。だが、下町には届いていなかった」
彼女は私を見上げた。
「お前、下水清掃士だね。ヘルガが言ってた。……あの下水口の字を、見たか」
私は頷いた。
「読めたか」
私は答えなかった。彼女はまた、答えを待たなかった。
「……机では取れん資格がある。手で取る資格だ。ドワーフはそれを誇りにしてる。誇りにしすぎて、女には受けさせん。人間は机の資格を誇りにしすぎて、手を忘れた。……エルフは単語を覚えすぎて、骨を忘れた」
彼女は柵に鍵をかけた。腰の鍵束が鳴った。
「お前は、どれだ」
私は少し考えて、答えた。
「……全部、取りたいと思っています」
グリムヒルドは鼻を鳴らした。それがドワーフの笑い方だと、私は後で知った。ガルムの笑いともバルドの笑いとも、音の鳴る場所が違った。
「机も、手も、単語も、骨も、全部か。……欲張りだね。……五百年前のあの男は、そうじゃなかった。あの男は、最強を取りに行った」
彼女は机に戻って、腰を下ろした。
「取りに行って、帰ってこなかった。下水は上町で止まった。……お前は、止めるな」




