第83話 まだこの人間から学ぶことがある
翌朝、使者は中庭にいた。
夜明けの薄い光の中で、二人のエルフは昨日と同じ場所に、同じ姿勢で立っていた。緑の衣に露が降りている。夜通しそこにいたのかもしれない。エルフは眠りを必要としないことがある、と図鑑には書いてあった。
エルフィーナは寮からまっすぐ中庭へ来た。足取りに迷いはなかった。緑の目は澄んでいる。眠っていない者の目ではなく、決めた者の目だった。
「返事を」
使者が言った。
「帰らない」
彼女はそれだけ言った。それだけでは足りないと、彼女自身分かっていたらしい。少し間を置いて、続けた。
「まだ、この人間から学ぶことがある」
彼女は私を指さなかった。それでも、中庭の全員が「この人間」が誰なのか分かった。私は鍋の脇に立っていた。鍋には今朝の分の水がもう張ってある。
使者の口の端が上がった。笑いだった。
エルフの笑いというものを、私はそのとき初めて見た。ハルムの集会所の笑いとも、王都の御者の笑いとも違う。もっと静かで、もっと冷たかった。声が一切出ないのが、かえって悪かった。
「人間から。……エルフィーナ・ティルナ。八百年の家の娘が、十六の人間から学ぶ、と」
「十六の人間の三角形は、私の枝に空気の道をつけた。八百年の家が三千年つけなかった道を」
「それを汚染と呼ぶのだ」
「では、汚染されたままでいる」
使者の笑いが消えた。消えると、その顔は能面のように何も残らなかった。
「……元老院長の言葉を、最後まで伝える。帰還せぬなら、ティルナの枝は閉じられる。世界樹の根への立ち入りを禁ずる。……聖域を失うということだ。分かっているのか」
中庭が静まった。学生たちは誰も鍋から目を上げなかったが、誰も手を動かしてもいなかった。
エルフィーナは動かなかった。動かないまま、目だけが一瞬、遠くを見た。中庭の石壁に遮られて、そこからは何も見えない。それでも方角は分かった。大陸の中央。世界樹のある方角だ。
「……根は、脈が弱くなっている」
彼女は言った。使者にではなく、どこか空へ向けて言ったように聞こえた。
「百二十年、あの根に座ってきた。去年より弱い。その前の年より弱い。祖父は気のせいだと言う。……気のせいではない」
それから視線を使者に戻した。
「立ち入りを禁じられて、根に座れなくなるのは惜しい。惜しいが、座っていても脈は戻らない。……私は戻す方法を探しに来た。祖父にそう伝えろ」
使者は長いあいだ黙っていた。それから一礼した。深くない礼だった。身分の下の者に向ける角度の礼だ。
「伝える。……ティルナの枝は、本日をもって閉じられる」
二人のエルフは去った。門を出て、坂を降りて、下町のほうへ。
エルフが下町を通るのを、私は初めて見た。緑の衣が、埃っぽい路地の色の中に小さくなって、やがて見えなくなった。
中庭に、鍋の湯気だけが残った。
「……レオン」
エルフィーナが言った。私を見ずに。
「お前の三角形は、炎の話だった。……精霊はどうだ」
「精霊?」
「精霊も燃えるのか。三角形で説明できるのか。……根の脈が弱い理由が、三角形で説明できるのか」
私は答えられなかった。精霊を見たことがない。エルフィーナの指先が空を撫でるとき、そこに何かがいるらしいことは知っている。だが、それだけだ。知っているのは、いるらしいということだけだった。
「……分かりません」
「では、調べろ。図書館に行く。禁書棚だ」
彼女は鍋の前に立った。手のひらに風の炎。消費魔力、一。
「今日の分を沸かしてからだ」




