第85話 通訳士、実在する
王立図書館は、上町の、資格院の裏にあった。
学院の図書館より大きく、古く、そして静かだった。靴音が高い天井に跳ね返って、自分の足音に驚くほどだった。
受付には老司書が一人いた。名は名乗らなかった。彼は私の願書を一度見て、それから顔を上げた。
「古代エルフ語通訳士。……今年、三人目だ。三人ともエルフだった」
「はい」
「人間が受けるのは、五十年ぶりだ」
彼はそれ以上驚かなかった。図書館で働く人間は、驚くことに慣れていないのかもしれない。観測所のドリスと同じ顔つきだった。
「翻訳奉仕を希望するのだな。……では、これを」
彼が奥から出してきたのは、羊皮紙の束だった。紐で縛られていて、縁が茶色く変色している。表には古代エルフ語。あの曲線の文字だ。
「三百年前、エルフの使節が持ち込んだ贈答文書だ。誰も読んでいない。……読めたら受験料は免除する。読めなかったら、二千G払って受け直せ」
私は羊皮紙を受け取った。思っていたより重かった。
図書館の隅の机に座ると、エルフィーナが隣に腰を下ろした。
「……お前、本当に一週間で」
「並び方だけです」
この一週間、私は実技場の床にエルフ語の文を書き続けた。
エルフィーナが口で言う。私が共通語に直す。その二つを並べて書いて、比べる。それだけを、朝と夜に繰り返した。木炭で床が真っ黒になって、下働きの老人に文句を言われた。
共通語は「私は、水を、飲む」の順に並ぶ。エルフ語は「飲む、私は、水を」だった。動詞が先に来る。それから主語。それから目的語。
「なぜ、動詞が先なのですか」
「……考えたことがない。エルフは、そう話す」
「エルフは行為を先に言うんですね。誰がやるかは、後だ」
エルフィーナは、少し面白そうな顔をした。炎を見ているときと同じ顔だった。
「……人間は、誰がやるかを先に言う」
「はい。それが俺の三角形の癖です」
文の並び方が分かれば、単語が分からなくても文の骨が見える。「飲む」の位置にある単語は動詞だ。次の単語は主語。その次は目的語。骨に単語を一つずつ嵌めていき、嵌まらない単語は後回しにする。
日本語教育能力検定で、私はこれを「文法構造の推定」と習った。日本語と英語の骨の違いを、外国人に教えるための知識だった。教えたことは一度もない。参考書を二冊買って、三年目に落ちて、四年目に受かって、それで終わりだった。
こちらの世界で、初めて使った。
三百年前の贈答文書。
私は文の骨を拾った。最初の単語が動詞。「贈る」だろう、とエルフィーナが言った。現代エルフ語と同じ形だった。次が主語で、「森の民」。次が目的語――ここで単語が嵌まらなかった。現代エルフ語にない単語だ。
「……エルフィーナ。この単語、音は」
「……『ユグ・ドラシル』に近い」
「世界樹?」
「古い言い方だ。今は『ユグドラ』と言う。……だが、なぜ贈答文書に世界樹が出てくる」
私は文の骨をもう一度辿った。「贈る、森の民は、世界樹の――」。次の単語。名詞。修飾。
「……『世界樹の、葉』」
三百年前、エルフの使節は王都に世界樹の葉を贈っていた。
文書はまだ続いていた。私は骨を辿り、単語を嵌め、嵌まらないものをエルフィーナに聞いた。二時間で一枚。三枚目の途中で、机の脇に老司書が立っていた。いつから立っていたのか、分からなかった。
「……読めて、いるのか」
「骨は。単語は半分です」
「三百年、誰も骨も拾えなかった」
彼は私の翻訳の写しを取り上げて、読んだ。読んで、しばらく黙っていた。紙を持つ指先が、わずかに震えていた。
「……贈答文書。世界樹の葉、百枚。『王国の、井戸の、浄めのために』」
井戸の、浄め。
三百年前、エルフは世界樹の葉を、井戸を清めるために王都へ贈っていた。
そしてその文書を、三百年、誰も読まなかった。
「……受験料は免除だ。試験は明日。……あの束、全部読んでいけ」




