第88話 精霊は人の挑戦の熱で動く
その本は、薄かった。
黒い革の表紙で、手に取ると思っていたより軽かった。中は三十枚ほどの羊皮紙。文字は曲線の古代エルフ語で、ところどころに図が入っていた。
枝の図だった。エルフィーナの術式の枝によく似ている。だが、その枝の根元に、彼女の枝にはないものが描いてあった。炎のように揺れる線。細く、何本も、上へ向かって。
私は骨を拾った。エルフィーナが単語を嵌めた。
二人でかかって、一枚に一刻。禁書棚の中には椅子が一つしかなく、私は床に座って本を膝に載せた。グリムヒルドが柵の外から、時々、灯りの油を足してくれた。
三枚目の真ん中で、私の手が止まった。
動詞、「動く」。主語、「精霊」。目的語はない。かわりに手段を示す語がついていた。「○○によって」。その○○は、三つの語でできていた。
「人の」
これは分かった。昨日の贈答文書にもあった語だ。
「挑戦の」
この単語はエルフィーナが嵌めた。現代語にもある。「挑む」の名詞形だという。
「熱」
通訳士試験で、私が形から当てた単語だった。
「――精霊は、人の、挑戦の、熱によって、動く」
声に出して読んだ。読んでから、二人ともしばらく黙っていた。灯りの芯が油を吸う音だけがしていた。
「……違う」
エルフィーナが言った。
「精霊は契約と魔力で動く。エルフは精霊と契約する。契約した精霊に魔力を送る。精霊はその魔力で動く。……三千年、そうだ。教本にそう書いてある。祖父がそう言う」
「この本は、そう書いていません」
「この本が間違っている」
「二百年、誰も読んでいない本が間違っていると、誰が確かめたんです」
彼女は言葉に詰まった。詰まって、羊皮紙に目を落とした。
私は次の行を読んだ。骨を拾い、分かる単語を嵌めていく。「人の、挑戦の、熱は、○○に、集まる」。○○は二語。「世界樹の、根」。
「……熱は、世界樹の根に集まる」
次の行。「根は、熱を、脈に変える」。
次の行。「脈は、精霊に、届く」。
私は羊皮紙から顔を上げた。
エルフィーナの顔は白かった。エルフの肌はもともと白い。だが、その白さとは違った。血の引いた白さだった。
「……人が挑戦する。その熱が世界樹の根に集まる。根がそれを脈に変える。脈が精霊を動かす」
繋げて、そこで止めた。その先は言わなかった。言わなくても、彼女は分かっていた。
根の脈が弱い。
精霊が動きにくくなっている。
そして、人が――
「……人が、挑戦をしなくなった、ということか」
エルフィーナが言った。声が掠れていた。
「三千年前のこの本の言い方が正しければ。……人が挑戦をやめれば、樹の脈が弱まる。脈が弱まれば、精霊が動かなくなる。精霊が動かなくなれば、エルフの魔法は――」
彼女は言葉を切った。切ったまま、続きを言わなかった。
私は板を出して、その一節を写した。古代語のまま一行。それから共通語で一行。
『精霊は、人の挑戦の熱で、動く』
書きながら、自分のステータスのことを考えていた。
挑戦力、四十二。神が私に与えた四つの隠しステータスのうちの一つ。最初は「試験に挑む意志」のことだと思っていた。ミラの九十五を見てから、「明日何ができるかを考える力」だと思い直した。
その熱が、世界樹の根に集まる。
ミラの、九十五が。
「……レオン」
エルフィーナが言った。
「この本を、誰が書いた」
私は表紙の裏を見た。署名はなかった。
だが、最後の頁の隅に、小さな書き込みがあった。古代エルフ語ではない。曲線の文字ではなかった。
直線と角の多い、小さな文字。
見た瞬間、息が止まった。
日本語だった。
『これは、エルフの、二千年前の、本だ。俺が、森で、写した。――ハル』




